今日くらいは②
(1)
あれは二十数年前。
ヴィゴが国の軍隊に所属し、二年が過ぎた頃だった。
当時の上司から海外任務の辞令が下ったのは。
長年続く紛争が終わらぬ、砂漠の多い乾燥地帯の国。
配属されたのは、戦地で人を殺めるのではなく治安維持の巡回、地雷撤去などを行う部隊。
この仕事は直接的に人の命を救う訳じゃない。
でも、間接的には救っていると信じられた。
我ながら天職だと感じていた。
配属されて一年近くが経とうとしていた、あの日、あの時。
いつものように仲間と軍用車両に乗り、いつものルートを巡回するまでは──
地平線が拡がる、見渡す限りに続く乾燥した荒野。
目立った木も植物もない。枯れた雑草がぽつぽつ生えているだけの、ひび割れた大地。
容赦なく照りつける日差し。迷彩色の軍用車の駆動音だけが響く中。
どこからともなく、突然、大勢のゲリラ兵が飛び出してきたのだ。
敵、味方双方で銃弾が雨あられと降り注ぐ。
撃たれてもパンクしないコンバットタイヤ、特殊装甲の車体、防弾ガラスであっても意味をなさない程の銃弾の嵐。他の仲間が迎撃を開始する傍ら、恐慌状態に陥ったヴィゴただひとりだけがトリガーを引くどころか、銃を構えることすら出来ずにいた。
ヴィゴは部隊で一、二を争う銃の腕があった。なのに、だ。
殺す恐怖、殺される恐怖にいざ初めて直面すると、全身が、否、手も腕も震えるばかりでまるで動かない。銃弾に当たらないようにするだけで精一杯。ひたすら身を隠すように、膝に上半身を伏せるしかできなかった。同乗者たちも敵との撃ち合いに必死で、ヴィゴを咎める余裕すらなかった。
そして。
役立たずと化したヴィゴの隣の座席、彼を可愛がってくれる直属の上官が敵の凶弾に斃れた。
ますます恐慌状態に陥るヴィゴを嘲笑うように、上官が撃たれたのを皮切りに、他の者も撃たれ始め──、銃撃が止み、ゲリラ兵が去り、ハチの巣と化した軍用車両内で、ヴィゴただひとりだけが生き残っていた。
『役立たず』
『腰抜け』
『仲間を見殺しにした』
あらゆる人々、特に遺族からの強い怨恨混じりの数えきれない罵倒。
特に、上官の娘だったキアラから父を奪ったこと(隊の家族交流会などで幼かった彼女と面識があり、当時から懐かれていた)、己の弱さを苦しいほど思い知らされたことがヴィゴを酷く打ちのめした。
銃を見たり、銃声を聞くのも耐えられなくなったことも手伝い、どのみち軍にはもういられなかった。
以来、ヴィゴは何をやっても上手くいかなかった。
根本的に世渡り下手なのに加え、『どうせうまくいかない』という考えが常に頭の片隅にこびりつき、離れてくれなかった。
所詮、俺は屑の負け犬でしかない、と。
(2)
ヴィゴとジャスパーに銃口を向けたまま、目出し帽に黒ずくめの二人組は後部座席へ強引に乗り込むと。とある場所まで車を走らせろと、ヴィゴに要求してきた。
終始銃を突きつけられながら、車を走らされ。
辿り着いた目的地は街の古い産廃物廃棄場だった。
夜闇に浮かぶ、産廃物の山が今にも動き出しそうで不気味だ。その山々を眼前に、ヴィゴとジャスパーは無理やり車から降ろされた。
「中へ入っていけ」
二人組の一人がヴィゴの背を銃の先でつつき、脅し混じりに促す。
もう一人もジャスパーの小さな背中を銃でつつく。
「銃なんかでその子に触るなっ」
思わずカッときた。ジャスパーはもちろん、ヴィゴ自身も驚くほどの鋭い声だった。
しかし、二人組にはまったく効力は発揮されず。逆に感情を害したのか、グリップで力いっぱい頬を殴られた。ジャスパーが小さく悲鳴を上げる。
「余計な口利くな。黙って中へ入れと言ってる」
殴られた際に口の中を切った。
血の味がじわり、咥内で広がっていく。悔しさと情けなさも胸中に広がっていく。
着古した薄いモッズコートのポケットには、面接を受けた弁護士から渡された拳銃が入っているのに。
それでも、ヴィゴは銃を撃つことができそうにない。
今日だけは、今日くらいは。せめて今この時だけは。
過去の傷などなかったかのように、渡された銃でジャスパーを守りたかった。
己の不甲斐なさに絶望する一方、二人組がヴィゴの銃の有無を確認しようとしないことに疑問を抱く。
二人組がそこまで気が回らないのか。それともヴィゴの事情を知っているのか……?
もし、知っているとしたら?
知っているからこそ、乱暴な手口で襲い、産廃場まで連れ去ったとしたら?
ジャスパーの関係者で、ヴィゴの事情を知る者はたった二人しかない。
一人は面接を担当した女性弁護士。ジャスパーは知らない筈なので該当しない。
まさか。
絶望的な予想を思いつく間に、産廃場の錆びついた高い鉄門を潜らされた。
うずたかい廃棄物の山々の間を、更に歩かされること数分。
廃棄物を処理する工場へ、押し込められるように入らされた。
建物の老朽化を理由に、この鉄筋作りの廃棄処理工場は数年前から稼働していない。
ベルトコンベアも、壁の隅に寄せられたリフト数台も埃をかぶっている。工場内に入ったジャスパーが埃っぽさに、コンコン、と小さく咳をした、その時。
「やだ~!なあに、風邪でも引いた~?!明後日からしばらく撮影あるんだからカンベンしてよねぇ~」
声量自体は左程大きくないのに、その声は工場内によく響き渡っていった。
その声を耳にした瞬間、ジャスパーは「うそ……」とつぶやき、ふるふると何度も頭を振る。頭の動きに合わせ、赤毛のツインテールも激しく揺れる。
ヴィゴもつい数日前、ワンダーホールでたまたまインタビューを受ける彼女をテレビで観ていた。だから、声は覚えていた。口調はテレビよりも媚と軽薄さが強く含まれていたが。
屋外と同じ夜の闇に包まれた工場内。
ハンディランタンライトのほのかな光に浮かび上がった彼女──、ジャスパーの母であり女優のジェラルディン・ライトは、テレビや映画の中と変わらず美しかった。




