シーラの変則的な一日
これは「エピフィルムの雫」の番外編としての位置づけとなる物語です。本編を御読みでない方はそちらから御読みになることをお勧めします。
また、本編同様血が流れるような残酷な描写がありますのでご注意ください。
シーラの朝は早い。
起きて身支度を済ませた後、仕事の場である後宮へと出向く。とはいうものの、住居自体が後宮にあるため然したる労力は掛からない。
いつもと変わらず磨き上げられた廊下。多くの美姫とその身の回りを世話する女官、果てはその下女まで、多い時には千人は下らない人間が暮らし、欲望と憎悪にまみれてきたこの場も、現在は大いに閑散としている。
シーラの本来の職務はこの後宮の取りまとめ、すなわち女官長である。役職自体は現在もそうなのであるが、今代の王になられてからは、役職にふさわしい職務は行っていない。
機嫌を損なわせぬよう繊細な気配りをする必要とする妃たちはいなく、統括すべき女官も下女もずいぶんと数を減らした。
自分の歩く靴音が木霊する、この閑散とした廊下を歩くたびにシーラは物悲しくなる。
この状況を生み出してしまったものに。
とはいうものの、足を向ける先には人の気配。
男子禁制の後宮において、住まう者の有無に関わらず必要となる最小限の女官と下女が集まる広間。後宮が正しく機能していた際には貴族の姫君がひきつれてきた女官や、王の目に止まることを期待して送り込まれた下級貴族の女官たちであふれかえっていたこの部屋にも、現在ではそのような下心を持つ人間はいなくなった。
「みなさんおはようございます。本日は少々寒いですが、日中は変わらず暑くなるでしょう。陛下がお越しになられても何一つ不自由を感じられることがないよう、仕事に励んでください。」
細かい仕事を割り振る。
大きく仕事場所が変わるということはないものの、万が一にも王に会ってしまうことがないよう複雑に入り組んだ指示を出す。
「では、始めましょう。…くれぐれも陛下にお会いすることのないよう、細心の注意を払うように。」
もはや定型となった挨拶で女官たちは解散する。
シーラにはこうすることでしか後宮に安寧をもたらせない自分に歯がゆい思いを噛みしめた。
外を見ればかすかに明けゆく空。
時間が迫っている。急がなくてはならない。感傷に浸っている場合ではない。
前例がないほど、今代の王の朝は早いのだから。
そして。
シーラは昨晩のやり取りを思い出して溜息をついた。
きっと今日も繰り返されることに頭が痛む。
控えの間に常備されるようになってしまった大量の包帯を手に、王の寝室へと入る。
「陛下、起床の…っ」
手にした包帯を思わず取り落とす。
入口からほど近い壁を背に、倒れているのは見知った顔。
真っ白を通り越して真っ青な皮膚を伝うのは赤。
ずいぶんと変色し赤黒く乾いてきている。
震えだしそうな足を叱咤して、駆け寄る。今までとは違う状況に頭がよく回っていないことを自覚しながら、呼吸を確かめる。
細く、消え入りそうなほどではあるが確かな生命の音。
良く見れば肩の傷からは新鮮な赤が細くあふれだしている。
安堵し、それどころではないことに気がついてシーラは慌てて落とした包帯を拾い上げる。
「…朝、か。」
手際良く応急処置的に女性の肩にそれを巻きつけていると気だるげな声が背後から聞こえてきた。
「陛下……」
シーラの咽喉からこぼれおちるようにして声が漏れる。
仕えている主たる王が片手で顔を押さえながら起き上がる。指の間から冷たい黒曜石の輝きがこちらを見据える。
「…騒がしい。お前らしくもない。何をそんなに動揺する?」
これが初めてというわけでもあるまいに――――――――
シーラは巻き終わった包帯をとめ、もう一度その女性の顔を見た。
「しかし……この方は。」
次の言葉が漏れ出る前に、シーラを王の鋭い視線が射抜く。
その視線は追及を無に還すもの。紡がれなかった言葉はシーラの胸の内に落ちた。
それにしても…ここまで傷つけておきながら、この女性にとどめを刺さなかったことがシーラには意外に思えた。
良く…とどまれたものだ、と。
王は女性には目もくれずに続きの間へと進んでいく。
そして、出ていくそのときに。
「それ、は俺の客人だ。丁重にもてなせ。……それがいなければ止まらなかった。」
王はそれだけ言うと部屋を出て行った。
部屋にはシーラと女性と…それ。シーラはあたりを見回す。おおよそ客人に見える者は見当たらない。
そもそも警備のほうから連絡もないのに、王の寝室に誰かがいることなど考えられるか。
それよりもとりあえず、とシーラは倒れている女性を移動させるべく人手を呼ぼうと立ち上がる。
女官が何人かやってきて丁重に女性を運び出し、部屋にはシーラ一人となった。
「それ…と申されましても」
何度見渡しても自分以外に姿は見えない。
隠れているというのも変な話だ。あそこまであの女性を傷つけた王を止めた人物。王を良く知っているシーラからすれば信じがたい話だ。
見渡して、物陰をみて。そして。
「あら…」
王の寝台の上。一国の主の寝台にふさわしく幾重にも重ねられた布が垂れ下がる天蓋の陰で、クッションと敷布にくるまったその存在を見つけた。
見たところ、とても小さい。伸びた髪の毛は柔らかそうで寝台の上に無造作に散らばり、その主を守るように姿を隠している。
シーラはそっと近づき、顔にかかる髪の毛と敷布をどかす。
まざまざと見る。
「女の子…?」
小さく寝息を洩らしながら眠りについているのはどう見ても少女。
信じがたい光景にシーラは自分の頭がくらつくのを感じた。
敷布からのぞく腕は恐ろしく細く、その色は先ほどの女性ほど青ざめてはいないものの、十分不健康そうに白い。
貧民街でしばしば目にする子供にしては手がきれいすぎる。
そもそもこんな少女が最も警備が厳重であるはずのこの王の部屋に入ってこれたこと。王が自分の隣にこの少女を眠らせ、自らも寝ていたということ。
そして、何よりもこんな少女があの王を止めたこと、止めることができたということが信じがたい。
シーラの頭は混乱する。
でも。
どこの誰であろうと、何者であろうと。
王は客人と認め、この少女は王を止めることで確実に王を救ったということがシーラにとってのすべて。
この少女はこの折れそうに脆いその両手で守ったものの大きさを知っているのだろうか。
知らなくとも、シーラは知っている。
それだけでシーラが少女に、いやこの後宮の全てが少女に仕える理由になる。
少女の柔らかい髪を優しく梳きながら、シーラは過去に、王の闇に思いをはせる。
もしかすれば、この少女は――――――
「神よ、奇跡を感謝します」
その語尾は涙で滲み、こぼれた言葉は静かに部屋を震わせた。
しばらく立ちつくし、そしてシーラは目の前の少女を『もてなす』べく行動を開始した。
良く眠っている少女には申し訳ないと思いつつも敷布を全てはぎとれば、目に映るのは奇妙な形と柄の服。小首をかしげながらもシーラの前ではそれも些細なこと。
女官の中から、少女に年が近く特に口が堅い者を数名選んで少女の服をはぎとる。女官たちは若干目を白黒させ少女を見つめる。
「この方は王の客人です。そして…」
足りない何かを探すように言葉を切った女官長に女官たちは何かを察した。
そうして少女は沐浴させられ、探し出された洋服を身につけさせられる。髪の毛は丁寧に櫛梳られ、全身に香油を塗られる。
驚くべきは少女がこれだけのことをされて目を覚まさないことであるが、心配になったシーラが王に尋ねれば、それは少女がジンニーだからだろうと返される。
かの少女がおとぎ話に出てくる魔人には思えなかったが、実際には違ったところでシーラには大して変わりはない。
戻ってきたシーラは目を覚ました少女と出会う。
そのひどく変則的で、何かを予感させる一日の終わりに。
願わくは、この変則的な一日が永久たれ、と。