5 彼は未来を誓わない
かなり間隔があいてしまいました。
急遽、過去の話をいくつか差し込むことにしました。
あれは三年前だった。アルベルトを追いかけてやって来たエニスを、イベリスが受け入れると決めた日の事。
「私がアルに相応しいかどうかなんて数日でわかるわけないんだから、見極めたいならしばらく傍にいなさい!」
そんな一喝が響いたらしいエニスは、それだけでもイベリスを見る目がコロッと変わっていた。
「あ、貴女がそう言うなら、そうしてやろうかしら。でも、さすがにこうして姿を隠しながら傍にいるのは限界があるわ」
「お前程度の実力ではそうでしょうね。すでに侍女に怪しまれていますし」
アルベルトの皮肉に、エニスが眉を寄せる。
「そりゃあ……アルベルト……様にくらべれば、劣るでしょうが」
先ほどまで甘ったるい声で様付けしていたアルベルトの名を、エニスが少し嫌そうに呼んだ。気色の悪い声ではなくなったので、アルベルトはこちらの方がよほど良いとため息をつく。自分への興味が急速に薄れているのを感じるので、このまま何とか言い含めれば追い返せそうだ。しかし、そんなアルベルトの目論見をつぶすように、イベリスが言った。
「アルと同じように、護衛として志願したらどう?ちょうどトラインから女性護衛について打診があったし、近いうちに募集をかけてもらうわ」
アルベルトは十歳の少年として護衛に採用されたが、この頃には十二歳ということになっていた。さすがにそろそろ騎士か女性の護衛を傍に置いた方が良いのではと、マーヤにも言われている。しかしイベリスの護衛を他の誰かに譲るわけにはいかないと、アルベルト自身が裏で雇用を妨害している最中だった。だというのに、まさかイベリス自身に裏切られるとは思ってもみない事態だ。
「正気ですか?」
嫌だとしっかり顔に出して伝えたつもりだが、イベリスは頷いた。
「もう一人護衛が増えれば、アルベルトの負担だって軽くなるじゃない。ほとんど睡眠時間とってないでしょう?」
「僕にとってはこれが普通です。負担でも何でもありません」
「私が心配なのよ」
「……掃除屋がそれくらいで倒れるはずがないとは思うけど」
エニスも複雑そうながらアルベルトに同意したが、結局イベリスが譲らなかったのでエニスの護衛入りが内定してしまった。
この女暗殺者の実力はアルベルトに大きく劣る。しかし、イベリスの護衛としては及第点と言えなくも無かった。王妃たちの断罪が行われた当時に比べ、イベリスの周辺は落ち着いている。社交界に出るようになり、公務をこなすにつれ支持者は増えている。反発する人間も少なくはないが、暗殺を企てるほどまで関係が悪いわけではない。一介の騎士やエニスでも十分警護できるレベルにまで、危険度は下がっていたのだ。アルベルトの存在意義などもはや無いと判断されても仕方のないほどに。
焦燥に駆られながらじりじりと夜を待ち、いつものように本来の姿で寝室に忍び込んだ。体に訴えてでも、エニスの雇用を考え直してもらおうという魂胆だった。しかし、アルベルトが組み伏すより先に、その細い体がアルベルトに抱き着いてきた。
「イベリス?」
「……アルベルト、本当にエニスさんとは何も無かったのよね?」
思わぬ問いかけに、数秒言葉を失った。エニスが最初に接触してきた時、彼女との関係については説明したはずだ。正直エニスに対してはこれといった印象もない。暗殺業界でも数少ない、アルベルトの顔を知る人間というくらいだ。仕事の時にたまに接触してきて鬱陶しくはあったが、他にも数人そういう人物はいたので、そのうちの一人というイメージしかなかった。まさか王女に接触を試みるほどまで執着されていたとは思わなかったが、それだけだ。
「会うまで名前も知らなかったほどです」
「……何度か名乗ったのに覚えてもらえてないって涙目で言ってたわよ」
「そうですか」
だから何だとしか言えないが。
「エニスさんに、興味なんてないのよね?」
「毛ほども」
邪魔だとは思っている。アルベルトの素っ気ない返事を聞いて、イベリスの細い指がギュッと黒服を握りしめた。
「だったら……エニスさんが来たって、大丈夫よね?」
「………」
どうやらこのお姫様は嫉妬しているらしい。招き入れようとしているのは自分だというのに。しかし、捨てられるのではないかという怯えをはらんでいたアルベルトにとって、イベリスのその不安は慰めとなった。少なくとも、イベリスはアルベルトを手放すことなど一かけらも考えていない。ため息をついて、ピンクブロンドに指を滑らせた。
「エニスの存在が怖いなら、やはり考え直してはどうです?あんなのを傍に置く必要はないでしょう」
「そうもいかないわ。結局は騎士か同性の護衛をって言われるのは変わらないもの。だけど……アルベルトを好きって言うのだけは、ちょっと心配で」
抱き着いたままチラリとこちらを見上げてくる。あざとい上目遣いはこれまで色んな女にされたことがあるが、不快感を覚えないのはこのお姫様だけだった。そのまま顔を上に向かせ、屈んで唇を重ねた。
もしここで、「イベリス以外愛することは無い」とでも口にすれば、きっと彼女は喜ぶのだろう。しかしそんな保証はない。イベリス以外を愛している自分など想像もできないが、イベリスを愛しているという事実自体、数年前には予想できなかった。未来のことなどわからない。
「この先ずっと君だけだ」というありふれた台詞を、世の人々はどんな自信があって言うのだろうか。予知ができるわけでも何でもないのに、現在の自分が未来の自分のことを語るのがどれほど愚かしいことか。
中身が伴わなくとも彼女が喜ぶのなら割り切って言ってやれば良いのだろうが、それはしたくなかった。心が伴わないのならそれは偽りだ。いくらでも嘘はつくし、隠し事もたくさんある。そんなアルベルトにとって、愛の言葉だけは偽りを口にしないことが、自分なりの誠意だった。
未来のことは誓えないから、アルベルトがイベリスに贈れるのは今現在抱えている想いだけだ。それを余すことなく伝えるために、柔らかな肌に手を滑らせた。しかし、この時間を他の誰かに侵食されることが、それをイベリスが良しとすることが、二人の間の明確な隔絶にも思えてアルベルトの中に不満を残した。
◇
ベゴニア国南端の街、アジュガ。竜胆国との国境にあるこの街の中央には、桜の木が植えられている。二年前に竜胆国から贈られたものであるらしく、まだ若木のそれはアルベルトの身長とあまり変わらないが、しっかりと花を咲かせていた。風に揺れる薄いピンクの花を、街の人々は笑顔で眺めている。
イベリスは以前、サファイアを見るとアルベルトのことを思い出すと言っていた。アルベルトにとってイベリスを思い出すものといえば、桜であるかもしれない。彼女の前世では桜が故郷を象徴するような花で、思い入れがあると言っていたこともあるだろう。加えてピンクブロンドの髪色や、淡く色づく唇が、まさに桜の化身のようでもあると思う。
しかし儚く散る桜の花と違い、イベリスはたくましい。元気に笑い、肩を怒らせて怒鳴る。もしイベリスが桜なら、きっとその花は散ることがない。
今の偽イベリスは……きっと散る花だろう。か弱くハラハラと散るその花に魅了される者は多くいるのだろうが……アルベルトの気を少しも惹いてはくれなかった。
広場に枝を広げつつある桜の木から視線をそらし、女性の姿を借りたアルベルトの幻影は、街中の石畳を歩いていく。
あの小屋に住むようになって、もう四日になる。すぐに音を上げると思っていた偽イベリスは、残念ながら我慢強くこの生活に耐えていた。夜は冷たい隙間風が吹き込み、肌触りの悪いベッドしかなく、用を足すにも苦労する小さな小屋。必要最低限の粗末な食事。外すことを許されない目隠しの布。それでも彼女は不満一つ零さない。健気なことだと思う。好意を持ってではなく、呆れを持って。
しかし、ついに昨日、ほんの少しの不安と不満をにじませて、彼女はアルベルトに問いかけた。
「わたくしのことがそんなに嫌いなのですか?」
……と。
きっとイベリスにとっても想定外だったのだろう。数日もすればアルベルトがほだされて自分に気持ちを傾けることもあると、そう信じて耐えていたに違いない。しかし、ベッドに腰かけるイベリスと、その対角にある扉の傍に立ったままのアルベルト。初日からこの距離感は全く変わっていない。その事実に焦れたように、悲し気に口元を震わせながらそう言ったのだ。アルベルトはその問いに表情一つ変えず、淡々と答える。
「嫌いとかそういう感情をあなたに持ち合わせていません」
「………?嫌いでは、ない?」
「僕からすれば、恋人を人質に取られているようなものです。その主犯に対してあなたは何を感じます?好きだとか嫌いだとか以前の問題では?相手の人間性など、その行いの前では些末なことですよね」
姿かたちが同じでも、愛せない。これはイベリス以外愛することは無いという証明になるのだろうかとぼんやり思う。いや、これだけでは証拠として弱い。
その言葉を聞いて、イベリスは数秒の逡巡の後に、首を傾げた。
「……もし、わたくしがこの体ではなく、別の体で今の人格を取り戻したなら……」
「そんなことが可能なんですか?誰か別の体を用意すれば、あなたはそちらに移れると?そうすれば元のイベリスは戻ってくるんですか?」
思わず一瞬で距離を詰めてイベリスの腕をグッと掴み、矢継ぎ早に問いかけるアルベルト。イベリスは小さな悲鳴を上げた後、慌てたように首を振った。
「で、できませんっ!……いえ、正確にはわかりません。わたくし自身にできる気はしませんが……たとえば、の話です。もしこの体が二つに分かれて……あなたの言う、本当のイベリスと今のわたくしが別人としてそれぞれ存在できたなら……少しはわたくしのことを……」
イベリスの言葉が終わらぬうちに、アルベルトは興味を失ったようにその腕を離して、再び距離を置いた。
「……そうですね、もし全くの別人としてあなたが存在していた場合……」
「……」
「……興味がないですね。何も想像できませんし想像する価値も感じません。きっと存在すら認識しないのではないでしょうか」
ここでもし嘘でも「関心を寄せる」と言ったことで本当のイベリスが戻ってくるのなら、いくらでも耳ざわりの良い言葉を口にしてやるところだ。しかしどうもただの妄言であるらしいと判断して、アルベルトは切って捨てた。
冷たい言葉を受け止めて、小さな唇が震えながら開かれ、閉じてはまた開かれる。しかし結局その唇がそれ以上言葉を紡ぐことは無かった。その日はそれっきり言葉少なに沈んだ様子で俯いていた彼女。ようやく心が折れたかと思いきや、今朝にはまたいつものように微笑んで挨拶をしてきた。
根競べでは埒が明かないかもしれない……そう思いながら、いつも通り必要な物資を買い集めて路地裏へと向かう。
細いながらも龍脈が通っており、なおかつ比較的人目につきにくいその場所を使うのは二度目のことだった。前回もここで、この幻影の姿を消し、手にしていた荷物を龍脈伝いに外で待機しているアルベルトの手元へと送っている。しかし……
「………」
門の外。森の中で龍脈に手を当てていたアルベルトは目を閉じた。送り込んでいる幻影の方へと意識を集中する。……つけられている。同業者ではない。兵士だろう。尾行を本業としない人間の足取りだった。かすかに金属がこすれる音も聞こえる気がする。
光がほとんど差し込まない薄暗い路地で、幻影の女が振り返る。女を追うように後をついてきた男は、予想通りこの街の門番と同じ鎧を身に着けている。
龍脈を経由していると、鮮明な情報を得にくい。ましてやこれほど細い龍脈では、五感に厚い膜がかかっているかのようだ。相手の目的を探りたいのはやまやまだが、さっさと撤退した方が良いか。そんな風に、幻影に気を取られていた瞬間の事だった。
僅かに空気を撫でる違和感に気付いて、アルベルトは咄嗟にその場を飛びのく。しかし、矢のように降って来た無数の石のいくつかが、左足を掠める。鮮血がその場に飛び散っても、アルベルトは苦悶の吐息一つ漏らさず、右足で木の上に着地した。
すぐに、相手は二人だと分かった。ここまでの接近を許すとは不甲斐ない。しかし相手はそれほどの手練れには思えなかった。追撃が遅い。とりあえず遠い方にいる一人を締め落とそうと背後に回り込んだ瞬間、もう一方の人間の気配が消える。どうも龍脈に潜ったらしいが、その気配はどんどん遠のいていく。
「……何?」
そして締め落とすつもりだった男は、アルベルトがその首に手をかけるより先にぐらりと体が傾いだ。ドサリとその場に倒れこんだ男の顔は、竜胆国や東大陸の人間ではなくこの西大陸の人間の顔立ちをしている。すでに逃げた人物もおそらくは西大陸の人間なのだろう。
数年前に竜胆国との技術提携を始めて以降、グラジオラス王国でも龍脈を用いて隠密活動を行える人物は育ってきている。どうもその人材の一部が送り込まれてきたようだ。しかしまだまだその能力は未熟。師匠やアルベルト、コリーのように以前から龍脈を扱ってきた人間とは雲泥の差がある。
アルベルトを標的にするには、あまりに実力差がありすぎた。目的が分からない。倒れた男に息はある。服毒して自害でもしたのかと思えばその呼吸は穏やかで、ただ眠っているだけのように見えた。何か薬を使ったのかもしれないが、獣除けの薬を体に振りかけているらしく、匂いがかき消されてよく分からない。
まさかこのまま眠っていても魔物に襲われないように、あらかじめ獣除けを使用していたのか。であれば、初めからすべて計画通り。つまり、アルベルトとの実力差を理解していて、反撃されることも想定している。……さらには、こうして無力化した人間をわざわざ害さないということも。
「…………ダリア」
その名前が口から零れ出た。確信より先に口をついた名前だったが、そうとしか思えない。おそらく彼女が手配した追手だろう。アルベルトの能力も性格もよく理解した彼女らしい指示だ。いち早くこの地にたどり着くスピード。油断していたとはいえアルベルトに気付かれること無く接近して、警告程度の攻撃ができること。そして情報を持ち帰るために逃げ帰る能力。この三つの能力だけを重視した人選。国王ではない。間違いなくダリアが指揮を執って動いている。
「っち……」
思わず小さな舌打ちが漏れた。左足に手早く止血処理を施してから、龍脈に潜る。先に消えた刺客の気配は南方へ向かっているようだ。おそらくグラジオラスに戻るのだろう。想像よりも速い。龍脈での移動能力はかなりの腕だ。追おうと思えば当然追い付けるレベルなのだが、イベリスの元へも人が行っていないとも限らない。
小屋の周辺に結界は張ってあるのだが、これほど距離が離れていては維持に限界があり、どうしても強度が落ちる。コリーはずっと小屋の近くにいるのだが、あのムラッ気の強い犬は、結界に関してはまるでダメなので頼れない。結界を突破することに特化した技術者が送られてきていたら、破られる危険性が高い。仕方なく追うのは諦めて、川のほとりにある小屋へと戻ることにした。
ご覧いただきありがとうございます。




