風の鳴る前に
ラセリアの夏は、風から始まる。
朝、髪をくすぐる柔らかな風に、町のあちこちで吊るされた風鈴たちが、さわり、さわりと静かに鳴き始めると、人々は口々にこう言う。
「今年も、音灯祭がやってくるんだねえ」
少女・リノアも、その音を聞きながら、窓辺の風鈴に指先をそっと添えた。銀の小さな鈴がひときわ高く鳴る。音が澄んでいるのは、想いが届きやすい証だ。
「今年こそ……言おうかな」
風に乗せて、大切な人に想いを届ける——音灯祭は、そんな風の告白祭でもある。
リノアの想い人は、隣町から毎年この祭りに訪れる幼なじみ、カイル。彼は物静かで、音に敏感な青年だった。小さい頃からリノアが話すことに耳を傾け、どんな些細な言葉も真剣に受け止めてくれた。
「この町の風は、ちゃんと“気持ち”が聞こえるんだって。だから、嘘をつけないんだよね」
あの頃の言葉が、今も胸に響く。
そんな彼に、リノアはようやく伝えたいことがある。言葉にすればほんの一行なのに、口にするのはなぜこんなにむずかしいのだろう。
「カイルが来るまでに、髪、整えとかなきゃ……あと、浴衣……」
棚から浴衣を取り出して広げた瞬間、布地に織り込まれた花の模様が、夜の風に揺れる花火のように見えた。
鼓動が早くなる。
空気が少しずつ、音の色を帯びていく。
祭りの夜が、近づいていた。
浴衣を広げたまま、リノアはしばらく手を止めていた。
薄桃色の布に、夜風草という花の模様が織られている。祭りの日にしか咲かない、不思議な花。香りも色も風にしか映らない——そんな伝説を持つ花だった。
「……この浴衣、似合うかな」
誰にともなく呟く。だけど、それが誰に向けられた言葉か、自分が一番よく知っている。
頭に浮かぶのは、あの人の表情。驚いたように目を見開いて、でもすぐにふっと優しく笑う、あの顔。
窓の外では、町の子どもたちが走り回っていた。提灯の飾りつけが始まっていて、屋台の準備も少しずつ始まっている。焼き菓子の甘い香り、香辛料の効いた香ばしい串焼きのにおいが、風に乗って漂ってきた。
リノアの胸が、自然と弾む。
「今年の音灯祭は、きっと、特別になる気がする」
カイルは、数日前に手紙で「行けるよ」と伝えてきた。筆跡は変わっていなかったけれど、どこか落ち着きがあって、大人びた印象を受けた。久しぶりに会う彼は、どんな顔をしてるだろう。どんな声で、何を話すんだろう。
緊張と期待と、ちょっとの不安が胸に積もる。
「リノア〜! 明日の飾りつけ、手伝ってよー!」
玄関の方から、親友のミーナの声がした。リノアは慌てて浴衣を畳み、髪を結い直して外に出た。
町は、もうすっかり“お祭り前の顔”になっていた。
小さな広場には、風鈴を吊るす柱が並び始め、職人たちが音の調整をしている。音の微妙な高低が、想いの強さや種類に関係するから、仕上げには細心の注意が必要なのだ。
「ねえリノア、今年は誰に風鈴、鳴らすの?」
ミーナのからかうような声に、リノアは顔を赤くした。
「な、鳴らすとかじゃなくて……! ただ、その……もし、タイミングが合えば……」
「ふーん、まあ、カイル君来るんでしょ? あんた、今年ぜったい言わなきゃ後悔するよ?」
「……うん、わかってる」
“わかってる”と言いながら、やっぱり怖い。
想いを伝えるというのは、自分の心を風にさらすこと。風鈴が割れることも、音が鳴らないこともある。それはつまり——想いが届かない、ってこと。
でも、だからこそ、音灯祭なのだ。
日が暮れる。空が桃色から藍へと溶けていく中で、風の音が一段と強くなる。
その音に包まれて、リノアの胸は、これまでにないほど高鳴っていた。