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3 本当のイベリス

ざわざわと風が草木を撫でる音に、川のせせらぎが混じり始めて間もなく。古びたドアを開くような音が聞こえてイベリスは顔を上げた。切り出した木の匂い。そして言いようのない……これがかび臭い、というものだっただろうかと首を傾げた。


「ここは……?」


イベリスの問いに答える声は無い。抱えられている腕から力を抜かれる気配を察して、イベリスは身構えた。しかし先ほどとは違い、思ったより柔らかな地面がイベリスの体を受け止める。チクチクするし、少し硬いけれど……一応ベッド、なのかもしれない。


「あ、あの……アルベルト」

「……」

「お願いします。聞いてほしいことがあるのです……」

「……何ですか」


切実な声に、ようやくアルベルトが返事をした。


「…化粧を、直したいのですが」

「化粧?必要ないでしょう?ここは森の奥です。誰の目もありませんし、僕はあなたの化粧などどうでもいい」

「いえ、その……」


言い淀む姿をしばらく眺め、アルベルトはふと思い至って眉根を寄せた。


「……ああ……」

「あの………」

「そこに川があるので、どうぞ」

「!?」


あんまりな返答にイベリスが声にならない声を上げる。


「そ、それは……さすがに……」


もごもごと口ごもるお姫様に、短いため息が落とされた。


「………分かりました。何か用意しますので少しお待ちを」





「ふう……」


小川で手を清め、イベリスは肩を落とす。どうしてこんなことになってしまったのか。肩にかけた布は、先ほどまで自分の目を覆っていたものだ。用を足すのに不自由だろうからと外す許可は出たが、再び小屋に戻る時にはまた装着するようきつく言いつけられている。

どうもアルベルトは、今のイベリスの目を見たくないらしかった。


「……アル」


その名前をこうして口にするだけで、胸が切なく締め付けられる。ずっとずっと、恋しく思っていた相手なのだ。こうして手酷い扱いを受けていても、愛する者への執着の裏返しなのだと思うと、それすら愛おしい。

いくら否定されたとしても、自分がイベリスであるという事実は揺らがない。だからこそ、きっとその愛は自分にも向けてもらえるはずなのだ。この機会を逃すわけにはいかない。

ぐっと顔を上げ、イベリスは目を布で覆って踵を返した。


「……あ、あら?小屋ってあちらだったかしら……きゃぁっ!」


河原の石に足を取られ、その場で激しく転倒したイベリスに影が落ちる。聞こえてきたのは愛しい声だ。


「……ドアの前に来てから目隠しをすれば良かったでしょう」

「あ……な、なるほど」


イベリスの頬が真っ赤に染まった。好きな人に不格好な姿を見られてしまった。

しかしそんな恥じらいなど知りもしないような仕草でアルベルトは腕を引っ張りあげる。服越しとはいえ、確かに感じる手の感触と温もり。わずかに感じる痛みすら、今はイベリスを高揚させる。


「どうやら貴女は自分の現状を理解できているようなので、説明してもらいます。お戻りを」


そう言いながらアルベルトはイベリスの腕を引いて小屋へと連れていく。その乱暴なエスコートにさえもイベリスがときめいていることなど知りもせず。いや、脈が速くなっていることには気づいていたが、恐怖によるものだろうと受け止めていた。





「……つまり、貴女はあの身投げ事件以前のイベリスの人格であると」

「そうです。けれどわたくしはその後も消えたわけではありませんでした。貴方との出会いも、愛された日々も、全て覚えています」


熱のこもった後半の言葉を、アルベルトはろくに聞いていなかった。記憶を取り戻す前と取り戻した後。そこで人格の分離が起きるなど想像していなかった事態だ。

前世の記憶持ちという点ではアルベルトもイベリスと同じ。しかしこうして元の人格が出てくるなど起きたことは無い。忘れているわけでないのなら、だが。


前世の記憶を取り戻した時期にも関係はあるかもしれない。アルベルトは物心がついて間もない頃に記憶を取り戻しているが、対してイベリスは十五歳。すっかり自我が確立された後だ。そのために前世と現世の人格の融合がうまくいかなかった可能性はある。

あるいは、記憶を取り戻すきっかけとなった一連の事件が原因か。前世で医者の勉強をしていた時、一人の人間が複数の人格を持つ症例は聞いたことがある。自分の中で処理しきれないほどの辛い経験をきっかけとして、自分の心を守るために別人格を生み出すというような内容だったような。だとすれば事件以前のイベリスが自分の心を守るために、本来融合されるはずだった人格を別人格として残してしまったという可能性も……


「あの……アル?」

「黙ってください。今考え事をしてます」

「ご、ごめんなさい」

「あと何度も言いますが、その呼び方はやめてください」

「……ごめんなさい」


しばらく思索にふけったあと、アルベルトは顔を上げた。


「人格が切り替わった原因は分かっているんですか?」

「……いえ、それはわたくしにも……」


返答に一瞬の間があった。その事実に、青い瞳が細められる。


「元のイベリスはまだ居るんですよね?」


初めて聞くような切実な声だ。イベリスはまた言葉に詰まった。


「わ……」

「………」

「わかり、ません」

「………そうですか」


視界は塞がれている。しかしその抑揚のない声だけで、彼が肩を落としたのが分かった。


「も、元のイベリスというのであれば……本来は、わたくしがイベリスではありませんか?」

「……は?」

「本来この体は、わたくしのものです!今のわたくしには全ての記憶があります。仕事をこなせていたことからもお分かりでしょう?アル……ベルト。貴方との記憶ももちろん全てあります。わたくしは……わたくしもっ……貴方を愛しています!」


五年。ずっとずっと、奥底に沈んだまま。けれどそれでも確かに見ていたのだ。青い瞳を。鮮烈で、狂気を伴うほど激しく愛してくれる彼を。その瞳に見つめられたい。その指に触れられたい。もう一人のイベリスを通してではなく、自分が。

そう思い続けてきた。そんな思いの丈をぶつけた。ずっと箱入りで、おとなしい性格だったイベリスにとっては、息が止まりそうなほどの覚悟で口にした言葉だったのに。


「それで?」


あまりに素っ気ない返答がよこされて、イベリスは本当に呼吸を忘れた。


「まさか……僕も貴女を愛しているのでこのまま二人で幸せになりましょうとでも言うと思ったんですか?違いますよね?僕は貴女のこと愛してませんよ?僕が愛しているのは貴女じゃない方のイベリスです」

「……で、でも……わたくしが本当の……」

「本当のイベリス?何をもってそう言っているんです?根拠は?」


真っ暗闇の中、ただただアルベルトの詰問が矢のように降ってきて、イベリスは困惑する。


「僕からすれば本当のイベリスは僕と出会い、先日まで時間を共にしてきたイベリスです。貴女の今の環境を顧みてください。周りを取り囲む人々との縁を繋いできたのは誰だと思っているんです?貴女ではないでしょう?」

「で、でも……生まれたときにイベリスだったのはわたくしで……」

「前世の記憶を取り戻し、本当のイベリスが目覚めるまでの仮の人格かもしれないでしょう?」


その一言に、ついにイベリスは言葉を失った。本物は自分で、昨日までの人格は異なる世界を生きていた誰か。その誰かに体を乗っ取られていたようなもので、こうして自分が戻ってきた今こそ正しい姿。そう信じていた前提を、真っ向から否定されるとは思ってもみなかった。


「そん……」

「まあ、貴女の言い分はよく分かりました。長期戦になりそうですね」


そう言い残し、アルベルトが出て行く気配がする。追いすがろうとすれども、イベリスの手は空を切った。バタン、と扉が閉まる音だけが響き、伸ばした手は力なく下がっていく。

おそらく隙間がたくさんあるのだろう。小屋の外の砂利を踏む音がイベリスの耳にも鮮明に届いた。次第に遠ざかっていく足音を呆然と聞きながら、桜色の唇が悲痛な声を紡いだ。


「どう、して……?体を取り戻せたら、きっと………」


わたくしを……愛してくれると思ったのに。





「コリー」

「はいっすー!」


小屋から少し離れた場所で名前を呼べば、すぐさまアルベルトの眼前に青年が現れた。イベリスに引き合わせた当時よりずいぶん体は大きくなったものの、内面を表したその笑みは良くも悪くも幼いままだ。


「やっぱりついて来ていましたか」

「え?当然っすよね?だって主人、何か特別な指示が無い限りは王女様の護衛してろって言ってたっすよね?」

「そうですね……」


突然の誘拐に、強引な龍脈転移。しかしそれでもこの男は迷わずついてきたという事実。そうだろうと予想はしていたものの、常軌を逸した忠実さとその能力には相変わらず寒気がする。


「本当にお前は常識が無い」

「そんなこと知ってるっすよ。だから主人が常識を踏まえて指示をくれるんでしょう?」


アルベルトに常識なんてない、とイベリスが聞いていれば突っ込んだだろうが、あいにくこの場にはいなかった。


「そうですね……では引き続き命令を守りなさい。そこの小屋にいるイベリスの護衛を」

「主人はどこかに行くんすか?」

「しばらくこの小屋で暮らすことになりそうです。物資を調達してきます」

「了解っすー」





「……?」


一番近い人里は、ベゴニア国の街だった。竜胆国との国境にある街、アジュガ。石造りの長い城壁に囲われたその街には要塞じみた物々しい雰囲気がある。長年竜胆国との緊張状態が続いた為だ。グラジオラス王国との友好関係を皮切りに竜胆国は積極的な外交を開始し、現在ではベゴニア国との関係も改善していると聞く。アルベルトは過去に一度仕事で訪れたことがあるのだが、その頃はまだ竜胆国が鎖国状態だったためアジュガの街もピリついた空気だったものだ。

竜胆国から正式な街道が伸び、以前にはなかった門が作られている。商人や旅人らしき人々が思った以上に活発に往来していた。この様子ならば簡単に入れるだろうかと思ったのだが、それでもアルベルトが足を止めたのは長年暗殺者をやっていて培った勘によるものだ。

活気のある街道と城門。しかし妙に浮ついた空気を感じる。茂みに身を隠したまま、地面に手を当てた。門に一番近い龍脈まで感覚を広げれば、門番たちの会話が聞こえてくる。


「それらしき人物はまだ目撃していないということだな。」

「そうだ。五班も引き続き注意してくれ。くれぐれも見かけた場合は丁寧な対応を」

「了解。すぐに応接室にお通しして隊長へ連絡する」

「では引継ぎ完了」


二組の門番が、互いに手にした剣と盾を規則正しく打ち付けあう。ベゴニア国の兵士の作法だ。


「……」


不穏な会話だった。アルベルトは眉根を寄せる。イベリスを連れ出してまだ丸一日程度しか経っていない。この地まで情報が回ってくるにしてはあまりに早い。しかし、万が一のことを考えれば油断はできないと判断して、自ら街に入ることは諦めた。

地に手を当てたまま、龍脈に気を流し込む。そうして作り上げるのは、三十代くらいの凡庸な容姿の女性。城内で見たことのあるメイドの姿だ。性別も年齢も違う人間ならば怪しまれないだろう。イベリスの傍にいる為に鍛えていた幻影の術は、隠密行動にも非常に役立つ。

適当な旅装をまとわせ、門の方へ向かわせた。


「おや、こんにちはレディ。入国希望かな?」

「ええ。入国税はおいくらかしら?」

「銀貨一枚だ」

「あら……ずいぶん下がったのね」

「ああ、以前の税額を知っているのか」

「祖母から聞いたことがあったの」

「そうか。竜胆国との国交が開始されてから金額が変わったんだ」

「そうなの」

「ベゴニア国の貨幣は持っているかい?」

「いいえ。グラジオラス貨幣と両替をお願いしたいわ」

「わかった、少し待ってくれ」


グラジオラスの銀貨を三枚差し出すと、門番の男はそれを手に詰所へと戻って行った。もう一人の門番がこちらへ向き直る。


「ところで貴女はどちらから?」

「グラジオラス王国よ」

「ほう。竜胆国を経由して?」

「ええ。ずいぶん往来しやすくなっていて驚いたわ」

「そうだろうな。五年ほど前には考えられなかった。貴女の国の王女様のおかげだと聞くね」

「あら、その話は本当なのね。国民として誇らしいわ」

「この街にはどうして?」

「祖母が一人で暮らしているの。もう年だし心配だから会いに来たのよ」

「なるほど。しばらく滞在するのかな?」

「ええ、そのつもりよ」


そうして雑談を交わしているうちに、門番が戻ってくる。グラジオラス王国の貨幣はこの国のものより価値が高い。ベゴニア国の銀貨五枚になって返ってきた。うち一枚を入国税として門番へ渡し、門を通った。

思ったよりすんなりと入れた。さほど警戒が強まっているわけではないらしい。

しかし、ベゴニア国は龍脈が薄い土地だ。龍脈から離れた場所では幻影を長く扱えない。早めに用を済ませた方がいいだろう。

何度も出入りするわけにはいかないから、しばらくこの街に滞在する設定にした。身の回りの品を整え、二人分の食材を調達するのに都合が良い内容だ。コリーの分は……まぁ、余りもので問題ない。足りなければ自分で森の中から調達してくる。いつものことだ。

もちろん、幻影のもとにしたメイドの祖母がこの街にいるというのはでっち上げだ。もし後をつけられていればどこかで撒かねばならないが、怪しまれているそぶりはない。


数年ぶりに足を踏み入れたアジュガの街は、雰囲気が一変していた。竜胆国の人や商品が目に付くようになり、以前のように張り詰めた空気は無く、町全体に活気がある。どうやら春幸は外交をうまくやっているようだと感心した。仮にも竜胆国トップの肩書を持ってはいるが、アルベルトは一切手出しをしていない。情報だけはイベリスの傍にいれば入ってくるものの、こうして肌で感じるのは違う。

しかしこの街も、おそらくイベリスがいなければこんな空気にはなっていない。イベリスが聞けば「いや主に国を動かしてるのはアルベルトだから」と訂正を入れてくるだろうが、実際のところイベリスがいなければアルベルトは今も陰で暗殺者をやっていたはずだ。要人を殺すことで国が動くことはあったかもしれないが、これほど大げさに各国へ介入したのは、全てイベリスの存在があったからだ。東大陸との関係についても、初めに交流を持たせのはアルベルトだったが、今の関係に落ち着いたのはすべてイベリスの功績と言える。

どこまでも得難い存在だと思う。だというのに、その存在が消えても周囲は誰も気付かない。まがい物がその座に平然と収まろうとしているのを、誰も止めない。


「……忌々しい」


そんなつぶやきが、茂みの中へと落ちた。

ご覧いただき有難うございます。

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