なんのために生まれてきたの
僕は8歳。
今日初めて、お葬式にいった。
死んだのは、僕のひいばあちゃん。
お葬式にいったら、おじいちゃんが泣いていた。
いつもは、怖いおじいちゃんが泣いていて、僕はびっくり!
人はなんで死ぬんだろう?
人はなんで生まれてきたんだろう?
僕はなんのために生まれてきたんだろう?
お葬式のとき、親戚のやさしいおばあさんに聞いてみた。
「人は、神様がつくったんだよ。
ただ、人は神様の言うとおりに生きることができなくて、
死ぬことになったんだよ。
でも心配しなくていいんだよ。
悪いことをしないで暮らしていれば、死んでも、
そのあと、神様のそばに生まれ変われるんだよ。
すべての人には、神様が命じられた命令がそれぞれあるんだよ。
それを行うために、それぞれのひとは生まれてきたんだよ。」
「うーん。ほんとうかなぁ?」
親戚のおもしろいおじさんにも聞いてみた。
「人がなんで生まれてきたのか、なんで死ぬのかとかは、わからないなぁ。
生物というのは、そういう風にできているからねぇ。
生物であるかぎり、生まれて死んでいくんだと思うよ。
生物は、そういう風に進化してきているからね。
生物にかぎらず、
宇宙のすべてのものは、原因と結果の積み重ねの中で動いているんだよ。
なんのために生まれてきたのかはわからないけど、
幸せになるように生きていけばいいんだとおもっているよ。」
「うーん。ほんとうに、生きるとか死ぬとかに理由はないのかなぁ?。
そうだとすると、ちょっと寂しいなぁ。不安だなぁ。
すべてのものが原因と結果の積み重ねだとすると、
僕の人生って、もう決まっているの????
そんな人生に意味はあるんの?」
親戚のおだやかなおじいさんにも聞いてみた。
「君は、人生について悩んでいるんだね。
たしかに、人間は死んでしまうね。
いままで、死ななかった人間は一人もいないしね。
実は、この世界で見たり聞いたりするできるすべてのものは、
絶え間なく変化していくんだよ。
ずっとあるものはないんだよ。
実は、君が見ているものは、そのものズバリが見えているのではなくて、
そのものズバリと君との間の関係のなかから現れる幻のようなものなんだ。
まるで、テレビに映るアニメのようなものなんだよ。
アニメキャラクターそのものズバリがあるのではなくて、
絵を描く人やテレビ局や君のうちのテレビをとおして、
君にはアニメが見えるんだ。
実は、君が見ている人生も、こんなアニメのようなものなんだ。
だから、人生はかわっていくんだよ。
だから、人生がアニメなら、人生の悩みもアニメなんだよ。
そういうふうに考えれば、人生の悩みもきえるよ」
「本当かなぁ? それが本当なら、やっぱり人生は無意味なんじゃないの?」
親戚の親しいお姉さんにも聞いてみた。
「そんな難しいことは、私にはわからないなぁ。
その疑問は、答えがわかるには難しすぎる問題だと思うよ。
私は、答えが確実にわかる問題から考えることにしてるの。
そして、私は、生き物の勉強をすることにしたの。
生き物を勉強していると、いろんなことがわかるよ。
たとえば、私がいま生きていることは、
ものすごく奇跡的な確率で起こっているんだよ。
私はお母さんのお腹の中からうまれてきたんだけど、お母さんのお腹の中には、
たくさんの卵子があるの。
たくさんの卵子のなかで、たった一つが、私になったの。
ほかの卵子が育った場合、私はこの世界にいなかったかもしれない。
そうおもうと、私が生まれてきたことはとっても不思議だよね。」
「たしかに、今、ぼくがいきているのって不思議だね!」
親戚の楽しいお兄さんにもきいてみた。
「ぼくも、自分がなんで生まれてきたのか、考えたことがあったよ。
だから僕は宇宙のこと勉強することにしたんだ。
宇宙って不思議なことだらけなんだ。わからないことだらけなんだよね。
僕たちが住んでいる地球も、太陽も、宇宙自体も、遠い昔にできたんだけど、
どうやってできたのは、わかんない点が多いんだよ。
地球も太陽も、たぶん、遠い未来には、
人が住めないような星になったりするんだろうね。
ただ、おもしろいことも分かってきたんだ。
この世界って、たった一つだと思っていたけど、
いくつものいくつもの世界がありそうだっていう学説もあるんだ。
この世界は、
あまりにも地球人が生まれることにとって都合よくできているから、
あまりにも不自然なんだって。
だから、たくさんの世界があったなかで、
そのなかの一つがこの世界にすぎないと考えたほうが
自然なんだって。
本当に不思議だよね。」
いろんな話をきいてきた。
ぼくは、夜ひとりでかんがえてみた。
朝、ぼくはおもいついた。
お兄さんが言っているように、いろんな世界があるのなら、
僕が生まれなかった世界もいっぱいあるだろう。
そこで、今いるこの世界と、
僕がいないだけで他のことはすべて同じ世界を比べてみよう。
この二つの世界は、本当によく似ている。
ただし、僕が存在するかしないかだけが違う。
この二つの世界のそれぞれの幸せの合計を比べてみよう。
そうすると、僕が存在する世界のほうが、
僕が存在することによって幸せの量がふえているように、思う。
だって、僕は幸せを感じているし、
僕がいることでお父さんお母さんは喜んでくれている!
僕がいることで、この世界は、幸せの量は、ちょっと増えたんだ!
それに、おねえさんがいっていたように、
僕がうまれてきたことがとっても奇跡的なことならば、
この世界は、奇跡的に僕が存在することで、
ちょっと幸せの量がふえているってことになる!
そう考えると、僕の存在や、僕が存在するこの世界は、
なんと価値がたかいものなんだろうと思う!
身近な人が死ぬと悲しい。
それは、その人が、自分に幸せをくれていたからだ!
つまり、僕がかなしいということが、
その人が僕に幸せを与えてくれているという証拠だ!
他人に幸せを与えてくれる人生とは、なんて価値があるんだろう!
僕が悲しんでいるということが、
その人の人生が価値あるものだったことの証拠なんだ!
僕は、泣いているおじいちゃんに言った。
「ひいおばあちゃんが死んで悲しいね。
でも、おじいちゃんが悲しんでいるということが、
ひいおばあちゃんが、おじいちゃんに幸せをくれていたという証拠だね!
おじいちゃんが悲しんでいるということが、
ひいおばあちゃんの人生が祝福されている証拠だね!」
「ほんとうにそうだね」おじいちゃんが泣きながら微笑んで言った。