料理長の悩ましき日々
陛下が後宮に客人を迎えられた。
その端的な知らせは、長時間丹精込めて煮込んでいたスープの味を台無しにしてしまうほどの衝撃をサイード・ジャリラーに与えた。色が劇的に変わってしまったスープに、覗き込んでいた見習いの少年が真っ青になる。
いや、しかしそれも些細なこと、と一国の宮殿における料理の全てを取り仕切るサイードは勢いよく振り返る。
その鬼気迫った表情に見習いの少年だけではなく、厨房でせっせと昼餉の準備をしていた他の料理人たちも大いに驚いた。…むしろ怯えた。サイードの勢いは確かにそれだけの反応を起こすのには十分であったが、むしろその容姿が大きな要因となっている。
サイード・ジャリラー。
周辺諸国にもその料理の腕が認められるほどの男であり、料理に対する情熱と面倒見の良さ故に部下からは熱烈な支持が寄せられている。
しかしながら。
初対面の人間に宮殿で働いていると言えば、10人中9人は武官であるだろうと予想し、残りの1人は武官のようだが宮殿に仕えているにしては目つきが険しすぎるから嘘だろう、と判断する。
平たく言ってしまえばその辺のゴロツキのような顔とがたいをしているわけである。無論、宮殿の人間ははサイードが素晴らしい料理を作り上げることを知っているし、ましてや暴力をふるうことがないことも重々承知している。しかし、料理人にはあまりにも不釣り合いな隆々とした筋肉に、やや著しい大声を持つこの男が普段とは違う、大きな行動をとれば生物として反射的に身構えてしまうのはもはやどうにもならない。
「それは本当なのか!?」
そんなこんなで。
サイードに掴みあがらんばかり…にしか見えない勢いと、本人は全くもって無自覚なその鋭い視線に射抜かれた後宮付きの女官はかわいそうなことに震えてしまっている。
しかし、そこは後宮の、しかも有能で与えられた仕事に忠実なことで評判の今代の宮殿の女官はそれでも顔をあげてサイードの顔を見上げて震える声を振り絞って音をひねりだす。
「は、はい。シーラ様がそのようにお伝えするように、と。」
後宮に仕える銀髪の、可憐な少女の精一杯なその様子は料理に人生をかけている料理人たちの涙腺を刺激するのに十分なものだったが、唯一サイードだけはそんなこと全く意に介さず、しばし放心し。
「何てこった!!!」
爆発した。
見習いの少年はこの瞬間、鍋が自然とひっくりかえったのを見て、ここへと修行に来た自分の選択を少し呪った。
「あの!陛下が!?」
若いころから宮殿で料理の腕をふるい、いつの間にか料理長となったサイードは古参の域に入る。
王がこうなってしまった理由を、正しく知る数少ない人間の一人であるからこそ、信じられなかった。
ただの客人ならば問題はない。仮にも一国の中枢。他国の貴賓は無論のこと、国内の貴族たちも集まる宮殿だ。何の不思議もない。
しかし、『後宮』となれば話は別だ。
後宮。それは並はずれた美姫や国に有効な姫を囲う美しい鳥籠。
つまり、後宮に存在して許されるのは『女』だけである。当然、そこへの『客人』であれば女と考えるのが妥当である。
『後宮』
そして
『女』
これは王の逆鱗だ。
…だったはず。
サイードは驚いていた。それはもう…目の前でもはや完全に怯えきって目じりに涙をためて、それでもその場に踏みとどまっている女官に気がつかないくらいに。
そして、王に『客人』と言わしめたその女に興味が芽生える。
その女は王を……?
「……好物は?」
打って変わった静かな問いかけ。
その落差に、厨房中が疑問符を浮かべる。このわずかな時間の中で料理長に一体何があったのかと。
「その客人の好物は?…そのためにここへ来たんじゃないのか?」
サイードがもう一度問う。
ひどく真剣な眼差しはさっきまでの恐怖を与えるようなものではなく。
「い、いえ。そのようなことはシーラ様から承っておりません。ただ、姫君がいつお召し上がりになられても良いように準備を、との……」
「…何てこった。」
サイードは厨房を見渡す。
王の住まう宮殿の厨房にふさわしく、色も形も勿論その味も一流の食材に、入手が難しい各地の珍味。そしてそれらを調理するための様々な道具はひとつ一つ丁寧に手入れがされているサイードの誇りたる場所。
後宮を取り仕切る女官長たるシーラは、サイードと方向性こそ違えど、同じ種の誇りを持ち、常にその役職にふさわしい働きをしてきた。後宮に姫があふれ、互いに寵を競いあっていた時でさえ、素晴らしい手際の良さと繊細な気配りをしていた。
時めく姫であっても、古参の姫であっても、新参の姫であっても。その嗜好、習慣の全てを記憶しそれにふさわしい采配を行う。
そのシーラがただ「食事の準備」をするように計らったということは、『何も知らない』からに他ならない。
全く、これでどうしろというんだ。
サイードは深く溜息をつく。辛いものが苦手な人間に、如何に美味な料理を出したところでそれが辛ければ決しておいしいとは感じられないように。これでは腕の振るい方すら分からない。
まぁ、だからこそわざわざ『準備』をするようにとのお達しなのだろう。
それに。
シーラは『何も知らない』その女を認めている。
その気持ちをサイードは良く分かる。
たとえ全てが謎だとしても。それがいい意味であれ悪い意味であれ。
その女はかの王の『特別』に違いない。
「全員、良く聞け。」
めったにサイードが発することのない重い響きを持った『命令』。
緊張感が走る。
こぽこぽと湯気を立てる鍋。水の流れる音。
いろいろな音と、人の声とが混ざり合ってざわつく厨房でそれらの音が痛いほど鮮明に聞こえることは稀である。
「今からできる限りの料理の下ごしらえを始める。料理の種類も味付けも問わない。好きなだけ食材を使え。可能な限り準備をしろ。非番のやつも叩き起こしてこい。」
困惑する者。その意味に気がついて満面の笑みを浮かべる者。状況についていけない者。
少しずつ、ざわめきが広がる。
「さぁ、腕の見せ所だ。」
女官を幾人も伴ってシーラが厨房へやってくる。
目にしたのは広いはずの厨房のテーブルを埋め尽くす皿、皿、皿。
深いものから浅いもの。
冷たいものから温かいものまで。
「…サイード、こんなに作ってどうするつもりですの?」
ともに宮殿で仕えてかれこれ30年にもなる同僚にシーラは呆れた声で問う。
「これを望んだと思ったが?」
そうこういう間にも、サイードの手は止まることなく新たな食べ物を作り出す。
「ええ、確かにそうですが……そういえば貴方は昔から限度を知らない方でしたわね。」
シーラは女官たちに指示して料理を運ばせる。そして、残った皿の多さを見て人数を増やすように命じる。
「で、どんなお姫さんなんだ?」
「失礼ですわよ、サイード。」
シーラが来たことで終わりを悟り、どことなくやり遂げた表情で片づけを始める料理人たち。
その厨房の片隅で。料理長と、はるかに背の低い女官長が小さく言葉を交わす。
「まさかこんな日が来るとはなぁ…」
「そう、ですわね。」
「俺たちができなかったことをそのお姫さんはできるのか?」
「ですから、貴方はもう少し敬意を払うことを覚えるべきですわ。……それはまだ分かりません。」
「それにしてはずいぶんとその……姫君を買っているようだが?」
「ただ、きっと何かが変わったのだと思いますわ。その変化をもたらしたのはかの姫です。」
「それはまた…。『奇跡』みたいな話じゃないか。」
「あら、貴方が奇跡を信じるなんて。意外ですわ。」
「良く言う。……そう思ってるんだろ?」
「願わくは、ですけど。」
かの少女が確かに何かを変えたように。
色々なものが変わっていくことを。
「ったく、どうしろってんっだ!!」
後宮に客人が来てから、料理長の機嫌は上下が激しい。
元より熱血な人間だったが、それから冷静さを引いて、情熱を足したような……なんとも大変なことに厨房はなりつつある。
初めはどなり声にいちいちびくびくしていた見習いも、そろそろ何かを悟ったのか、どなり散らしながらも止まることなく素晴らしい料理を生み出す料理長から技を盗むべくその手元を見つめている。…野菜の皮を剥きながら。
「あんなに作らせといてカチュラルしか食わなかっただとぅ!?一体何が気に入らなかったんだ!!」
決して料理が悪かったわけではないのだが…それはサイードの知る所ではない。
サイードと厨房の災難は続く。
今度こそは、と思って作った食事は『客人』が戻ってこない、という理由でその口には入らず。
そんなことが何食も続いた時にはもはや意地になって料理を作り続けた。
馬鹿みたいな量を毎食毎食出した結果王から苦情が来て、もはや踏んだり蹴ったりだ。
結局、『客人』の好みは分からずじまい。
「こんなに留守にするお姫さんなんて聞いたことないぞ……」
それでも作り続けたある日に、届いたのはまさかの『客人』の失踪。
厨房を放り出して全員総出で『栗色の長い髪の毛をした華奢な姫』というなんとも曖昧な情報を下に探し回り。
基本的に屋内での仕事が多い料理人たちが、みごとな筋肉を持つサイードを除いて疲れ果て厨房に座り込むころに、見つかったとの知らせを受けて胸をなでおろす。
『戻らない』と『失踪』の違いが分からないまま久々に『戻った』姫君のために夕餉を作る。
不思議と振り回されることに苛立ちはなく、むしろこと王すら振り回す異例尽くしの姫君が次は何をしでかしてくれるだろうか、と期待すらしてしまう。
……できれば次に何かを起こす前に好物を教えてほしいところではあるが。
料理長の悩ましき日々はとりあえず今日も続く。