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009_幼き皇女が仕掛けた、最初の粛清

 荒れた街道を、一台の豪奢な馬車が進んでいく。その車内では、ヴァルディア帝国の貴族ヴァレリウス・クローヴェン伯爵が、柔らかなクッションの効いた座席に上機嫌で身を沈めていた。

 帝都から辺境のロスヴァル地方への異動となれば、栄転どころか、誰が見ても左遷でしかない。おまけに道は悪く、馬車は絶えず揺れている。それにもかかわらず、ヴァレリウスは満面の笑みを浮かべ、その揺れさえ楽しんでいるようだった。


「くふふふ……ついに、私にも運が向いてきたか。初めはエルフの小娘の教育係など、と思ったものだが、引き受けてみればどうだ。あれほど整った顔立ちは見たことがない。母親と同じく、いずれ絶世の美女になるだろう。しかも、私のために都市まで用意してくれるという」


 ルミナが望んだのは、あくまで自分が治める都市だ。だがヴァレリウスの中では、それはすでに彼自身の都市にすり替わっていた。


「その都市を、私に先んじて整えてほしいと言う。ああ、いいだろう。整えてやるとも。何しろ、私の城となる場所だ。まずは殿下に付き従う侍女と、魔法教師になったエサソン。あの二人には離れをあてがい、なるべく殿下と顔を合わせないようにしよう。殿下のお部屋は私の隣に。そして折を見て、同じ部屋に移っていただけばいい」


 身勝手な妄想を膨らませるほどに、ヴァレリウスの笑みはいっそう深くなっていった。


「そういえば、あの侍女も器量は悪くなかったな。ついでにあの女も、私のものにしてしまおう。殿下も、あと十年もすればさぞ麗しくなられるに違いない。そのころには、身も心も私に心酔しておられることだろう。穢れしらぬ幼い体を、私の思うままに染め上げていく――これほど愉快なことはない」


 そこまで口にすると堪えきれなくなったのか、ヴァレリウスは声を上げて笑い出した。彼の頭の中には、成功した未来しかなかった。反逆の意思を持つ者を一か所に集めれば、決起される危険はかえって高まる。それをどう管理するのか――そんな当然の懸念すら、頭の片隅にもない。今の帝国上層部すべてに言えることだが、自分たちに都合の悪いことなど起こるはずがないという傲慢が、骨の髄まで染みついていた。

 もっとも、そんな心配はもはやヴァレリウスには必要ないだろう。輝かしい将来に浮かれていた、そのときだった。馬車が突然止まり、ヴァレリウスは大きく体勢を崩した。


「な、なんだ! なぜいきなり止まる! おい、誰か説明せんか!」


 突然の出来事に喚き散らすが、その声に応える者は誰もいなかった。だが、それを不審に思うこともなく、怠慢な従者たちを叱りつけようと、ヴァレリウスは乱暴に馬車の扉を開け放った。しかし、そこにいるはずの従者も、護衛の騎士たちも、どこにも見当たらなかった。


「なんだ、どこへ行った! なぜ誰もいない!」


 馬車を降り、辺りを見回す。消えていたのは従者や騎士たちだけではなかった。後ろに続いていたはずの使用人を乗せた馬車も、ルミナの調度品を積んだ馬車も、影も形もない。


「ど、どういうことだ……なぜ……」


 そう言いかけた瞬間、右肩に鋭い痛みが走った。あまりの激痛に無様な悲鳴を上げ、ヴァレリウスはその場に崩れ落ちる。見上げた先には、針のように鋭く尖った棒と、その先端から滴り落ちる赤い雫があった。


「ひぃっ……な、なんだ、なんだこれは……!」


 理解の追いつかない事態に怯えながら、ヴァレリウスはゆっくりと視線を上げていく。そこで初めて、何が起きたのかが見えた。

 右肩を貫いた鉄の針は、三つ叉に分かれた先端の一本だった。牧草を積み込むときに使う、干し草用のフォークだ。もっとも、農民の暮らしになど興味のないヴァレリウスに、そんな知識があるはずもない。彼の目には、ただ自分を貫いた凶器としか映らなかった。それを両手で構えているのは、五十がらみの農夫だった。みすぼらしい服をまとい、骨が浮くほど痩せ細っている。それでも、その形相は獲物に食らいつく野犬のように鋭かった。やがて同じような姿の者が一人、また一人と現れ、ヴァレリウスを取り囲むように歩み寄ってくる。その手には、それぞれ鍬や鎌といった農具が握られていた。


「な、なんだ貴様らは! わ、私を誰だと思っている! ヴァルディア帝国の貴族だぞ!」


 目を血走らせて喚き立てるが、そんな肩書に怯む者など、この場には一人もいなかった。


「黙れぇっ!」


 なおも続けようとしたヴァレリウスの言葉は、血を吐くような男の怒号にかき消された。


「貴様が貴族だってことは知ってるんだよ! だからこそ、俺たちはここにいるんだ!」


 殺気立った農民たちが、じりじりとヴァレリウスへ詰め寄ってくる。そして最初にフォークを突き立てた男が、胸の奥に溜め込んできた怨嗟を吐き出した。


「俺の村は、どこもかしこも食い物が足りねえ。みんな痩せ細ってる。娘もその一人だった。それでも、惚れた男の子どもを産みたいと言って、俺が止めるのも聞かずに身ごもった。俺はありったけの食い物を娘に回した。奇跡みたいに、子は無事に生まれたさ。だがな、乳がろくに出なかったんだよ。日に日にやつれていく赤ん坊を前に、娘は心を壊しちまった。そして赤ん坊が死んだその日に、亭主と一緒に首を吊ったんだ!」


 男が血を吐くような思いで叫ぶ。その後ろから、三十ほどの男が一歩前へ進み出た。


「俺の娘も似たようなもんだ。十になったばかりだった。病に倒れても、ろくに食わせてやれなくて……そのまま逝っちまった」


 怨嗟の声は、二人だけのものではなかった。この場に集まった十数人が、それぞれの恨みを口々に叫ぶ。だが、ヴァレリウスにはそれが理解できなかった。自分は帝国の貴族であり、農民の暮らしなど知ったことではない。本気でそう思っていたからだ。


「し、知るか、そんなこと! 貴様らが帝国のために作物を作ればよいだけの話だろう! 私には関係ない!」


 飢えて死んだ者たちの話をしているのに、帝国のために作れと言う。その破綻した理屈に、ヴァレリウス自身は気づいてもいない。その言葉は、ただ男たちの逆鱗に触れただけだった。先頭の男はフォークを逆手に構え直すと、ヴァレリウスめがけて勢いよく振り下ろした。

 ヴァレリウスはとっさに身をよじったが、避けきれるものではなかった。鋭い先端が、彼の太ももを深々と貫く。

 醜い悲鳴が響き渡った。男はそれに構うことなくフォークを引き抜き、再び振り上げながら吐き捨てる。


「ふざけるな! 作った物をろくに残さず持っていきやがって……そのせいで、こうなったんだろうが!」

「ひいぃっ……な、何を言う! 帝国の民が作った物は帝国の物だ! それを持っていくのは正当な権利だ!」


 この期に及んでなお身勝手な言葉しか吐かないヴァレリウスに、男たちはもう何も言わなかった。代わりに、それぞれの農具を力いっぱい振り上げ、地を這うヴァレリウスへと振り下ろした。

 悲鳴が上がったのは、わずか数秒だけだった。男たちは、それがもう物言わぬ骸だと分かっていた。それでも、胸の内に溜まった恨みをすべて吐き出すかのように、何度も、何度も農具を振り下ろし続けた。

 しばらくして、荒い息遣いと、声を殺してすすり泣く音しか聞こえなくなったころ。街道の奥から、兵士の装いをした一団が近づいてきた。


「あんたたちか。礼を言うよ。おかげで、貴族どもに一矢報いることができた」


 現れた兵士たちに、農民たちは慌てるどころか礼を述べた。よく見れば、兵士たちは全員兜を脱いでおり、その髪の間からは特徴的な長い耳が覗いていた。

 彼らは、馬車がここへ来るまでの道中で隙を突き、護衛の兵士と入れ替わったエルフたちだった。そしてこの場所へ近づいたところで従者と御者を始末し、ヴァレリウスを乗せた馬車だけをここまで進めて留め置いたのだ。


「だが、いいのか? 確か、あんたらエルフも女王様を帝国に攫われたんだろう? 帝国貴族への恨みなら、あんたたちにだって、あっただろうに……」

「構いません。私たちには、希望がありますので」


 農民の疑問に答えたのは、兵士たちではなかった。その後ろから、兵士たちの間を縫うようにして、一人のエルフが歩み出てきた。

 短く切りそろえた白髪に、縁なしの眼鏡。簡素な役人服に身を包んだ青年のエルフ――エサソンだった。


「希望、だって?」

「ええ。セレスティア女王陛下のご息女、ルミナ姫殿下です」

「エルフの姫様か? いや、でも、どうせ帝国の思想教育に染まっちまうだろうってのが、もっぱらの噂で……」


 男はそこまで言って自分の失言に気づき、慌てて口をつぐんだ。しかしエサソンは気に留める様子もなく、笑みを浮かべて答えた。


「帝国の思想教育ですか? そんなものでどうにかなるような、可愛げのあるお方ではありませんよ」

「はぁ……それは頼もしいと言うべきか、かえって心配になると言うべきか」


 自らの主に対するあまりの言い草に、男は呆然と呟いた。


「頼もしいですよ。そして近い将来、あなた方の希望となり得るお方です。ですから、どうか生きてください。帝国は、これから変わります」


 生きてください――エサソンのその言葉は、今日のことを決して他言せず、静かに暮らせという、事前に交わした約束の念押しでもあった。


「ああ。あんたたちがそう言うんだ。少しは希望を持って生きてみるさ」


 そう呟くと、農民たちはその場を離れていった。


「では、手筈どおり、アレを片づけてください」


 エサソンはそう言って、侮蔑のこもった視線をヴァレリウスだったものへ向けた。その指示に従い、兵士に扮したエルフの数人がソレを片づけ始めた。


「それにしても、気持ちの悪い男でしたね」


 兵士の装いをしたエルフの一人が、エサソンへ歩み寄って声をかけた。エサソンは指先で眼鏡を押し上げ、近づいてきたエルフを横目で見やる。


「ええ。あれは昔から醜悪な男でした。それにしても、よく堪えてくれましたね」


 エサソンがそう言ったのには理由があった。今回の襲撃を確実に成功させるため、彼らは馬車の中の音を魔法で拾っていたのだ。

 つまり、ヴァレリウスが馬車の中で口にした言葉は、ここにいるエルフ全員の耳に届いていたことになる。


「それはお互い様でしょう。正直、ここにいる全員が今すぐにでも縊り殺してやりたいと思っていました。ですが、これは姫様が立てられた計画です。俺たちの感情で台無しにするわけにはいきませんよ」

「ええ、そのとおりです。今回の目的はヴァレリウスを葬ることだけではありません。今後、姫様が統治を進めるための足掛かりでもあるのです。不満を抱える農民たち自身に手を下させることで、その不満を一時的にでも晴らし、同時に姫様への好印象を根づかせる。他言は無用と言い含めましたが、村の中で噂になる程度であれば、十分に手は打てます」


 エサソンがそう答えると、エルフの青年は笑いをこらえるようにうつむいた。その反応に機嫌を損ねたのか、エサソンは青年をじろりと睨みつける。


「くくっ……失礼。ただ、隊長が敬語を使っているのが、あまりにも意外で……」

「ほう。ならば貴様の期待どおり、部隊にいた頃と同じように接してやろうか? エルフィネ魔導部隊副隊長、セリオス・アルヴェイン」

「い、いえ、結構です。すみません……」


 セリオスは慌てて頭を下げた。今のやり取りから分かるとおり、エサソンはかつてエルフィネ魔導部隊の隊長を務めていた。帝国の財務官となる際、その座をセリオスへ譲ったのである。


「それにしても、隊長」

「私はもう隊長ではありません。今の隊長はあなたでしょう」

「へーい。じゃあエサソンさん、あの屑は姫様を篭絡するつもりだったみたいですけど、帝国の貴族ってみんなあんな連中なんですか? 『あと十年もすれば』なんて言ってましたけど、姫様は十年経ったところで、見た目は人間の十歳くらいでしょう?」

「できれば否定したいところですが、今の帝国上層部は揃いも揃って腐っていますからね。頭の中も、それ相応なのでしょう」

「うへぇ……」


 セリオスは心底嫌そうに顔を歪めた。彼の中ではすでに、帝国貴族は揃いも揃って、十歳ほどの幼子に欲情を抱く変質者ということになっているらしい。もっとも、ヴァレリウスが思い描いていたのは、リゼットほどに育った少女の姿だったのだろう。そこにずれが生じたのは、人間とエルフの成長速度の違いによるものだ。実際、ルミナの背丈は、普通の五歳児なら難なく届くドアノブに、背伸びをしてようやく手が届く程度でしかなかった。


「やっぱり女性は五十を超えていないと、恋愛対象になりませんよね」


 セリオスが冗談半分に口にしたその言葉に、エサソンは汚物でも見るような視線を向けた。


「五十、ですか……。今後、あなたはルミナ様に近づかないようにしてください」

「な、なんでですか! 俺はまだ二百ですよ。五十なんて十分守備範囲でしょう。隊長みたいに、五百を過ぎたオジサンじゃないんですから!」


 その一言で、エサソンの目つきが明らかに変わった。セリオスが失言に気づいたときにはもう遅い。放たれる気迫に身がすくみ、言い訳の一つも出てこなかった。


「セリオス。どうやら貴様は、この世に未練がないと見える。せめて次の魔導部隊隊長を任命する時間くらいは残してやろう」

「うわぁっ! 冗談、冗談ですって!」


 エサソンの手に宿った炎の熱を感じ取り、セリオスは慌てて謝った。もっとも、エサソンにも、この程度のことで優秀な人材を消し炭にするつもりはない。大きくため息をつくと、炎を消して歩き出した。セリオスは慌ててそのあとを追う。


「私は精霊との親和性が高いので、千五百年は生きます。五百など、まだまだ若造ですよ。そんなことより、使用人たちはどうしましたか?」

「催眠魔法をかけたうえで、帝国思想に染まっていない者は、そのまま送り届ける予定です」

「分かりました。では、その後も予定どおりにお願いします」


 そう話しているうちに、ちょうどルミナの調度品を運んでいた馬車までたどり着いた。


「では、私は姫様のもとへ戻ります。あとは任せましたよ」


 そう言うと、エサソンは馬車の扉を開け、中へ入っていった。


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