揺れる風の中で
夕暮れ、町がゆっくりと色を変えていく。
空の高いところから、星音の風が舞い降りはじめると、町中の風鈴たちが一斉に鳴き始めた。
やさしく、切なく、どこか懐かしい音が、風に乗って流れていく。
リノアは、町の中央広場にある大きな風鈴塔の前にいた。
淡い桃色の浴衣をまとい、風でほつれかけた髪を整えるたび、胸の奥がきゅっとなる。
「もうすぐ、来るはず……」
そして、ほんとうにそのときが来た。
「……リノア」
風に混じって、声が届いた気がした。振り返ると、そこにカイルがいた。
紺色の羽織、少し伸びた髪。目の奥のやさしさは昔のままだけれど、どこか影のようなものが漂っていた。
「……ひさしぶり」
「うん。久しぶり、だね」
一瞬の沈黙。
だけど、そこに気まずさはなかった。ただ、お互いが相手を見つめなおす、そんな時間だった。
「今年も……来てくれたんだ」
「来たよ。リノアに会いに」
それだけで、胸がいっぱいになった。
言いたい言葉が、喉の奥まで来ている。でも、その先が、どうしても出てこない。何かが引っかかっているようだった。
二人で広場を歩く。夜が深まり、町中の灯りがともる。
屋台の甘い匂い、人々の笑い声、風鈴の響き。すべてが夢のようで、でも現実だった。
「昔と変わらないね、この祭り」
「変わらない。でも……」
「ん?」
「なんか、少しだけ怖いんだ。昔よりもずっと、大事なことがかかってる気がして」
カイルが立ち止まる。
「リノア、伝えたいことがあるんだ」
リノアの心が跳ねた。でも——
「リノアー! こっちこっち!」
ミーナの声が割り込んだ。
タイミングは、一瞬で崩れた。カイルも気まずそうに笑い、少しだけ距離を置いた。
「ごめん、あとで話そう」
「……うん」
それからの時間は、まるで風に流されるようだった。
カイルと歩いたり、屋台を巡ったり、笑ったり。でも、肝心なことは何も言えなかった。言葉が出るたびに、何かにさえぎられる。人の声、タイミング、そして、胸の中の“恐れ”。
「……もう終わっちゃう」
風鈴塔の上から、最後の星音が鳴るのが聞こえたとき、リノアの中にぽっかりと空白ができた。
(このまま終わっちゃうのかな)
風が、少し冷たく感じられた。
「はい、おまたせ〜! りんご飴2つ!」
屋台のおじさんが、竹串に刺された赤く光るりんご飴を手渡してくれる。
リノアは受け取ったものの、手の中の飴はいつもより重く感じた。隣を歩くカイルの顔を、ちらりと盗み見る。
彼もまた、何かを言いかけては飲み込んでいるような、不思議な表情をしていた。
「……覚えてる? 昔、この屋台で、私……りんご飴落としたこと」
リノアが言うと、カイルはふっと吹き出した。
「うん。泣きそうになってたから、俺の半分、分けた」
「その半分、小さくて全然満足できなかったんだから」
「そりゃそうだろ。俺、ひとくちしか食べてなかったんだぞ?」
「えっ……」
「リノアが、泣きそうだったから」
一瞬、風が止まったような静寂が流れた。
でも、それはすぐに、夜風の音にかき消された。
(今なら、言えるかもしれない)
心の中で、何度もそうつぶやく。でも、口は動かない。
言葉にならない気持ちだけが、胸の中で渦を巻いていた。
「風鈴、鳴らす?」
カイルが問いかける。リノアは、思わず顔を上げた。
「……今?」
「リノアの“想い”、きっと届くよ。だって、今日の風、すごくやさしい」
(わかってる……。でも、それが怖いんだ)
“届くかもしれない”という希望は、“届かなかったとき”の怖さと隣り合わせだ。
風に乗せてしまえば、もう戻せない。相手の心が、自分と同じ方向を向いていなかったら——?
リノアはうつむいた。
「……カイル、私、ちょっと……一人で歩いてもいい?」
「……わかった。広場の風鈴塔で、待ってるよ」
背を向けたカイルに、小さく「ごめん」とつぶやく。
返事はなかったけれど、その沈黙すらもやさしくて、余計に胸が痛んだ。
リノアは、町のはずれの通りを歩く。
屋台の灯りも少なく、人もまばらになった小道。
風鈴の音だけが、変わらず静かに響いていた。
(どうしてこんなに怖いんだろう。好きなのに、会いたくてたまらなかったのに)
ひとつ、風鈴が鳴る。
それに続いて、またひとつ。
気づけば、彼のことを想うたびに鳴るような、不思議な感覚があった。
そして、視線の先に、ひとつだけ、ほかのどれよりも高く澄んだ音を奏でる風鈴があった。
「……この音、前に聴いたことがある気がする」
それは、かつて二人で歩いた帰り道、カイルが“秘密の場所”として案内してくれた、町外れの古い神社だった。
その風鈴は“言葉を記憶する風鈴”。
風に乗れなかった気持ちを、そっと留めてくれる、不思議な力を持つといわれている。
リノアは、静かに歩み寄り、目を閉じて祈るように風鈴に手を添えた。
「どうか、この音を、彼に届けて」
でも、その瞬間——
背後から、あの声が聞こえた。
「リノア……!」
振り向くと、カイルが走ってきた。肩で息をしながら、必死に言葉を探している。
「言いたいことがあるんだ。ずっと、伝えようと思ってて。でも、うまく言えなかった」
風が、また鳴った。
「俺、……リノアのことが、好きだよ。ずっと、ずっと前から」
それは、風鈴よりも澄んだ、まっすぐな声だった。
リノアの目から、静かに涙がこぼれた。
「……わたしも」
ようやく、ようやく、届いた想い。
二人の間に吹いた風が、優しく鳴った風鈴の音を乗せて、夜空の星の方へ、そっと舞い上がっていった。