やっぱり衝突不可避……?
注意:犬が好きな方には少しつらい描写があります。
(犬が死んだり、傷つけられたりなどのひどい目には遭いません)
更に数日が経過した。
相も変わらずいっそ冷淡な態度、無口はどうでもよくなってきた、が。
同じ失敗繰り返さないよう、毎朝ジャムの計量に神経使いつつ、些細な他事で注意を受け。終いにジャスパーはヴィゴの人間性への疑いまでぼそっと口にするまでに。
所詮は社会を、最低限の礼儀も知らない子供。
本気で腹を立ててもしかたない。そう割り切るも微妙に胃が痛く、身体は正直である。
胃を軽くさすりながら、本日のレシピ片手に冷蔵庫の食材と調味料類をテーブル、流し台のカッティングボードのそばへ並べていく。本日の夕食はブロッコリーとマッシュルーム、カニ缶のクリームパスタ、人参とトマトのスムージーだ。
ブロッコリーを茹でる間に人参とトマトをカットして……、と、脳内で段取りを考えていると、カタン、と音がする。リビングとキッチンの境目、ショーグンが侵入防止ゲートの前に座り込んでいた。
「キッチンに入るんじゃないぞ~」
一応は言ってみたものの、ショーグンは食べ物自体への関心が薄い。人間の物も自分の物も。
考えられるとしたら、勉強に集中するジャスパーにかまってもらえず、寂しさを持て余してヴィゴのそばへ来たのだろう。遊んでやりたいのは山々だが、これから十八時までに夕食を作らねばならない。あと『序列が崩れてはいけないので、私が見ていない時にショーグンをかまわないでください』とジャスパーから言い含められている。
ショーグンはつぶらな黒い瞳で、ゲート越しにヴィゴをじぃっ……と見上げる。かと思うと、上半身を低くかまえる。お尻を高く上げる。頂点となる巻尾を控えめにふりふりする。やっぱり食べ物よりあそんで欲しいようである。
「ごめんなあ」
ヴィゴの謝罪と申し訳なさそうな顔で察したらしい。
ショーグンは『遊んで』の態勢を解き、『今のはなかったことに』と、くるり、ゲートの前から去っていく。物分かりが良いのか、諦めが早いのか。
ショーグンは三ヵ月の子犬だが、悪戯や粗相、無駄吠えも夜泣きも一切しない。まさに人にとって最もたる飼いやすい理想の犬そのもの。
ただし、実は無類の犬好きのヴィゴから見て、少し臆病で自己主張も弱い気もする。犬なりにどこか無理をしている気がしてならない。
犬と飼い主はよく似るとはまさに。
ジャスパーが嫌な顔しそうな感慨を抱きながら、トマトをカットしていると。
「カッ、カッ……、カハッ」
ショーグンがリビングでえづいている、ような?
まさか、と料理の手を止める間に、こぽぉ……という音がかすかに耳へと届く。
「おいおいおい。マジかよっ」
慌ててリビングに駆けつける。
ベージュ×クリーム色のジョイントマットが敷かれた広いリビングの、限りなく端の方にショーグンはぽつんと座っていた。立ち耳を伏せ、巻尾も垂れ。近づいてくるヴィゴを項垂れつつ、上目遣いでちらちら見上げてくる。その途方に暮れた目つき、マットの端っこを隠すような座り方で、ヴィゴはすべてを悟った。
「ジャスパーさん!ジャスパーさん!!」
ジャスパーの私室の扉を連続でノックする。
諸に迷惑そうな表情でジャスパーが扉の影から顔を出してきた。
「ノックの数は三回と伝えましたよね。社会人の常識では?」
「失礼!でも、それよりも」
「それで用件は。手短にお願いし」
「ショーグンがリビングで吐いた」
ジャスパーは特段驚きもせず、ああ、とつぶやく。
「気にしないでください。いつものことです」
「いつものことって……」
「ショーグンを飼い始めて間もない頃もよく吐いていて、心配で病院に連れて行きました。かまって欲しいがためのアピールだと診断が下りました。実際、毎月の定期健診の結果は良好です。それに、ちゃんと適切な時間をかけて私の部屋で遊んであげています。遊びの時間だけじゃありません。散歩の時間と距離、食事の種類と量もショーグンの犬種特性と月齢に応じた最適化させています。健康状態に問題もなく、ストレスも溜まらないよう努めているのです。犬だからと言って、必要以上に甘やかすのは良くないと私は考えています」
いっそ冷淡な程の反応にカチンときた。
八歳の子供でなければ、怒っていたかもしれない。
「で、でもですよ?狼少年の話じゃないっすけど、今まではただのかまってアピールだとしても、今回は本当に具合が悪いのかもしれませんよ?」
「だとしても、あと一時間もすれば夕食の時間です。私は勉強、あなたは夕食を作る。そのスケジュールを崩すほどの重体ではないのでしょう?動物病院に連れて行くのは明日の午前中でも問題ないと思いませんか?」
リビングの奥から、ごぼぉぉ……、とショーグンが再び嘔吐する音が聞こえてきた。
「すみませんが、ショーグンの吐しゃ物の片付けお願いします。夕食の予定が多少遅れるのはかまいま……」
「心配じゃないのかよ」
「何ですか。その口の利き方は」
「ショーグンはジャスパーさんの犬だろ?さっきから自分の都合やら予定の話ばっかでちっとも心配してない。それでも飼い主か?」
ジャスパーの顔色がさっと変わる。
しまった、と思う一方、こればかりは意見しなければ。
たとえ、契約を打ち切られたとしても。
「わ、私だって心配……」
「どこらへんが?」
「し、心配しているから、明日動物病院へ……」
「マイルズの動物病院は三件。どこの病院も今すぐ駆け込めば、受付終了時間までには間に合う」
「勉強中断するのが」
「じゃあ、俺が連れて行く。ジャスパーさんは留守番していてくれ。夕食はデリバリーでも」
「デリバリーを頼むのは契約に反しま……、あ、待ちなさい!」
私室の扉の影から動こうとしないジャスパーを無視、ヴィゴはショーグンのそばへ行き、胸元から喉にかけて優しく撫でると。ジャスパーに背中を向けたまま、「ショーグンのクレート持ってきてくれ」と伝えた。
「契約に違反したんだ。クビ切るなり何なり好きにしろよ。ただし、ショーグンは抱えてでも病院に連れて行く。それだけはさせてもらうからな。いいな?」
ジャスパーが絶句する気配と共に、扉が乱暴に閉まった。
子供相手に大人げないと心中で自嘲しつつ、小さな命への責任がある以上大人も子供もない。
「口汚れちまったなあ。キレイにしてやりたいけど……」
「私がやります」
怒りを押し殺した、幼くも落ち着きある声につられ、振り向く。
緑碧玉の双眸に反省の色を浮かべたジャスパーが、クレートを手にヴィゴの背後に佇んでいた。
「私だって、ショーグンが可愛いですし、大事ですし、心配ですから」
じゃあ、何であんなに病院連れて行くのごねたんだよと思ったが、黙っておく。
同時に、ジャスパーが分刻みのスケジューリングを頑なに忠実に守ろうとしたり、自室に籠る時間が多いことにヴィゴは初めて大きな違和感を覚える。更に、ジャスパーが続けた言葉に違和感は益々膨らむ。
「その代わり、ママへの報告へのアリバイ、一緒に考えてください。違反はそれで無効にします」




