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サハリン島(チェホフの同名小説の単略サマリ)

作者: Oleg
掲載日:2022/12/04

前書き

不思議なことに、チェホフがサハリンまで旅行した時期(1890)、Alfred Wakano(Wakano古芸術品コレクションについて個別の記事https://ncode.syosetu.com/n1137hs/ご参照)がサマラ市でビール工場を設立した時期(1891)、ニコライ二世が日本まで旅行した時期(1891)がほぼ被っています。その時代に触れ続け、「サハリン島」の簡略バージョンを作成することに決めました。


 1890年7月5日にアムール川に置かれているニコラエフスク町に着きました。海までは後30キロぐらい。景色がいいものの、激しい冬、厳しい風習、懲役所が近いことから眺めるところではない。それに、ホテルがないようで、蒸気船もハバロフスクに一旦帰るから泊るところを探すべく、現地の市役所みたいな建物にて昼飯を食べながら周りの人の話をゆっくり聞くことにした。同じロシア語をしゃべるようだが、話題もウォッカの味合わせも全く違い、なんだか別惑星のようである。酢漬けキュウリの代わりに生魚を食いながら中国人が覚醒剤を作る鹿の角、歯を指で引き抜く日本人の歯医者、タイガで黄金を採掘するツングス人等々の耳慣れない話をする。

止む無く宿泊もこの市役所みたいな建物になってしまった。

あんな感じで三日も過ごし、ようやくサハリン向けに出港した。夜は蒸し暑く、デッキに上がれば監禁者もその警備員も幾人かの乗客も混ざってぐっすり寝ている。噴水を吹き飛ばしながら遊ぶクジラを眺めながら改めて何故こんな遥々旅行に決めたのか悩み考えた。懲役者の取材で行くのに「あんたが政府高官じゃねいから懲役者と話す権限がねいぞ」と同船に乗る将校の言葉も頭脳に突っ込んでいた。気が重かった。

午後の9時頃にサハリン島の北西部にあるZhonkier埼にある湾に着いて、向こうから荷下ろしに懲役者を乗せたフェリー船が迎えに出た。その人達の表情を見ればなんとなく更に気分が重くなった。

夜は船で過ごし、翌朝の5時に起こされ、ボートに乗って島に漕ぎ出した。隣のボートには、夜ずっと荷下ろしをしていた懲役者が乗り、だるくて、むっつりした感じで黙り込んでいた。

サハリンに上陸し、馬車で町に向かった。道路がシベリアの凸凹に比べて遥かに増しであった。現地の病院に務める医者の所で泊ることにした。

サハリンには、約1千人の懲役者、約500百人の警備、そして懲役機関が満期し、自由民として暮らす数千人がいる。懲役者を応援に来た親戚もいる。懲役者は滅多な例外を除き、

何某の枷を掛けず自由に街を歩き回る。最初の内、斧を握っている懲役者の側を通る時とか、知り合いのところに飛び込んだ時ナイフを握った懲役者の料理人に遭遇する時とか、びくびくしたりしたが、間もなく慣れた。子供のシッターを務める終身刑*の懲役者もいた程です。

* 当時、最長20年間

サハリンまで行く理由は、懲役者のストーリを聞き、その暮らし状況を確認し、新聞記事を書くものです。従って、可及的速やかに現地の行政府の人と面識を作り、それぞれの懲役者の所を訪ねる許可を得た。

先ず第一に刑務所の本館を訪れる事にした。建物の周りには清潔で、水溜まりもガラクタも何もなく、案外として感動した。階段を上がり、廊下を通り、部屋に入った。数十人の監禁者が黙って立ち上がった。洋服と靴はぼろぼろとしてもまあまあ洋服と靴である。壁には両方を直す道具が見られ、監禁者に限らず、町の人向けにも洋服と靴の補正サービスを提供しているそうです。監禁者と言っても別に町も自由に歩かれるのである。ただし、逃げれば所謂「かせ屋」に入れられ、自由に出掛けられなくなる。私が入った部屋は枷屋ではなかったのである。

一応、枷屋にも案内してもらった。20人ぐらい入っていて、流石に全員足枷を掛けられている。隅に便器バケツが置いてある。一人が「二度と逃げないから枷を外して下さい」と叫びだした。やはり、サハリンで一番普及している脅し方「枷屋に入れてやるぞ」との意味をその瞬間実感した。

1人乃至2人しか入っていない個室もある。枷を掛けられている人がいれば掛けられていない人もいる。その中で一人部屋に籠る有名なソフィア「黄金の手」という女子泥棒がいる。ロシアのみならずヨーロッパの町々で数知らないインチキをやりこなし、逮捕されても逃げる噂の婦人。サハリンの刑務所からも一回逃げ、捜索された数日間の内に屋台売りの二キチン氏が殺され、ユダヤ人のユロフスキー氏から56千ルーブルが盗まれた。何れもソフィアが係わった証拠が見付からず、単純に二度と逃げられないように枷をかけられたのである。 

後程考えたが、この島で56千ルーブル持てる人と言えばどんなものなのだろうか?色々尋ねた限りでは、刑務所で博打をやる際、資金を貸す人、質屋みたいな人が監禁期間が終了し、自由生活になっても質屋を続けるモノである。資金を貸す際、期間が1日間であったり、2-3時間であったりすることもある。10%利子付きで返せなかったら大変な処罰が待っている。それでソフィア「黄金の手」がこういった水商売のすれっからしから何年間かで貯めた資金を僅か数日間の仕掛けで奪えたものです。


***

私のサハリンにおける生活が何とか治まり、既に知り合いになった人から始め、徐々に取材に着手した。その時は、泊めてもらっていた医者が大陸に引っ越し、また別の良い人の間借りをしていた。この人の助手がエゴールといって、一応懲役者ではあるが、枷掛けられず「普通」に暮らしているもの。エゴールの話を聞くと、殺人容疑を掛けられ、ろくに調査を掛けられずサハリンまで送られた。1887年にサハリンに渡る「Kostroma」船が沈没しかけ、やっとのとこで枷を外され、助かった。サハリンでは、土地を耕したり、

木を切ったり、建物を立てたりし、仕事が好きだから懲役以外でも人に手伝ったりする。神に祈るのが大陸に残った子供が頭良く育てられる事だけである。

後に他の懲役者のストーリも聴取し、上記のエゴールの話がかなり典型的であると分かった。一つ例外なのは、60人を殺した65歳の老人テレホフだった。このテレホフが懲役所から逃げる度に一番「金持ち」の懲役者を仲間にし、途中で殺し、その資産を自分のモノにし、死体を切断し、川に捨てる犯罪を繰り返している。それで、一番最後に逃げ、兵士が逮捕しようとしていたところ、大きな棍棒を振り回しながら抵抗していた。私は、彼の濁った眼やでかい四角い頭をみながらそのストーリの信憑性になんとなく信じ込んだ。

北サハリンでは、様々な人と会って話を聞いたが、同島で懲役所が出来た以前から住み込んだ人の話が一番興味深かった。私がサハリンを回っていた時はそういう人が一人しか生きていなく、1860年に懲役所が丁度始まろうとした頃にロシア本土から来たカルプ・ミクリュコフという元看守。本人は、61歳と言うが、実際は70歳過ぎていて、話が長く、全てが懲役所をテーマにした話題ばかり。真夜までカルプと話し、彼が疲れて寝付けば聞いたホラーストーリを頭の中で若干整理する為に外に出て新鮮な空気を30分程吸っていた。

実は、カルプよりもずっと前からサハリンに移ったシシマリョフ中尉という人物が南サハリンに住んだが、私が来る数か月前に亡くなり、会おうがなかった。この人について伝説があり、サハリンが初めて水面から突き出た昔々の頃にその上にいたのはセイウチ一匹とシシマリョフ中尉だったという物語。

さらに、イラクリー巡礼者のストーリーも面白い。実は神父さんですが、所属する協会がなく、サハリンのあちこちを巡り回っていたものです。ブリャート民族出身者で、サハリンで約8年過ごし、キリスト教・正教オルソドックスを説法していた。真冬でもタイガ森林を歩き回り、夜は羊皮から出来た袋の中に入って寝ていたそうです。サハリンの行き届き難い所々で約300人のオロチョンに洗を与えたものです。

他に「特に」面白い人物と言えば60歳弱のAltuhovと名乗る懲役者です。三日に一回は必ず逃げる。ただし、「逃げる」といっても懲役所から僅か1キロしか離れていない山に登り、タイガ、海、空を眺め、懲役所に自主的に戻る。そして翌日またその山に「逃げる」。最初は体罰を掛けられていたが、犯罪者より精神病者として認知され、ほっとかれたのです。

因みに、懲役者の健康の統計を見れば1889年には11,309回とあり、大体一人の懲役者が年に2回ぐらい医者を訪れたのです。上記のような精神病患者が基本的に自分で医者に行くことなく、「連れられる」モノなので数的に少なく、1889年には25人しかいなかった(Altuhovがその中に含まれているかどうか確認出来ず)。病気の件数で一番大きいのは食中毒で、1889年には1760件が正式に登録された。月で言えば8月がピークで、魚の食べ過ぎが理由です。激寒が来る12月には肺炎が平均より増える。



地名について

サハリンにおける諸々の地名にも触れたい。ここの地名は、基本的に高官の名前を借りて名付けられたのです。例えば、Derbinskoe村は、Derbinという噂の奉行、即ち棒を持ちながら懲役者を殴りまくり、懲役者に復讐で殺されたモノを記念している。このDerbin氏を製パン屋でナイフで刺した懲役者がいじめを受けた懲役者全員から割り勘感謝金60ルーブルをもらったそうです。

ただし、例外として事件の名前を持つ地名も見当たりました。真冬死ぬまで凍ってしまった上記にて明記されたイラクリー神父がアイヌに救われ、その場所に「アイヌ救われ神父(Popovskie Yurty)」という名前がくっ付いてしまったそうです。

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