七つの赤い風船
七つの赤い風船
屯田水鏡
ある日、透明な七つの風船が、自由に空を飛び回っていました。
太陽は青空の中ほどにぬくぬくと輝き、放たれた日の光は、滑らかに地上を包み込んで、そのうえ、ほど良い風も吹いておりました。
風船は、たわむれる風に乗り、真っ青な空と海の間を、列をなして、くねりながら流れていきました。
岸辺近くの波は、けだるそうに、小さな声でささやきながら、くりーむ色の砂をぬらしていました。
浜辺の切り立ったがけのふちには、茶色のベレー帽を、ななめにかぶった、画家ふうの青年が一人、さきほどから、心もち頭を左にかたむけて、はるかな水平線を眺めておりました。
かなたには、いくつかの島影が紫にかすんで、その少し上を白く細長い雲が低くたなびいておりました。
青年は、苦しげに、ほっとため息を一つ吐くと、絵筆をくるりと指で回してつぶやきました。
「海は、あわい青。空は、あおい青。えい、何も迷うことはない。全部、あおい青でぬりつぶしてしまえ」
そんな時、七つの風船の列が、爽やかな風に乗って、軽やかに身をくねらせて、青年のすぐ目の前を通りすぎたのでした。
七つの風船は、それらの一つ一つが透明で、何もかもが透けて見えましたので、空の高さも、海の深さも、風のささやきまでも、何もかもが、映し出され、さまざまな色に変化しながら、輝くのでした。
松の林を低くすれすれに飛べば、むせるような濃い緑を、その身いっぱいに写しだしたかと思うと、次にはふいっと空にかけ登り、青空に吸い込まれてしまう、というぐあいでした。
眉をひそめて、しばらくその様子を目で追っていた青年は、何を思ったのか、絵筆にたっぷりと青い絵の具を染みこませると、エイッとばかりに、風船目がけて投げつけたのでした。
絵筆は大空を一文字に引き裂いて飛んで行ったのです。
こうして、青く染められた七つの風船は、新しい風に乗ってゆっくりと流れて行きました。
海を過ぎ、林を抜け、小川のせせらぎを聞きながら通りぬけ、さらに、丘を三つ超え、小さな村や町をいくつか過ぎ、風船は、やがて、大きな町へとたどり着いたのでした。
その町は、立ち並ぶ工場と、その間に小さく肩を寄せ合って不規則に並んだ、マッチ箱のような家並みが、ざつぜんと続いていて、とても美しいとはいえないものでした。
工場から高く伸びた煙突は、どれも、恐ろしいほどに、真っ黒な煙を、もくもくと、吹き出して、その煙は、町じゅうをすっかりおおいつくし、暗く重たく、空からのしかかるような雲になっていたのでした。
そんな町の空の片すみに、七つの青い風船が現れた時、人びとはみな驚いて空を見上げたのでした。
「青空だ」
誰かがさけびました。
笑ってはいけないのです。
なぜなら、町の人々は、もうずいぶん長い間、青空というものを見たことがなかったのですから。
今では、もうすっかり忘れてしまっている青空の青を、どんなにこい願っていたことでしょうか。
その青が、雲間にただよう、ただの青い風船だとわかっても、人々は、歩みをとめて、なつかしく空を見上げるのでした。
大人たちは風船の青に遠い昔を思い出し、子供たちははしゃぎながらそれをどこまでも追いかけて行きました。
けれども、何日かたつうち、風船の青い絵の具には工場の煙突から、とめどなく噴き出す、黒いばい煙や、そうじのいきとどかない地上から、風に吹かれて舞い上がる、雑多なごみがくっついて、言いようもなく醜くみじめな色に変ってしまったのでした。
町に冬がやってきました。
人々は、みなコートの襟を立てて、背中を丸め、下を向いて急ぎ足で歩いていました。
なぜ、背中をしゃんと伸ばし、上を向いて歩かないのでしょうか。
それは、上を向いて空を見上げても、目にうつるものといえば、黒くどんよりとした、ぶあつい雲と、みすぼらしい、七つの風船だけだったからなのです。
たまに、空を見上げる人がいても、その人は、いまいましく、ちッと、舌うちするか、そうでなければ、風船目がけて石を投げつけるというしまつなのでした。
風船は、しょんぼりと、しょざいなげに風のなくなった空に、じっと浮かんでいるばかりでした。
ある日、こんな町にも、真っ白い雪がふりました。
雪は、静かに音もなくふり続けたのでした。
昼前にはやみましたが、それでも雪景色は、町を銀色に輝かせた素晴らしいものでした。
町の大通りに面した小さな商店の屋根の上で、一人のペンキ屋がせっせと看板塗りをしておりました。
耳と、ほっぺたを真っ赤にして、ときどき、手に息を吹きかけています。
正午を告げるサイレンが長く単調にひびきわたりました。
ペンキ屋は、初めて手を休めると、胸のポケットをまさぐって、すいかけのたばこを取り出して、口にくわえました。
それから、大きなぶあつい手で、マッチをシュッとすると、顔をしかめながら、たばこに火をつけました。
吸いこまれた煙は、次には、口からフーっと吹き出されると、丸い大きな輪になって、ふわりと宙に浮かんでいました。
その輪の向こうに、すっかり汚れてしまった、七つの風船がしょんぼりと浮かんでいたのでした。
ペンキ屋は心の優しい人でしたので、煙の輪の向こうに浮かぶ、うす汚れて寒そうにしている風船が、とても可哀そうに思えたのでした。
そして、風船を、何とか暖かくて美しい色にかえてあげたいと思いました。
それから、頭を少しかたむけて、じっと、考えたのでした。
その時、ふっと、自分が、うでの良いペンキ屋であることに気付いたのです。
心やさしいペンキ屋は、肩からぶら下げている、大きなブリキの缶に、あふれるほどの赤いペンキを入れて、次に、七つのはけに、赤いペンキをたっぷりとしみこませると、それらを空に向かって、エイッとばかりに、放り投げたのです。
七つのはけは、それぞれ、回転しながら、放物線を描いて風船めがけて飛んで行きました。
「きれいに化粧するんだぞおー」
ペンキ屋がそう叫んだとき、銀色の町に真っ赤なペンキの雨がふったのでした。
風船は七つともに、夕焼けにそめられた海の色や空の色にも負けないほど、赤く美しく輝いたのでした。
しかし、しばらくすると、風船はまた、汚い色にもどってしまいました。
ペンキがかわき切らないうちに、煙突のすすや、紙くずや、そのほか雑多なごみがくっついてしまって、いっそう、みじめな色になってしまったのは、本当に残念なことです。
町の人々は、汚い風船をにくみました。
空があんなに暗くくすんでしまったのも、また、自分たちが毎日、こんなにいらいらと落ち着かなくなったのも、みんな、あの風船が町の空にあるからにちがいないと思ったのでした。
その日の夕方、かつて見たこともない、すごい嵐がやってきました。
そして、季節はずれのはげしい雷鳴と、いな光のなかで、七つの赤い風船は、一つ一つはじけて、消えていったのでした。