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002_好奇心は身を滅ぼすらしいので、こっそり書庫へ行きます

 覚悟を決めたところで、いきなり帝国をどうにかできるわけではない。まずは、自分にできる小さなことから始めるべきだ。


「リゼット」


 呼びかけると、彼女はすぐに顔を上げた。


「はい、姫様。どこかお苦しいのですか?」

「ううん、もう大丈夫。それより、図書館へ行きたいの」


 予想外の申し出だったのか、リゼットは目を丸くした。


「皇宮書庫でございますか? ですが、あちらへ入るにはクローヴェン卿か、司書官の許可が必要でございます」


 やはり、皇女だからといって自由に本を読めるわけではないらしい。ヴァレリウスに頼めば、選ばれるのは都合のよい本ばかりだろう。


「司書官は、どんな人?」

「オルド・レーヴェン卿という老学士でございます。先帝の御代から書庫を預かっておられますが、宮廷の争いにはほとんど関わらず、書物と研究にしか興味を示されない方だと聞いております」


 権力に執着せず、学問を重んじる人物。評判どおりなら、少なくともヴァレリウスよりは話が通じそうだ。そして長く書庫にいるのなら、帝国に併呑された国々についても知っているかもしれない。


「では、その人に会いたい。お願いできる?」


 リゼットはすぐには答えなかった。腫れた頬に一瞬だけ不安が浮かぶ。


「姫様がお望みなら、手配いたします。ただ、クローヴェン卿のお耳に入れば、理由を問われるかと……」

「帝国の歴史を、もっと深く学びたいと言えばいいわ。教育係の教えに感銘を受けた、とでも付け加えて」


 自分で口にしておきながら、なんとも白々しい。だが、相手が欲しがる言葉を与えて警戒を解くのは、会社員時代に嫌というほど身につけた処世術だ。

 リゼットは驚いたように瞬きをしたあと、口元をわずかにほころばせた。


「かしこまりました。では、姫様がお休みの間に、私から司書官へ使いを出してみます」

「ありがとう。それと、ヴァレリウスには、私が倒れたこと以外は何も言わないで」


 リゼットの表情から笑みが消えた。私の言葉の意味を察したのだろう。それでも理由を問い返すことなく、静かに頭を下げた。


「承知いたしました、姫様」

「それから、今さらかもしれないけれど……二人きりのときは、愛称で呼んでくれない?」


 そう頼むと、強張っていたリゼットの表情が一瞬でほころんだ。


「はい。承知いたしました、ルミィ様」


 その呼び名を耳にした瞬間、胸の奥に柔らかな温もりが広がった。身体に残る記憶が喜んでいるのか、それとも今の私自身が嬉しいのか。もう、その境目は分からなかった。


「では、行ってまいります。どうか私が戻るまでは、安静になさってくださいませ」

「分かっているわ。無理はしない」


 そう約束すると、リゼットは名残惜しそうに何度も振り返りながら部屋を出ていった。扉が閉まり、その足音が遠ざかるのを待ってから、私は小机へ視線を移した。

 そこには、『帝国暦の始まりと繁栄』と題された本が置かれている。だが、今さら読む気にはなれなかった。どうせヴァレリウスの教えを裏づけるために用意された本だ。書物に記されているという事実だけで、彼の言葉を真実だと思い込ませる――そのための教材なのだろう。

 人は、権威がありそうなものを無条件に信じてしまうことがある。俺が生きていた世界でも、大学教授の著書と聞くだけで、根拠となる資料に誤りがあっても、その内容まで正しいと思い込む者は少なくなかった。


 その懸念は、この身体の持ち主だったルミナも抱いていたらしい。俺の意識が宿る前の昨夜、渡されたこの本を一度も開かないまま、小机に放り出して眠ってしまったようだ。

 本当に、幼いながら賢い子だ。なぜ俺が彼女の身体に宿ったのかは分からない。いつか元に戻ってルミナにこの身体を返す日が来るのかもしれないし、このまま私として生き続けることになるのかもしれない。どちらにせよ、彼女の未来を閉ざすような選択だけはしたくなかった。


 そのためにも、情報は欠かせない。とはいえ、軽く部屋を見回した限りでは、手がかりになりそうなものは見当たらなかった。皇女としての体裁こそ保たれているが、ここは実質、幽閉部屋のようなものだ。必要最低限の調度品しかなく、私物と呼べるものもほとんどないのだろう。

 仕方なく、リゼットが戻ってくるまでおとなしく待つことにした。しばらくすると、扉が控えめにノックされ、「失礼いたします」という声とともに、リゼットが部屋へ入ってきた。

 戻ってきた彼女は、出ていったときよりもわずかに足取りが軽かった。手には小さく折り畳まれた紙片を持っている。


「ルミィ様、レーヴェン卿からお返事をいただきました。明日の午後であれば、書庫でお目通りくださるそうです」


 思ったよりも早い返事だった。先帝の時代から宮廷に仕える老学士が、後ろ盾もない末姫の申し出をすんなり受け入れた。その事実に安堵する一方で、胸の奥には小さな警戒も芽生える。


「理由は、聞かれなかった?」

「はい。帝国の歴史を学びたいとお伝えしたところ、『書物を求める者を拒む理由はない』と。ただし、姫様お一人でお越しになるように、と申されました」


 一人で、か。幼い皇女に対する条件としては、いささか奇妙だ。だが、周囲の目を避けて話したい事情がある、と考えれば筋は通る。レーヴェン卿もまた、宮廷の誰かを警戒しているのかもしれない。


「分かったわ。明日は一人で会う。リゼットは書庫の前で待っていて」


 リゼットは心配そうに眉を寄せたが、やがて小さくうなずいた。


「かしこまりました。ただ、何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」

「うん。約束する」


 そう答えた直後、廊下の向こうから硬い靴音が響いた。一定の間隔を刻みながら、迷いなくこちらへ近づいてくる。その音を聞いた途端、リゼットの顔から血の気が引いた。

 扉の前で足音が止まる。


「ルミナ殿下。ヴァレリウス・クローヴェンにございます。ご容体を伺いに参りました」


 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、返事を待つつもりなどないらしい。取っ手がゆっくりと回るのを見ながら、私はシーツの下で小さく拳を握った。

 扉が開き、痩身の男が部屋へ入ってきた。年の頃は五十前後。灰色の髪を寸分の乱れもなく撫でつけ、濃紺の長衣を纏っている。細い目は笑みの形に歪んでいたが、その視線には温かみの欠片もなかった。


「お加減はいかがでございますか、殿下」

「もう平気よ。少し気分が悪くなっただけ」


 できるだけ幼い声を意識して答える。ヴァレリウスはベッドの傍らまで歩み寄ると、断りもなく私の額へ手を伸ばした。反射的に身を引きそうになるのを、どうにか堪える。


「熱はないようですな。幼い御身とはいえ、皇族たる者、学びを疎かにしてはなりません。明日からは予定どおり授業を再開いたしましょう」

「今日の分も、あとで勉強するわ」

「ほう」


 男の目がわずかに細まる。殊勝な返事を喜んだというより、その真意を測ろうとしているように見えた。


「昨夜お渡しした書物は、もうお読みになりましたかな?」


 小机の上へ視線が向く。開かれた形跡のない本が、そこに置かれたままだった。


「まだ全部は読んでいないの。難しい言葉が多くて」

「なるほど。では明日の授業では、その難しい言葉からご説明いたしましょう。殿下には、帝国を正しく理解していただかねばなりませんからな」

「うん。もっと知りたいわ。帝国がどんな国を治めているのかも、昔どんな国があったのかも」


 書庫へ行く理由を、こちらから先に口にしておく。純粋な学習意欲に見せかければ、後で知られても不自然ではない。

 だが、ヴァレリウスの笑みはほんのわずかに薄れた。


「過ぎ去った小国の名など、殿下が覚える必要はございません。帝国に帰した時点で、それらは正しく導かれたのです。大切なのは、勝者の歩みでございます」

「でも、知らないと比べられないでしょう?」


 口にしてから、言いすぎたと気づいた。三歳児らしい素朴な疑問に聞こえるよう、小さく首を傾げてみせる。

 しばしの沈黙の後、ヴァレリウスは低く笑った。


「これは失礼。殿下はまことに聡明であられる。ですが、知識には触れるべき順序というものがございます。どうか、ご自身の判断で余計な書物をお読みになりませんよう」


 釘を刺された。まだ書庫の件は知られていないはずだが、こちらが何かを探ろうとしていることには気づいたのかもしれない。


「分かったわ、先生」


 素直にうなずくと、ヴァレリウスは満足げに顎を引いた。次いで、その視線が私の背後に控えるリゼットへ移る。


「ところで、侍女。殿下がお倒れになった際の様子を、詳しく聞かせてもらおうか」

「それは私から話すわ」


 間髪を入れずに遮ると、二人の視線が同時にこちらへ向いた。


「本を読もうとしたら、急に頭が痛くなったの。リゼットはすぐに助けてくれたわ。だから、悪いことは何もしていない」


 ヴァレリウスの視線が、腫れたリゼットの頬をなぞる。この男が与えた傷だと思うと、腹の底が冷たくなった。


「左様でございますか。殿下がそこまで仰るのであれば、この者の不手際は不問といたしましょう」

「不手際じゃないわ。私がそう言っているの」


 幼い声でも、言い切れば部屋の空気は変わった。ヴァレリウスはしばらく私を見つめていたが、やがて胸へ手を当て、恭しく頭を下げた。


「失言をお許しください、殿下。では本日は、これにて失礼いたします」


 踵を返したヴァレリウスは、扉の前で一度だけ足を止めた。


「殿下。好奇心は尊いものですが、ときに身を滅ぼします。どうか、お忘れなきよう」


 扉が閉じ、硬い靴音が遠ざかっていく。完全に聞こえなくなるまで待ってから、私はようやく詰めていた息を吐いた。


「ひとまず、誤魔化せたと思っていいのかしら?」

「はい、おそらくは。先ほどのお言葉も、釘を刺したというより、ルミィ様を自分の望むように導きたいというお考えの表れかと存じます」


 え、何それ。気持ち悪い……。


 嫌悪感が顔に出ていたのか、リゼットがくすりと笑った。つられて私も笑みをこぼす。緊張がほどけた、そのときだった。私のお腹が、くぅ、と小さな音を立てた。


「そういえば、ルミィ様は今日まだ何も召し上がっておりませんでしたね。可愛らしいお腹の音ですこと」


 からかうようなリゼットの言葉に、私は恥ずかしさを隠すように頬を膨らませた。


「すぐにお食事をお持ちいたします。少々お待ちくださいませ」

「ええ、お願いね」


 私の返事を聞くと、リゼットは一礼し、食事の支度をするため部屋を出ていった。

 一人になった私は、改めて小机の本へ目を向けた。内容を思えば気は進まないが、明日の授業を早く切り上げるには、あらかじめ目を通しておいたほうがいい。ヴァレリウスが何を教え込もうとしているのかを探る材料にもなるだろう。

 ほどなくしてリゼットが食事を運んできた。空腹を満たしたあと、私は覚悟を決めて本を開く。予想どおり、並んでいたのは帝国の勝利と正当性を讃える言葉ばかりだった。うんざりしながらも要点を拾い、明日の授業で不自然に思われない程度には内容を頭へ入れておいた。

 読み終えるころには日も暮れていた。夕食を済ませると、幼い身体はすぐに眠気を訴え始める。私は逆らうことなくベッドへ潜り込み、そのまま深い眠りに落ちた


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