波瀬は彼女を思い浮かべる
波瀬の朝は図書館にいる彼女を思い浮かべる事から始まる。
大まかな全体像から次第に輪郭をはっきりさせていき、パーツごとに拡大させてから細部を順に補っていく。それが終わるとそのイメージ図を動かしてみる。本を読む姿に窓の外を眺める姿。
想像力の限界に腹立たしく思うもののこれが今の波瀬の精一杯である。何とか違う動きをさせてみようと模索しているが今のところうまく表現できないでいた。
大学への通学時間には彼女の所在についても思案してみる。彼の住む街の中には計三校の大学があり、それにその内一校には付随する高校、中学があるため街中は学生であふれかえっている。そうであるからして彼女も彼と同じ大学ではないにしても他の大学か、はたまた高校に通っているのではないかと考えているのだ。
そう考えると通学時間に彼女の姿を偶然見かけることがあるかもしれない。彼は周りに怪しまれない程度に周りに目を配り歩き、彼女の姿を探す。
昼下がり、大学構内を歩いていると木村達の集団を見かけた。最近はサークルに行かなくなったが、彼らは元気にしているだろうかと思う。木村は波瀬に気が付くと仲間に断ってからこちらにやってきた。
何だろうか、別段話すこともない。試験前はよくわからない所を聞かれたりするが今はまだ学期の途中である。何か頼み事だろうか、と彼がこちらにやって来るまで少しの間その質問内容について考えた。
「よう!なんか久しぶりだな」
木村がそういって肩に手を置く。
「そうか?前にもあったじゃないか」
肩にのせられた手を軽く払いながら木村に返答した。
「前って一か月近くあってないと思うぞ?」
「学科が違うんだ、そんなもんだろうよ。」
そこで会話が途切れた。木村はなにか話題を探しているのかそわそわしてせわしない。
「んじゃあ……」
何もないならば、と木村との距離をあけて別れの口上でも垂れようかという時に木村は唐突に口を開いた。
「なあ、波瀬!お前、もうサークル来ねえの?」
少し間を置く。しかし波瀬自身のなかで既に答えはきまっていた。
「うーん、わからない。気が向いたら行くよ」
「そうか、待ってるからな。お前がいねえと相手がいないんだよ」
そう言うと木村は苦笑いを浮かべた。そういえばサークルに通っていた時はいつも木村とラリーをやっていたなと思い返す。
「まぁ、そのうちな」
そう言うと波瀬は木村の後ろをちらりと見る。後ろでは木村を待っているのか、数人がこちらの様子をうかがっていた。
それに気が付いた木村がはっとした顔をして肩掛けのラケットの位置を上げる。
「それじゃ、またな」
「おう」
そうして木村と別れて再び構内を歩き始めた。彼らは全員軽装でラケットを持っていたからたぶん今から練習に行くのだろう。確か彼らの中に同じ学科のやつがいたはずだが、今からの講義は自主休講でそちらに行くようだ。
前期までは同じようなことをやっていたが今はそんな事をやる気にはなれない。出席を取るわけではないので出なくても後から他人のノートを借りればいいのだがそれでは内容がうまく理解できないのだ。その辺は波瀬自身の問題であるから自主休講の彼にどうこういうものではなかった。
講義を受けながらも波瀬は彼女の事を思い浮かべる。今日はこの後バイトに行き、図書館に着くのは八時前になってしまうだろう。それでも彼女の顔を見ることが出来ると考えただけでバイトも積極的に動くことが出来る。
疲れた体も彼女の事を思うだけで心から休まり疲れも取れるような気がするのだ。ただし彼女が必ずしも来ているというわけではない。
だが波瀬にとってそれはあまり重要な項目ではなかった。“彼女は図書館にいる”という前提こそが彼の行動原理の大元でありその項目は既に確定の域にあるからである。彼女にも彼女の生活があり、その中で図書館来ているのだからそれを確定させるのも傲慢限りない話ではあるがそれは彼の考えの及ばないところであった。
電柱の明かりが夜道を照らす中、彼は自転車をこぎながら彼女のことを思い浮かべていた。バイトの引き継ぎに手間どり今はちょうど八時十分。もうすぐ“図書館この先500メートル”の看板がある交差点に着く。焦る気持ちを抑えて冷静に、かつ迅速に自転車を前進させる。
彼はいつものところにいつもより少し乱暴に自転車を止めるといつもは気にする服装もそのままに自動ドアをくぐった。
いつもどおりの八時台のシンフォニー、流れる曲で時間帯が判断できるのでまだ八時半にはなっていないことが分かる。階段を静かに上がると荷物を置き、読む本を取りに行った。
例の場所に向かいながらもちらちらと彼女座る席を見てしまう。手前にある個人ブースの壁で全体は見えないが頭部の上部分が見えるので今日も来ていることが分かった。より一層高まる気持ちを抑えていつもの本棚に向かう。今度は全体がはっきり見えるよう少し本を動かして、目に映った彼女の姿に彼は驚きを隠せなかった。
「……な、い」
思わず口から洩れた声を聴いて二度目のショックを受けた。無いのだ。彼女の背中まで伸びていたきれいな黒髪が今は肩の高さまでに切りそろえてあり、それから下の艶やかな黒髪が見事になくなってしまっていた。
断っておくと彼は黒髪のロングであったから彼女に一目ぼれしたわけではない。それも要因の一つであったのかもしれないが、彼はそれを含めて彼女のその完成された美しさに惚れたのだ。
それが今日になってみればその完成形が崩れ、変わってしまっていた。髪の長さの変化であったとしても彼がこれまでに心に刻み込んできた彼女像を崩壊させるのは造作もないことで、合わせて彼の中で崩壊と共に進む連鎖的な変化を止める術を持たなかった。
確かに、その肩までの長さであっても美しさに変わりわない、と彼は混乱した頭でその変化を肯定した。そうでもしないと彼の中で崩壊し瓦礫となった彼女像がもう再構築不可能となってしまうかもしれないと危惧したからである。髪なのだから伸ばせば元に戻るはずだ、ととってつけたような理屈で何とか自身をごまかす。
これから本格的に冬の様相になるというこの時期に短くすること自体、彼にとっては理解しがたい行動ではあったが彼女にとっては何かしらの意味があったのかもしれない、自分の意思とは無関係に上がってく心拍数を深呼吸でなだめて彼女の変化を慣れるまで何度も見直した。
しかし彼の中での変化は止まらない。
今まで彼女への干渉という点で彼はどうしても行動に移すことが出来ないでいた。まだ自分には専門知識もなければ話すきっかけもないのだ、今は勉強に尽力し時を待つのだ、というのが不干渉に対しての彼の見解であったのだが今この時をもってその見解に亀裂が走った。
加えて変化による思いの増幅はその亀裂を一層大きいものにした。彼にはこの思いが何からきているのか分からなかった、と同時に彼はこの思いを伝えるべきだという衝動的使命感に突き動かされていた。
一歩、また一歩と彼は彼女に近づく。
今まで溜め込んだ想いを、そして彼女の変化に対する思いを発現する場所が必要だった。その場所が、その機会が、今まさにそこにあるのだ。
彼はその行為が最善であると信じて疑わなかった。
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