波瀬は想いを募らせる
気ままに書いていきます。
夕日に照らされた町並みを一台の自転車が走っていた。
背負ったリュックサックには教科書とノート、それから筆箱が入っている。彼、波瀬ハジメはとある場所に向かっていた。彼の目的地は次の信号を右に曲がって少し行ったところだ。
だんだんと近づくにつれて何とも言えない気持ちがあふれてくる。そんな気持ちを包み隠さず表している彼の顔は夕日に照らされて頬が上気している様にも見える。秋の深まりを感じさせるように夕暮れの赤味が日に日に強くなってきているのが分かる。吹き抜ける凩が街路樹を揺らした。
難なくその場所に到着すると彼は自転車を指定の場所に止め少し荒くなった息を整えてからついでに身だしなみも確認する。無意識のうちに頑張ってこいでしまったようだ。確認が終わると彼は歩き出し、“県立図書館”と書かれた縦掛けの横を通り入口の自動ドアをくぐった。
しん、と静まった空気の中で静かにシンフォニーが流れている。曲名は知らないがいつも聞いているのでいつのまにか覚えてしまった。それは彼がここに来るようになってから割と長いということをさしていたが彼はそのことを自覚していない。
いつものように階段を上がってまっすぐ突き進む。彼はいつも同じ場所に座る。今日もその場所を確保するとすぐに席を立ち今日読もうと思っている本をとりに行った。
さてこの青年の目的というものが何なのかはっきりさせておこうと思う。
彼がここに通うようになったのは他でもなく、彼はある人に会いたくて通っている。しかし彼はまだその人の名前も知らない。年齢も、どんな職業であるのかも。ただその人は女性であり彼女は決まって同じ窓辺の席に座って本を読んでいた。ときどき本から視線を外すと、すっと背を伸ばしちらりと窓の外を眺める。なにか物思いにふけるような視線を窓の外、それもずっと遠くに投げかける姿は彼の心を捕えて離さなかった。
一言で言ってしまえば彼は彼女に一目ぼれをしたのだ。
彼は今日読もうと思っている本の棚までやってくるとその女性の方を盗み見るように本棚ごしに覗いた。一段と赤く萌える夕日に照らされ長い黒髪を赤に染めている彼女を見て、今日も図書館に来た甲斐があったと心の中で頷く。
当然のことながら彼女はいつもいるわけでない。彼女がいない時、彼は手早く課題を終わらせてさっさと下宿先のアパートに帰ってしまう。彼にとってその姿を見る事こそがここに来る意味であり、主体はどこまでも彼女なのであった。
彼は自分の席に戻ると本はひとまず端に追いやり課題に取り掛かる。大学生にもなってこんなにまじめにやっているのが正直笑えてくる。なにせ高校のころまで勉強を嫌って主体的にやったことなんてなかったのだ。それは大学に入ってからもずっと続くものだと思っていた。嫌いなものは嫌い、そうやって生きてきたのだ、一生こんな性格だろうと思っていた。
彼が勉強に精を出すようになったのも彼女のおかげだと言っていい。ある日思い切って彼女の前を通った時があった。その時彼女が開いていた本が彼の専攻分野として選択できる科目の参考書だったのだ。
彼は話すきっかけが欲しかった。話せるかどうかという彼自身のメンタル的な問題を全く思慮に踏まえていなかった彼は切っ掛けさえあれば彼女と仲良くできると考えたのだ。
それから彼は勉強を始めた。選択と言っても二年次までの成績が優慮されてコースが決まる。彼が専攻したいコース(彼女の参考書で決めた)に入るにはある程度の成績も必要だ。彼はもしかしたら卒業後の職場も同じになって、などと訳の分からない妄想を糧にその勉強に励むのであった。
この図書館の閉館時間は午後九時、彼は彼女の姿をできるだけ長く見たい、と閉館ぎりぎりまで粘っている。ある時はトイレに行くのに遠回りをして、またある時は専攻科目の参考書を取りに行って彼女と鉢合わせにならないか、と画策する。
彼女の方はというと、いつのまにかふらっと帰っていることもある。彼が勉強に精を出している間にいつのまにかその席から居なくなっているのだ。彼はそれに気が付くと自身もさっさと荷物を片付けでアパートに帰ってしまう。ただひたすらに彼女主体でなのであった。
彼が図書館に行くようになった話をしよう。それは大学初めての夏休みも後半になってからであった。大学生にもなって夏休みの友が配布された彼は当然のごとくそれを放置していた。どうせ自主学習用だと思っていた彼はその量に教授の嫌がらせを感じて断じて出さないと心に誓っていたのだが、夏休み中に会った同じ学科のやつに聞いた話でその課題は全員必修で出さないと単位が出ないらしい、ということだった。
焦った彼は自宅では暑くて集中できない、と涼しい図書館に逃げ込んだ。
なんとか間に合った彼は教授にそれを提出、すると彼の他にその課題を出した者は数える程度だという。
だまされたのだ。
教授からその態度を褒められたが、夏休み後半を棒に振った彼は足取り重くアパートに帰宅した。しかしその苦行が終わって後期が始まった後も彼はその図書館に通い続けた。理由は勿論彼女を見るためである。実際には、ついさっき記した夏休みの苦行も最後の方は彼女を見るためどちらかというと自分から行きたい節があった。
彼に嘘を言った奴に何か言おうとも考えたが行動には移さなかった。奴が嘘を言わなかったならば彼女と出会うこともなかったのだ。そう考えると奴は彼と彼女を引き合わせたキューピッドということになる。そんな奴に感謝こそすれ、怒りをぶつけるのは筋違いだと彼は思った。
本当のことを言うと彼と彼女はまだ出会っていないし引き合わせたという表現もおかしい。一方的に彼が彼女の事を知り、見ているだけなのだ。だがそんな客観的な見方が出来るほど彼は冷静ではなかった。いや冷静ではある。ただ“恋は盲目”という言葉がかっちりと当てはまるくらいに彼は彼女しか見えていなかった。
閉館間際になると彼は名残惜しそうに図書館を離れる。そこに彼女の姿がなかったとしても、だ。彼なりに彼女の存在を定義する上で図書館という場所は大きな地位を占めており、内包的に考えてもう図書館自体が彼女の媒体であると言っても過言ではないと彼はそう考えていた。
日は既に暮れ夜の闇に辺りが包まれる中、彼も他と同様に闇に包まれてアパートに帰宅する。
自転車のライトが壊れたのはいつだったか、怖いので暗くなったら押して帰るようしている。その帰り道、暗闇の中に彼女の姿を思い浮かべてはその完成された美しさに毎度息を飲む。
何度も何度も思い返しては彼女の姿を詳細に脳に刻み付ける。にやける顔は周りに人がいないのをいいことに全く気にしてない。そしてアパートに帰宅した後も彼は彼女の姿を思い浮かべ、彼女の事を想いながら床に就くのであった。
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