波瀬ハジメは目をつむる
下宿のアパートに帰った波瀬は電気もつけずに勉強机に腰を下ろした。買った本も其のままに今日一日を振り返る。
今日の買い物も楽しかった。彼女とはなんとなく話が合う。他愛のない話をしていても疲れることはないしいくらでも話し込めるような気がした。
そして彼女と一緒にいるときに考えていたことを冷静な今もう一度考え直してみる。
まず言えることといえば、彼女は今日も今日とて田島であって田島ではなかった。
肩から少し伸びた黒髪も鼻の横のほくろも小さな口も、彼女を構成する要素を取りだしたとしてもそう言えばそんな顔だった気もするし、彼女がそんな人間であったかと疑問を抱くこともないように思われる。
しかしそこに以前の彼女の面影はない。それを知っているのは波瀬ハジメ、彼自身だけであるような気がしていた。声を掛けるたびピクリと肩を震わせるしぐさも、頼みごとをするときに困ったように眉を寄せる顔も、いきなり慌てだすこともない。
ただ優しく、柔らかく微笑む顔がそこにはあった。
その顔は彼が図書館に毎日通うなかでひたすらに待ち望んだ顔だ。あの時からずっと彼女のうちに秘める何かを知りたい、憂いのない朗らかな笑みをこちらに向けてほしいと思っていた。
田島智子がいつから彼女ではなくなったか、と言うのは波瀬自身にもあいまいだった。
ただふと隣にいる彼女がこちらを見て微笑む姿に、彼の全てを包み込むような感覚に陥り、その時彼はそのことを知った。
波瀬はどうしていいか分からないと思いつつも自身は何一つ変わらず彼女に接していこうと決意していた。
気になる点はいくつもある。
以前の田島智子はどうしたのか、正確には彼女のなにが変化したのか。
彼女の人格というものが肉体から乖離して彼の見ていた、田島の隣にいた窓辺の彼女が田島となったとでもいうのか。
どうしてそんなオカルトじみたことが言えるのか分からない。
しかしそうでもしないと現実の彼女の変化を理解することは難しい。合わせてあの時夢見た彼女が横にいるという高揚感は彼女がどうして田島ではなくなったのかという疑問を滲むようにあいまいにしてこれ以上の思考を遮断しているようであった。
これでいいのだ。
このままがいい。
溜め込んだ気持ちを吐き出すように深く息をつく。
結局のところ、彼女が彼女であるかどうかなんて言うのは彼にとってどうでもよかったのかもしれないと自身を卑下する。その思考さえ自身がまっとう人間らしい人間である事を示すためのもので、言い方を変えれば自身を正当化する理由の一つでしかなかったが、それでもそうすることで田島ではない彼女を愛しく思う自分を認めてもいいような気がした。
カーテンの隙間から外の暗さを知った。街灯がちかちかとあたりを照らす。
机から立ち上がるとカーテンを開けた。そういえば今日は一度もカーテンを開けていなかった。
隙間から見えた街灯以外にアパートの前にある道路を照らす明かりはない。暗くなった辺りを見渡してきっと自分の心の中もこんな真っ暗でいくらかき混ぜたところで変哲もないのだろうなと思うと、なんだかこれほど考え込んでいる自分がおかしく思えてきた。
自分の心が可視化したようでなおさら自分を客観的に見ることが出来ているような気がする。自分が自分ではなくなったかのような、きっとこんなことを考えるもう一人が彼自身の中にいて……。
そこまで考えたところでふとガラスに反射する部屋の様子が目に映った。
そこに人がいる。
波瀬の服を着て波瀬と同じような髪形で波瀬のような人間
彼は机にあった帽子をかぶると椅子に座り、こちらを見て薄く微笑んだ。
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