田島は期待する
図書館の二階、田島智子は今日も図書館に来ていた。
席に着いてノートを広げる。今日の講義で習ったところまででより分からなくなってしまった、と肩を落とす彼女は先ほどとってきた参考書を広げた。
周りの、一緒に受けている人たちは悠然と授業を受け、授業中に出された問題も難なく解いてしまう。彼女の目には周りがそう映っていた。
教科書の文章は堅苦しくて理解が追い付かない。
授業を真面目に聞いても分からない所は残ってしまう。このままでは単位を落とすかもしれない、その恐怖に怯えて彼女は今日も図書館にある参考書を片手に復習を始めた。
彼女は言ってしまえば要領の悪い人間だった。
大事なところ、テストに出そうなところを含めて全部を理解しないといけないという観念が前提にあり、それをもって大学の講義を受けているのである。
それに合わせて大学に入ってからというもの彼女には友達というものが出来なかった。それは彼女が引っ込み思案でなかなか話すきっかけを作れなかったというものもあるが、何か聞かれた時にうまく返答が出来ず“あ”とか“え”という言葉の次が出てこなかったことが主な原因であった。
友達に聞こうにも聞く友達がおらず、サークルにも入っていないため過去の問題の入手も甚だ難しい、そんな状況下にあって彼女の精神は日々削がれていく一方であった。
授業の帰り、理解の乏しい自分に嫌気がさして何か感情の切り替えがしたいと髪を切りに美容室に行き思い切って髪を切ってみた。しかし切り終って鏡に映る自分に似合っていないなと自虐的な感想しか持てない自分にまた嫌な気持ちが昂っていく。
そんな気持ちを振り払って彼女は美容室を出ると図書館に向かった。
彼女にとっての図書館という場所は、勉強する場所という意味の他にもう一つ大きな意味を持った場所だった。彼女はいつも同じ場所に座る。それは誰かから決められたものではなく、自身がそれを願って行っているものだった。
彼女がその視線に気が付いたのは夏休みが明けてすぐのころであった。
課題で夏休みのほとんどを図書館で過ごすことを強いられた彼女はどちらにしても図書館に行くのは変わりないと半ば開き直って、自主課題に取り組んだ。
その課題も終わり何とかひと段落だと、これから少しの間は図書館に行かなくてもいいかな、なんて思っていた矢先にある視線がこちらに向けられていることに気が付いたのだ。
その視線はわずかな時間であった。数えで言えば一もないほどか、きちんと測ってはいないのでわかりはしないし、一度で気付くには難しいものがある。しかしそれがほぼ毎回ともなれば話はかわる。視線は彼女の右手前方から、時間は無作為に現れた。彼女が知る限り彼女に視線を送る人物は男であり他にと言われれば身長が高いというだけであった。
誰かは知らないが見られているということに最初は彼女も嫌悪感を感じていた。気持ち悪い、と思っていた。しかもいくら経ってもそれ以上の事をしてくることはないのだ。気味が悪くてしょうがなかった。
しかしそれでも、先に言った通り彼女には凡そ友達と呼べる存在がいなかったので、誰かと接点があるという事象に何らかの期待がないわけではなかった。それにもかかわらず彼は何もしてこないのだ。そう思った時から彼女の中で嫌悪感に代わって、彼に対する興味が膨張していった。
”どうして私なんかを見ているのだろう”
そんな疑問から何歳なのか、何をしている人なのか、学生なのか、社会人なのかなど疑問は絶えなかった。
そうした中で彼女にも変化というものがあった。今まではそれほど気にしていなかった服装や髪を気をつけるようにして自分の身の周りを整理するようになったのだ。それは見られている、という意識が彼女を無意識に動かしているもので彼女が自分から積極的に周りを変えようとしたものではなかったが、その変化は後期に入って同じ学科の男子から“あんな子いたか?”といい意味で興味を持たれるほどであった。しかし彼女自身はそのことを知らないため自身の変化については特に何も感じてはいない。
そうして彼女は今日も図書館にて復習をしながら彼の視線を待っているであった。
彼女の今のところの願いは視線を送る彼と視線を交錯させることだ。本棚の向こうにいる彼の事を知りたい、そのためにはもう接触するしかないと思っている彼女であったが、その本棚で待ち伏せをして堂々と彼と面向かって話せる度量は持ち合わせていなかった。
そして考えあぐねた末に編み出したのが目が合えば向こうから何かしてくるかもしれない、というもの。
かなり受け身な考えではあったが彼女なりにこれでも譲歩したつもりで、視線を合わせるなんて恥ずかしいと今でも思っている。しかし彼が何もしてこない以上彼女も強行するほかないと自分に言い聞かせてその時を待っていた。
彼が来る、そう直感が伝えた。周りに視線を走らせ例の彼がいつもの本棚に近づいて来ているのを確認する。只今の時刻八時二十五分。作戦決行まで幾何かという時、彼女は三数えたら顔を上げようと思った。
1……、2……、3!
はっと頭をあげ本棚の向こうにいるはずの人物を捉えようと視線を向かわせる。
確かに、男がこちらを見ていた。
そう、見ていたというのは私を見ているのではなく、ただこちらの方を見ていただけであった。私との視線が交わることはない。
ただ、呆気にとられたような顔で焦点の合わない視線をこちらに向けているだけである。
いつもと違う、彼女はとっさにそう感じた。本棚に隠れて全体像がまだよく見えない、それでも視線の先が合わない矛盾に彼女は恐怖した。
彼女が思案している間に男は動いた。
しかし彼女は考えることでいっぱいで気付かない
男は止まらない
「……前の方が、良かったです」
声が聞こえた。彼女は近くから急に声が聞こえてびくっと体を震わせる。とっさにさっきの男がこちらまでやってきたのだとすぐに理解した。しかし顔を上げる勇気はない。
いきなりの出来事ではあったが聞こえてきた声は自然と彼女の耳に届いていた。
そして頭の中で反芻する彼の言葉にようやく理解が追い付く。
自身の変化について理解できるのは髪だけである。その真偽を確かめるべく、彼女は立ちすくむ彼の方を見た。
彼は体を半身に視線はあさっての方向を向いていた。
どうしてそんな体勢?とも思ったが、恥ずかしかったのだろうかと思うとなんだ自分だけではなかったのか、と少し心が安らいだ。
「あの……?」
不意に出た言葉に自身も驚く。
彼はその言葉に反応するようにこちらを向いた。
「前の方が、良かったですか?」
彼の視線にドギマギしながらもそうつづけた。
少し間をおいて
「えぇ、まぁ」
彼はただそう答えた。
誤字、脱字等ありましたら教えてください。




