予期せぬ急転直下
(1)
ヴィゴとジャスパーがワンダーホールを出る頃には二十時半近くになっていた。
壁時計をふと確認したジャスパーが飛び上がらんばかりに驚き、早く早くとヴィゴを急かし、車へ乗り込む。
ジャスパーの要望もあり、横道や裏道を駆使した行きとは反対に、帰り道はなるべく大通りを通って帰ることにした。
帰宅ラッシュが過ぎれば大通りの車も少なくなる。遅い時間に裏道を通るのは治安に拘わらず危険性が高いからだと。
「勉強の進捗が大幅に狂いました」
「宿題なら手伝おうか」
「結構です。宿題なんてとっくに終わらせています。予習復習も同様に。三年生向けの理科の予習が」
「そんな先まで勉強してんすか?」
「いけませんか?」
呆れたように問えば、助手席でジャスパーは拗ねたように答える。
無意識かもしれないが、子供らしさが徐々に出てきている。こちらが本来の姿に近いのかもしれない。
「いけなくはないけど……、将来なりたいモンとか目標のためとかなら別にいいっすけどね」
「将来なりたいもの?」
助手席で首を傾げるジャスパーに、これは特にないのでは?と理解する。
「なりたいものなんて想像したこともないですけど、目標ならあります。その目標を叶えるために私は、大人のように振舞える賢い子供でいなければならないのです。でないと」
ここまで言うと、ジャスパーは口を閉ざしたが、ヴィゴは彼女が何を言わんとしたいか察した。
黙っておいてやるのが大人の対応だろう。しかし、ヴィゴはあえて口にした。
「ママとまた一緒に暮らすためか?だからって、引き籠もりがちになるのは良くないんじゃ?」
弾かれたようにヴィゴを振り返ると、ジャスパーは口をへの字に曲げて答える。
「ママは世界中飛び回って多忙を極めていますし、パパラッチが常に目を光らせています。少し前に新しい恋人もできて……、私にいつ会いに来てくれるかわからないから」
「来るかわからないママを待つために?なるべくマンションから出ないようにしてるのか?」
「ちゃんと会いに来てくれたこともあります!今年はまだ会っていませんし、去年のクリスマス前に一時間会えただけですけど」
今年ももう十月を過ぎ、二ヶ月もないんだが?とはさすがに飲み込んでおく。これ以上はジャスパーを傷つける。
「……今年中にママと会えるといいなあ」
気休めの安っぽい言葉は、気まずさを解消するには至らない。
マンション到着する予定時間まであと数分かかる。
あと数分ほどすれば、少なくとも密室での気まずい空気からは解放される、筈。そう期待していた。
一発の銃声がヴィゴたちの車の近くで鳴るまでは。
(2)
銃声を聞いた直後、ヴィゴの全身が石のように固まった。
一人だったらブレーキとアクセルを踏み間違えたかもしれない。
そう、今はヴィゴひとりじゃない。ジャスパーがいる。
銃声に加え、ヴィゴの急変にジャスパーも青褪めていた。こんな子供に不安を抱かせては駄目だ。気をしっかり持て!
ヴィゴがぶるぶると激しく震える両手でハンドルを握り直した時、再びの銃声と共に、後部座席の窓ガラスが割れた。
「うわああああ!!!!!」
ジャスパーの悲鳴よりも更に大きく叫ぶ。
銃声に他の車も混乱する中、ヴィゴは急ブレーキを踏み、反対車線へ二回転スピン。たまたま反対車線に走行車がいなかったため、歩道の縁石に前輪とバンパーを軽くぶつけただけで済んだ。
呆然としつつ、咄嗟にジャスパーの無事を確認。ジャスパーは両手でしっかり保護した頭を膝に伏せていた。
「ジャスパーさん!無事か!!」
助手席に座ってくれていて本当に良かった。
行きと同じように後部座席に座っていたら……、ヴィゴの震えは益々激しくなっていく。
ジャスパーはほんの少しだけ顔を上げ、『無事です』と目線でヴィゴに伝える。
未だ夜闇に響く銃声の大きさから、銃撃者はヴィゴたちの車からは離れているようだ。さっきの銃弾は流れ弾かもしれない。でも、油断はできない。
頭を庇うため、伏せた上半身。
無造作に縛ったダークブロンドも更に乱れ、ヘーゼルの瞳は血走る。
ここにいてはダメだ。
また蜂の巣にされる。
「待ってください、どこ行くんですか?!」
身を起こし、シートベルトを外しているヴィゴに、ジャスパーは頭を伏せたまま咎めた。
「ああ゛!?お、落ち着けるかよ!ま、また撃たれるかもしれないのに?!とにかく逃げんだよ!!ジャスパーさんと一緒にな!あいつら、どこに身を隠してるかわかったもんじゃな」
「落ち着いてください。あいつらって誰なんですか?!」
「あいつらはゲリラだ!逃げ場のない荒野で待ち伏せして……」
「あなた、何の話してるんですか?ここはマイルズですよ?逃げるならもっと上手くやってください。考えなしに逃げるのは得策ではないと思います!」
ジャスパーの淡々とした指摘に、ヴィゴはハッと我に返る。
「……情けねぇ」
再び頭を伏せながら、頭をガリガリかき乱す。
同じく頭を伏せながらジャスパーは頭を振る。
「ジャスパーさんのが落ち着いてら」
「……ママと暮らしていた頃に住んでた場所が治安悪くて、銃撃なんて日常茶飯事だったので」
「マイルズのスラム街か。あんなとこに住んでたのか」
「はい。荒事に巻き込まれたからと言って、ちょっとやそっとじゃ取り乱しませんから」
「そりゃあ頼もしい」
八歳の少女が言うには、人生何周目だと問いたくなる台詞に、不覚にも苦笑させられた。
気が動転していたのも落ち着きを取り戻していく。
「……まずは、元いた車線に戻らなきゃいけないなあ」
「必要ない」
車の外から強い否定の言葉。
ヴィゴの警戒心が最高潮まで上っていく中、縁石に車をぶつけたまま、身動き取れない二人を、車を、ざざっと素早く複数の影が囲む。
車を急発進させて逃げる。
危険だが最良の方法はこれしかない。
ブレーキからアクセルへ、足を移動させる。
アクセルを踏みだそうとして……、できなかった。
「動くな」
ヴィゴとジャスパー、それぞれの席の横扉が開き。
全身黒ずくめの男たちが二人に銃口を向けてきた。




