Cafe Shelly もう許せない!
「もう絶対にゆるせないっ」
ドンッ
私はグラスの水を一気に飲み干し、テーブルを拳で叩いた。
「おいおい、芙美恵…そんなに荒れるなよ」
「荒れるなって、あれで荒れない方がおかしいわよ。そもそも何よ、あの態度は。こっちがやさしくしてあげようと思ったら、ふんって鼻で笑うような態度しちゃって。なにお高くとまってんのよ。自分が一体何様だと思ってるのかしら」
私は怒りがおさまらずに、目の前にいる雄哉にあたりちらした。私がなぜこんなに怒っているのか。事の起こりは二ヶ月ほど前。大学に入ったばかりの私は、キャンパスライフを楽しもうとお目当てのサークルへ足を運んだ。お目当てのサークルとは。この大学では有名な放送研究会。この放送研究会はレベルが高く、今までに映像コンクールでいくつか賞をとっている。またこの放送研究会出身で、今ではフリーのアナウンサーとして全国的に活躍している先輩もいる。主には映像部門、アナウンス部門、そして一番の花形であるDJ部門の三つから成り立っている。DJ部門はコミュニティFMも運営しており、そこで番組スタッフとして関わることは名誉ある事だと言われている。もちろん私もこのDJ部門を希望している。
このときに一緒にこの放送研究会に入ってきたのが目の前にいる雄哉、そして美香子である。雄哉は映像部門を希望。将来は映画を撮るのが夢ということで、私は雄哉のその夢の話を聞くことがとても好きで一緒にいることが多くなった。
問題は美香子。彼女はアナウンス部門を希望。どうやら将来は女子アナになるのが夢らしい。その希望を堂々と口にするだけあって、美香子はとてもきれいな顔立ちと服装をしている。私なんていつもジーンズにTシャツ。もうちょっとおしゃれしろよ、なんてからかわれているくらいだ。美香子はその見た目もあって、周りからの人気は高い。また細かな気遣いもあり、がさつな私とよく比較されることも多い。まぁ私自身、そういったことが苦手なので何とかしなきゃとは思っていたんだけど。でも、あの美香子の私に対しての態度は許せない。
「この前も私にこう言ったのよ。あなた、人気DJになりたいのならもう少し日本語を勉強した方がいいわよって。なによ、あの上から目線は。腕組みなんかしちゃって、斜め目線で私を見るのよ」
「まぁまぁ。美香子だっておまえのことを思って言っているんだろう」
「いいや、あれは違うわ。明らかに人を見下してる」
私は運ばれてきたミックスジュースを一気飲み。さらに言葉を続けた。
「一番気に入らないのは、お金持ちぶりをひけらかしているところよ。なによ、あのブランドもののバッグは。あんなの大学生が持つものじゃないわよ。しかもそれをいくつも持っているのよ。毎日とっかえひっかえ。そしていう言葉が『やっぱりいいものは長持ちするから、多少高くても結果的にはこのほうが経済的なの』だって。私みたいな貧乏学生の苦労なんか知ったこっちゃないってセリフだわ」
私なんて奨学金をもらいながら、アルバイトを二つかけもちしつつ放送研究会の活動に参加している。そのアルバイトも贅沢をするためでなく、生活費を稼ぐためだ。一方美香子の家は親が会社を経営していると聞いている。きっとなんの苦労もなく欲しいものを手に入れているんだろう。おしゃれで、きれいで、金持ちで。今の私にないものを自慢げにひけらかされたら、頭に来ない方がおかしいわ。
「ったく、お嬢様の考えてることは所詮は一般庶民にはわからないってことよね」
そう言って私は勢いでパフェを注文した。
「まぁまぁ。芙美恵の言うこともわかるけどさ…」
「わかるけど何よ?」
「あ、いや…こ、困ったな…」
私は運ばれてきたパフェをこれまた一気食い。なんか最近、美香子のおかげでヤケ食いをする機会が増えてきたような気がする。そのせいか体重も…まったく、これも美香子のせいだわ!
「ごちそうさま。さ、行かなきゃ」
時計を見るともうすぐバイトの時間。私は夜は居酒屋でフロア係をしている。肉体労働ではあるが、活気があって楽しい職場だ。ここで元気な声を出して動き回っている間は美香子のことは忘れられる。
「芙美恵、とにかく美香子のことは頭からはずして、自分のやりたいことを見つめるんだぞ。わかったな」
喫茶店を出て雄哉と別れるときにそう言われた。そんなことはわかっている。けれどどうしても翌日には美香子と顔を合わせてしまうから、頭からはずすことなんかできないのが現実だ。まぁいい、とにかく美香子のことを忘れられるバイト先へ行くか。しかしこの日の夜はそうもいかなかった。
「いらっしゃいませー」
午後七時過ぎ、お店が忙しくなる時間だ。私は元気よくお客様をお出迎え。今日も団体様や個人客の予約がいっぱい入っている。そんなとき、二人組の女性客の姿が。私はそのお客を見たとき、急に元気を奪われた気がした。お客の一人が美香子だったからだ。
「あらぁ、芙美恵じゃない。ここでアルバイトしてたんだ」
「あ、う、うん」
いつもの威勢のいいかけ声はどこへやら。美香子とその友達の格好は、どちらかというとフランス料理でも食べに行ったほうが似合うもの。あきらかにこの居酒屋では浮いている。
「へぇ、これが居酒屋なんだ」
美香子の友達は居酒屋が初めてのようだ。おそらく美香子と同じお嬢様育ちなんだろう。
「私もまだ二回目なのよ。この前放送研究会の新入生歓迎コンパってので初めて来たの」
なんだか次元の違う話をしている二人。
「おい、芙美恵ちゃん。お客様を早くご案内して」
あ、いけない。
「それではご案内いたします」
本来なら大きな声でそう言うところなのだが、なぜだかいつもの声が出ない。あたりをキョロキョロと見回す二人を座敷席に先導する。
「ご注文が決まりましたらこちらのボタンでおよび下さい」
「そんなぁ、せっかくだから芙美恵が注文を取りに来てよ」
この時点でちょっとムカッと来た。私はあんたの召使いじゃないんだから。お店のシステムくらい理解してよっ!
「じゃぁ、ワインもらおうかしら」
いきなりワインかいっ! 居酒屋をなんだと思っているんだ? 私は思わず拳をギュッと握りしめた。そのあと、私は美香子の席の担当を別のバイトへお願いをした。正直、これ以上美香子に関わりたくなかったのだ。だがその思いはむなしくも天には届かなかったようだ。
「芙美恵さん、あそこの席の方がなんで芙美恵さんが来ないんだって言っているんですよ」
やれやれ、居酒屋の店員を私物化して何が楽しいんだ。なんとか適当に理由をつけて逃れようとしたのだが、店長が直々に私をその席に行けと指示した。さすがに店長には逆らえず、結局私は美香子のわがままにつき合わされる羽目に。やれこういうワインは置いてないのか、とか、おつまみにキャビアはないのか、とか。ここは大衆客を相手にしている居酒屋だってことが理解できていない。もううんざりだ。今日のバイトはいつも以上に疲れを感じてしまった。
そして翌日。
「芙美恵、なんかおまえ疲れてるぞ」
授業が始まる前、雄哉が私を見つけてそう声をかけてきた。
「あ、うん、ちょっとね…」
それ以上は何も言いたくなかった。もう怒りを通り越して、あきれとあきらめに入ったという状況。雄哉にこの思いをぶつけても迷惑をかけるだけなのはわかってるし。今は何も考えたくないのに、どうしても頭から美子が離れてくれない。
「なぁ、ちょっといい情報があるんだけど」
うつろな目をしている私に雄哉がそうささやいた。実のところ、今はいい情報と言われてもあまり聞く気力が湧かない。
「なぁに」
と生返事。
「昨日オレの先輩から聞いたんだけど、元気になれるコーヒーを飲ませてくれる店があるんだって。その店のコーヒーを飲んでマスターと語ったら、不思議とみんな元気になってるんだってよ。芙美恵、今度そこに行ってみないか?」
元気になれるコーヒー? なんかうさんくさいな。変な薬でも入ってるんじゃないの。そう思ったけれど、その返事をするのすらめんどくさい。
「おまえ、今度いつ時間とれるよ?」
「えー、まぁ今日はバイト休みだけど」
「じゃぁ学校終わったら早速行こう」
なんか雄哉が一人ではしゃいでいるな。まぁつきあってやるか。このときはこのくらいの気持ちしかなかった。裏を返せば、そのくらい私は美香子からのダメージにやられていたのだ。今の私を元気づけてくれようとするなら、美香子をこの世から抹殺してくれるに限る。と、そこまで危ない考えになっていたのだ。幸いにして今日は美香子とはまともに顔を合わせていない。同じ授業はあったが、あえて私が避けていたのだ。
そんな感じで気がつくと授業も終わり。
「ほら芙美恵、行くぞ」
雄哉に引っぱられて、街中のとある通りへ。へぇ、こんな通りってあったんだ。私は他の街からここに来たので、まだあまり街中になじみがない。通りはパステルカラーのレンガで敷き詰められている。幅は車が一台通るくらい。道の両脇にはレンガでできた花壇がある。お店は雑貨屋やブティック、歯医者なんかもある。
「えっと、確かこの通りの二階だったな…あ、ここだ」
雄哉が指差したところには、黒板にメニューが書かれてあった。
「カフェ…シェリーって読むのかな?」
「あぁ、ここのシェリー・ブレンドってコーヒーがすごいらしいよ。さ、いくぞ」
雄哉は私の手を取って階段を駆け上がっていく。私は雄哉に引っぱられて同じスピードで階段を上がる。
カラン、コロン、カラン
心地よいカウベルの音。
「いらっしゃいませー」
同時にかわいらしい女性の声が私たちを出迎えてくれた。お店はそんなに広くはない。カウンターに四席、丸テーブルが一つあってそこに三席、窓際には半円状のテーブルに四席。丸テーブルには女性二人、カウンターには男性が一人座っていた。私と雄哉は窓際の席へ。ここであることに気づいた。
「あ、なんかすごくいい香り。なんだか落ち着くわぁ」
どことなく漂ってくるこの香りに、私は一瞬で心癒された。
「え、そうか? まぁ言われてみればなんか匂いがするような気が…」
雄哉はこの香りが気づかないらしい。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスのきれいな女性がお水を運んでくれた。
「ねぇ、なんだかとてもいい香りがするけれど、これって何ですか?」
私は思わずそう聞いてしまった。
「あ、これはアロマを焚いているんです。今日はイライラを解消させるように、ローズをベースとした私のオリジナルブレンドオイルを使ってるんですよ」
「へぇ、そうなんだ。おかげでなんだか落ち着いちゃいましたよ」
「お客さま、ひょっとして今心にモヤモヤしたものを抱えているんじゃないですか?」
「え、えぇ、まぁ」
ズバリ、私の心を見抜かれてドキリとした。
「そうなんですよ。こいつ、今同級生のことでイライラしてて。で、ここのコーヒーを飲むと元気になれるって聞いたから連れてきたんですよ」
雄哉、余計なことを。
「あ、じゃぁシェリー・ブレンドですね」
「そう、それそれ。それを二つお願いします」
「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンド二つお願いします」
わたしはここではぁ~っと大きなため息。と同時に、何か溜まっているものが少し吐き出された気がした。
「ねぇ雄哉、あなたは美香子のことをどう思うの?」
ふとそんなことを聞いてみた。
「え、美香子かぁ。まぁ確かに世間知らずのお嬢様って感じはするけど。でも周りには人気があるのは確かだなぁ」
「周りはどうでもいいのよ。あなたがどう思うかを知りたいの」
「う、うぅん。オレは正直に言って芙美恵が言うほど悪いヤツじゃないと思うけどな」
この言葉にわたしはちょっとショックだった。周りの男どもはともかく、雄哉だけはわたしの気持ちがわかってくれていると思っていたからだ。
「あ、でもオレはどっちかというと芙美恵の味方だよ。美香子の場合、世間知らずと同時に周りの気持ちを考えないフシがあるからな。だから悪気はないと思うんだよ」
その言葉に少し救われた。
「このままだと社会に出て困るのは美香子の方だと思うんだよね。見た目では男性にちやほやされても、同性から嫌われる、なんて事になりそうな気がするな」
雄哉のこの言葉、まさに今のわたしの心境そのものだ。けれどそれは自業自得じゃないかしら。どちらかというとざまぁみろ、という気持ちの方が強い。
「そうなったらなったで、それは美香子自身が引き起こしたことなんだから。私には関係のないことだわ」
思ったことをストレートに雄哉にぶつけてみた。
「まぁそうなんだろうけど…」
とそのとき
「お待たせしました」
先ほどのウェイトレスがコーヒーを持ってきてくれた。
「お、きたきた。とりあえずこれ飲んでみろよ」
なんだか話をごまかされた気もするが。元気になれるというこのコーヒーにも興味はある。私はカップを手に取り、まずは香りを楽しむ。うぅん、インスタントではない本格的なコーヒーだ。貧乏学生の私はこんなささいな贅沢もなかなかできない。美香子だったら逆にこんなコーヒーしか飲まないんだろうな。そう思ったらちょっと悔しくなった。えぇい、なんでこんなときまで美香子のことを思い出さなきゃいけないのよ。そう思いながらも、グイッと一口飲んでみる。
「えっ、これホントにコーヒー?」
これが私の第一印象であった。それは決していい意味ではない。むしろ悪い意味での言葉だ。
「ホントにコーヒーかって、ちゃんとしたコーヒーだぜ。むしろオレには強烈なコーヒーの映像が頭にガンガン浮かんでくるよ。かなりインパクトあったぞ。芙美恵はどうだったんだ?」
「そんなバカな。私にはアメリカンよりも薄く感じたわよ。まるでお湯を飲んでるみたい。何よ、この味は」
私は思わず文句を言ってしまった。
「お客様、どうかなさいましたか?」
さっきコーヒーを運んでくれたウェイトレスが駆けつけた。
「どうもこうも、これホントにコーヒーなの? 薄くって飲めたもんじゃないわ。何が元気の出るコーヒーよ」
「そうですか…大変失礼ですが、今ひょっとしたらどなたとかの関係をもっと薄くしたい、できればなくしてしまいたい。そう思っていませんか?」
「ど、どうしてそれが…?」
私はウェイトレスに言われて動揺した。まさに言われた通り。美香子との関係をできれば無くしてしまいたい。それが今の私の願望だからだ。
「差し出がましいようですが、よかったらそのお話しを聞かせて頂けませんか? きっとお力になれると思うんです。あ、私マイって言います。ここでマスターと一緒に喫茶店をやりながら、プロのセラピストとしてこうやって人のお話を聞いています」
プロのセラピスト、その言葉を聞いてなんとなく安心した。と同時に、自分の気持ちを何とかして欲しいという願望が湧いてきた。
「じゃぁ…話を聞いてもらってもいいですか?」
「えぇ、いいわよ。あ、ちょっと待ってね。マスター!」
マイさんはカウンターに向かってそう叫んだ。カウンターからはマスターが顔を出して、にっこりと首を縦に振った。
「今、マスターから許可とったから大丈夫」
なるほど、マスターが首を縦に振ったのはその合図だったのか。でもうらやましいな。何も言わなくてもマイさんの考えていることがマスターに伝わるなんて。私にもそんな友達が欲しいな。
「えっと、お名前は?」
「あ、はいい、柿原芙美恵っていいます」
「芙美恵ちゃんか。今、誰かとの関係を希薄にしたいって思っている。そしてもう一つ、そんな自分に苛立っている。そうじゃないかな?」
マイさんの言う通りだ。美香子と関わりだしてからイライラし通し。本当の自分を出せないでいる。そしてそんな自分自信にイライラしている。どうして美香子なんかに心を奪われなきゃいけないのよ。その思いをストレートにマイさんにぶつけてしまった。
「そうかぁ、そんな状況なんだね」
「そうなんですよ。こいつ、ホントはもっと元気なやつなんですよ。でも最近は愚痴しかでてこねぇし。なんとかしてやれねぇかと思ってここに連れてきたんです」
雄哉のその言葉に私は驚いた。
「えっと、あなたのお名前は?」
「あ、はい。神岡雄哉っていいます。こいつとは大学のサークルが一緒で」
「雄哉くんか。あなた、最近芙美恵さんのことが心配で頭から離れないでしょ」
「え、あ、そ、それは…」
マイさんからズバリそう言われて、雄哉は顔を真っ赤にした。でもどうして?
「あはっ、突然こんなこと言っちゃってごめんね。でもね、雄哉くんのその思いには芙美恵ちゃんの今の悩みを解決するヒントが隠れてるのよ」
「それってどういう事なのですか?」
「相手のことが頭から離れないって、憎しみも恋愛も同じなのよね」
「れ、恋愛!?」
ここで急に私は顔がほてってきた。ってことは、雄哉って私に…。私ってこういうのには鈍い。
ってか、今までそんな経験なかったからなぁ。こっちの片思いはさんざん経験してきたけれど。それを見透かされたように、マイさんがこんな質問をしてきた。
「芙美恵ちゃん、今まで恋ってしてきたでしょ。そのとき、頭の中はどんなだった?」
「あ、はい。二十四時間、相手のことで頭がいっぱいになってました。今何しているんだろうとか、どんなことが好きなのかなとか。おかげで他のことは手につかなかったですよ。夜眠れない日もありました」
「そっか、その人のことで頭がいっぱいだったんだね。それって今の状態と同じだね」
「えっ!?」
私はマイさんの言う意味がよくわからなかった。恋をしていた頃と美香子とのことがどうして同じ状態なの? そのことを伝えると、マイさんはこう答えてくれた。
「恋をしているときは好きという感情。今はイライラという感情。感情こそ違うけれど、その人のことで頭がいっぱいになって時間を奪われている。その状況は同じって事。ところで、恋をしていた頃はどうなったらその状態から解放されたかな?」
「どうなったらって…なんか気がついたら覚めてたって感じです。これといったきっかけは…あ、そういえばあの頃からDJってのにあこがれだしたんだ。そうそう、深夜のラジオ番組を聞き出してからだわ。最初はリスナーの恋の話とかを私とだぶらせて聞いてたんだけど、そのうちこんな感じでみんなに元気をつけてもらえるって職業に魅力を感じ始めたの。そしたら今度はそっちに頭の中を奪われたかな」
「あ、だから放送研究会に入ってきたんだ」
「あら、雄哉にはこのこと言わなかったっけ? だからこの大学を選んだってのもあるんだよ。ここの大学の放送研究会は有名だからね」
私はDJについて熱く語り始めた。どんなスタイルで、どんな風にみんなの心を熱く動かしてみたいのか。語れば語るほど、自分の中でこみ上げてくるものがあった。
「ってな具合よ。雄哉、わかる?」
「え、あ、あぁ」
雄哉は私の熱い語りに圧倒されているようだ。
「芙美恵ちゃん、すごいね。ところでさ、今DJについて熱く語っていたとき、何かに気づかなかった?」
「えっ、何かってなんですか?」
気づくも何も、語り始めたら止まらないのが私の性分だから。
「じゃぁ、ちょっと冷めたけどシェリー・ブレンド飲んでみてごらん」
私はマイさんにそう言われて、シェリー・ブレンドを口に含んだ。
「えっ、うそっ!?」
最初に飲んだときには、薄くてとてもじゃない味だった。けれど今は違う。コーヒーは冷めているのに、何か熱いものを感じる。味わいもコーヒーの深みが湧いている。そのことを素直にマイさんに伝えてみた。
「それはきっと、芙美恵ちゃんがDJを通して熱くて深みのある存在になりたいっていう思いが現れたんだと思うわ」
これがマイさんの見解だった。さらにマイさんはこう言った。
「語っている間は、頭の中は何でいっぱいになっていたかな?」
言われて気づいた。
「そっか、今私がDJについて語っているときは、頭の中はそっちでいっぱいになっていたわ。そうそう、私が恋していたときもそうだった。別の何かに夢中になっていたら、好きだった相手なんて気にならなくなってきたんだわ」
「だったらよ、今もそうすりゃいいじゃねぇか。芙美恵は今美香子に意識を奪われすぎなんだよ。それよりももっと別のものを見てりゃいいんだよ」
雄哉の言う通りだ。
「ほう、なかなかおもしろそうな話をしているようだね。私も少し混ぜてくれないかな」
ふと見るとマスターが登場。手にはクッキーを持ってきている。
「これ、私からのプレゼントだ。うちのマイが作ったものなんだが」
「わぁ、ありがとうございます」
私は早速クッキーを一口パクリ。このとき、何か鋭い衝撃が私の頭を横切った。
「えっ!?」
何だったんだろう、今のは。もう一口食べればそれがわかるかもしれない。そう思ったのだが、残念ながら一口目しかその衝撃は起こらなかった。その衝撃は、私の左手の方から来たのは間違いない。左手の方向…そこには雄哉がいる。まさか、ね。
「ところで、今頭の中が嫌な相手でいっぱいになっているという話をしていたね」
「あ、はい、そうなんです」
「私が前にね、斎藤一人さんの講演CDを聴いた中でこんな話があったんだ。あ、斎藤一人さんというのは日本で一番の高額納税者。でもお金持ちぶってなくて、ちょっと変な成功法則を言っている人なんだよ」
「あ、オレ知ってますよ。『ツイテル』って言いなさいっていう人でしょ」
そう言って雄哉の目が輝いた。
「そう、その人だ。例えば芙美恵ちゃんが旅行に行ったとしよう。周りにはとてもきれいな景色が広がっている。けれどそのときに道ばたに犬のうんこが落ちていた。ついその犬のうんこをしげしげと眺めてしまう。頭の中にはその犬のうんこの色、艶、形がこびりついて離れなくなる。そして旅行から帰ったときに友達から旅行はどうだったと聞かれた。さて、芙美恵ちゃんはどんな話をすると思う?」
「普通だったら旅先で起きたことやきれいな景色の話をしますよね。でも犬のうんこの事が頭にこびりついているのなら、そっちを話すかも」
「ははは、そうだよね。でもそれってすごく損していると思わないかな?」
「確かに、なんで旅行にまで行って犬のうんこの話をしなきゃいけないのかって思いますよ」
「芙美恵ちゃん、まさに今さっきまで犬のうんこの話をしていたよね」
マスターからそう言われたときに、私の頭の中では美香子と犬のうんこがダブって見えて、ちょっと笑えてしまった。
「あはは、そうですよね。せっかくいい景色が目の前にあるのに、犬のうんこに気を取られるなんてバカみたい。どうしてそんなものに気を取られる必要があるんだろう」
私は自分の口から出た言葉に、笑いながらもハッとさせられた。そうだよ、もっと別のすばらしいものに目を向けないと。美香子なんていう犬のうんこみたいなのに意識を奪われるなんて、時間がもったいないじゃないの。
「じゃぁ芙美恵ちゃんは何に目を向けようと思っているのかな?」
マイさんがそう質問してきた。
「そりゃもちろん、DJとしての技を磨くことですよ。そのためにこの大学に入ったようなものだから。先輩から技を盗んで、いつかはメインパーソナリティの座を獲得するぞ!」
私は力強くそう宣言した。と同時に不安も襲ってきた。
「あ、でも美香子の存在はどうしても気になっちゃうんですよね…あの鼻につく態度が嫌でも目に入っちゃうから」
「そうかなぁ、オレはそんなに気にならないけど」
「そりゃ雄哉は男だからよ。女にしかわからない感情もあるのよね」
そう思ったらさらに不安が。この不安ってなんなんだろう? さっきまでの威勢はどこへやら。私は口を閉ざした貝のように、急に黙り込んでしまった。
「おい、芙美恵、どうしたんだ?」
心配そうにのぞき込む雄哉。けれど私は何も言えなかった。まっすぐにDJになることだけを見ていればいいのに。なのに、どうしても美香子の存在が気になってしょうがない。また美香子にバカにされるんじゃないか。あの世間知らずのお嬢様に軽くあしらわれるんじゃないか。そんな思いが次々と襲ってきた。
「芙美恵ちゃん、今とっても不安じゃない?」
「え、マイさん、それがどうしてわかるんですか?」
「なんとなくね、見てればわかるの。でもね、大丈夫よ。芙美恵ちゃんは一人じゃないんだから」
一人じゃない? それってどういう意味なのかしら。
「芙美恵、おまえいい加減に気づいてくれよ。お前が不安な顔をしていると、オレまで不安になっちまうんだよ。芙美恵は元気なのが一番なんだよ。だからオレは…オレは…」
「雄哉…」
このとき、マスターは雄哉の肩をポンポンっとたたき、優しい目でこう言った。
「雄哉くん、君はとても優しくて勇気のある人だ。そしていつも芙美恵ちゃんを見ていたんだね。愛する芙美恵ちゃんを」
「え、あ、その…」
雄哉は顔がまた真っ赤になってる。じっと下を向いていたが、急にパッと顔を上げて、真剣な目つきで私を見つめた。
「芙美恵、お前が美香子のことが頭から離れないのと同じで、オレもお前のことが頭から離れないんだよ。どうしても気になって仕方ないんだ。でもオレにとっての芙美恵は犬のうんこなんかじゃない。勘違いするなよ」
雄哉は黙り込んで、ふたたび私をじっとにらんだ。
「ぶっ、ぷはははっ。ったく、告白するならもうちょっとロマンチックなセリフを用意してよ。私と犬のうんこを比較するなんて」
「あ、ご、ごめんっ」
「でもそれも私たちらしいかもね。雄哉、ありがと」
私はにっこり笑って、雄哉の言葉に応えた。
「じゃ、じゃぁ…」
「ま、だからといって急にベタベタするってことはないだろうけど。今みたいなつきあい方が私にとっては気持ちいいからさ。でも、今までよりも雄哉のこと頼りにしちゃうかも。それでもいい?」
「あぁ、もちろんだ」
雄哉は胸をドンと叩いてそう言ってくれた。
「芙美恵ちゃん、今残っているシェリー・ブレンドを飲んでみてくれないかな」
マスターに言われた通りに私は残っているシェリー・ブレンドを口に含んでみた。シェリー・ブレンドを口に含んだ瞬間。
「え、甘いっ!?」
最初は薄くてとてもコーヒーとして飲めなかった。二口目は冷めているのに熱くて深みのある味わいだった。そして今はそのどれでもない。甘みを感じるのだ。
「これってどういう事なのですか?」
私はマスターに質問してみた。
「おそらく芙美恵ちゃんが雄哉くんからの愛情を欲しがっているんじゃないかな。いわゆる甘い恋愛を求めているんだと思うよ」
そう言われて、急に耳が熱くなってきた。え、私って雄哉にそんなこと求めてるの? そう思ったら、急に雄哉の顔をまともに見ることができなくなった。
「芙美恵ちゃん、これでこの先何を見つめていけばいいかわかったんじゃない?」
マイさんの言葉に私はこっくりとうなずいた。
「はい、まずは私の夢であるDJになること。そのためにいろいろと学ばないといけないと思いました。そして私のことを心から支えてくれる雄哉。その雄哉のことも見つめていかないと」
「じゃぁ、今芙美恵ちゃんの心の中は何で満たされているかな?」
「DJと雄哉、この二つです」
私は自信を持ってそう答えた。
「もう美香子なんかに心を奪われないです。奪われそうになったら、雄哉に助けを求めます」
私があまりにも自信を持って、大きな声でそういうものだから、雄哉はちょっと照れているみたい。でも私の心はとても晴れ晴れとなった。今何に目を向ける時期なのか。そしてそこからぶれそうになったときにどうすればいいのか。そこが明らかになったからだ。
「芙美恵ちゃん、ここに入ってきたときに比べてとってもいい顔してるよ」
「えへっ、そうですか」
マイさんにそう言われて、私は照れながらもまんざらではない気持ちになっていた。
こうしてカフェ・シェリーで得た体験と気づき。これは雄哉が言うように、私を元気にさせてくれるものであった。この日は雄哉と一緒に夕食も食べに行き大満足。まぁ、雄哉におごってもらったというのもあるけれど。おかげで久々に気分のいい睡眠をとれた。
そして翌日のこと。
「おっはよ~!」
学校に出ると、会う友達一人ひとりに元気にあいさつをしている私がいた。ここ最近は
「おあよ~」
なんて感じで言葉もあやふやに、しかもこちらからはあいさつなんかしなかったのに。今朝はこちらからどんどん声をかけたいと思っていた。
「あ、芙美恵、おはよ~」
あいさつをした友達からも笑顔で元気のいいあいさつが返ってくる。それがまた気持ちいい。そんな気持ちのいいあいさつを交わしていたときに、目の前に美香子が現れた。このとき、私がとった態度。それは…
「美香子、おっはよ~」
他の友達と変わらず、美香子にも元気でさわやかなあいさつを行ったのだ。なぜそれができたのか、私にも不思議だった。昨日までの私ならとてもそんなことはできなかったのに。これもシェリー・ブレンドの魔法かしら。私よりも不思議がっているのが目の前の美香子。
「あ、お、おはよ」
ちょっとあっけにとられた顔をしている。こうして一日がスタート。この数週間悩んでいた私がウソのよう。授業も気持ちよく受けられたし、友達との会話もはずんだ。そして授業が終わってサークルへ向かうとき。
「芙美恵、ちょっといいかな」
そうやって声をかけてきたのは美香子であった。
「ん、何?」
「あのさ、ちょっと芙美恵に聞いてもらいたいことがあるんだけど」
なんだろう、あらたまって。これも昨日までの私なら、露骨に嫌な顔で拒否をしたところだろう。けれど、なぜか私は美香子の要望に快く応えることができた。さぁて、一体何の話なのか。私と美香子は学食の喫茶へと足を運んだ。
「あのさ、私、芙美恵にどうしても聞きたいことがあるのよ」
あれっ、聞いてもらいたいことがあるんじゃなかったのかな? なのに私に質問だなんて。
「あのさ、芙美恵って雄哉と仲いいじゃない。それってやっぱりつきあってんの?」
横を向いて、ちょっとつんとした態度で私にそう聞いてくる美香子。この態度が気に入らない。と、昨日までの私ならそう思ってイライラしていただろう。けれど、なぜだか今日はそうは思わない。なぜなら、美香子が質問してきた雄哉が私にはついているし、今は美香子の言葉なんかに耳を貸している場合じゃないってのもあるから。
「そうね、そういえば昨日雄哉からそんな言葉を聞いたわ。だから私も安心して雄哉とつきあっていけるかな」
「えっ、やっぱり…そうなんだ…」
急にシュンとなる美香子。ははーん、どうやら美香子は雄哉のことが気になっていたんだな。あ、ひょっとしたらそれに嫉妬して今まで私に…。まさかね、そこまではないでしょ。そう思っていたのだけれど、どうやらそれが当たりのようだ。
「あのさ…どうして雄哉は芙美恵を選んだのかな? 私、こんな事言うのもなんだけど、服のセンスもお化粧も、他の女性には負けないようにしてきたつもりなの。なのに、なのにどうして選ばれたのが芙美恵なの…」
美香子は拳をギュッと握りしめ、悔しそうな態度を示している。ひょっとしてこのお嬢さんは、今まで男性を思いのままにしてきたんじゃないだろうか。なのに雄哉を思ったようにできなかった。それが悔しくて…?
「ねぇ美香子、あなた雄哉のこと好きなの?」
「好きだとかそんなんじゃないのよ。どうして雄哉があなたを選んだのか、そこがどうしても許せなくて…」
許せない。昨日まで私が美香子に対して抱いていた気持ちだ。
「私のどこがダメなの? どうして私じゃなくあなたなのよっ!」
ドンッ
美香子は拳を力強くテーブルの上に振り下ろした。その音で周りにいた多くの人がこちらを見たほどだ。このとき明らかにわかった。美香子が許せないのは、雄哉や私ではなく、自分自身に対してなのだ。雄哉を振り向かせることができなかった自分自身の力のなさ。そこが許せないのだ。そして私も気づいた。美香子を許せないと思っていた私も、イライラしていた自分自身のその態度が許せなかった。自分を許してあげることができればもっと楽になれるのに。
私はシェリー・ブレンドを飲むことで自分が本当に目を向けるべきものに気づいた。このとき、今までの自分を許すことができたのだと思う。
「美香子、今日サークルはなんかやらなきゃいけないことあるの?」
「えっ、今日は特別何もないけど…」
「よし、じゃぁちょっとさぼっちゃおう。連れて行きたいところがあるのよ」
なぜそう言ってしまったのか、私にもわからない。けれど、今は美香子に対して憎しみなんかの感情は全くない。逆に美香子が哀れにも見える。だからといって放っておこうとも思わない。その逆で、何とかしてやりたいという気持ちだ。あれ、どうしてこんなふうに考えられるようになったんだろう。なんか自分の気持ちが突然広くなった感じがする。
あ、わかった。犬のうんこじゃなく、もっと広いところを見ることができるようになったんだ。今までは美香子の嫌な面しか見えてなかった。けれどこうやって見ると、美香子もかわいいじゃない。見える世界を変えるってこういうことなのね。
「それ、どこに連れて行こうというの?」
美香子の返事で我に返った私。
「あ、変なところじゃないよ。ちょっとおもしろい喫茶店があってね。そこのコーヒーを飲むと、とても元気になれるんだよ」
「元気になれるコーヒー?」
「ま、百聞は一見に如かず。とにかく行ってみようよ」
美香子にはまだ迷いがあるようだ。
「それって変な宗教とかじゃないよね?」
「大丈夫だって。それにその喫茶店は、昨日雄哉から紹介されて連れて行ってもらったところなんだから」
雄哉の名前を聞いて安心したのか、美香子はこくりとうなずき行く決心をしたようだ。とりあえずサークルには適当な理由をつけて、今日は休むことを連絡した。カフェ・シェリーへ行く途中、美香子は無言で私についてくるだけだった。私も何を話しかけていいのかわからない。どうしようかな…あ、そうだ。
「ねぇ、美香子は雄哉のどこが気に入っているの?」
「え!?」
美香子は私の質問にとまどいを見せた。
「だって、雄哉と私が仲がいいから嫉妬してたんでしょ」
「いや、そういうんじゃなくて…何だろう、雄哉が私のことを見てくれないのが気になってたって言ったほうがいいのかな…」
ぽつりぽつりと美香子の本音が出始めた。
「ってことは、雄哉じゃなくてもいいってこと?」
「え、そうじゃなくて…でもそうなっちゃうかな。私ね、アナウンサーになりたいの。もっと多くの人に私の姿を見てもらいたいの。なのに雄哉は私のことを見てくれなかったでしょ。だから…」
なるほどね。美香子の自意識過剰が発端か。ったく、お嬢様なんだから。
「美香子、私の話をしてもいい?」
「え、いいけど…」
「私ね、正直に言って美香子って好きじゃなかった。いや、もっとハッキリ言えば嫌いだった。いつもお嬢様ぶってて、私に対して何かと難癖つけて」
美香子は何も反論しない。自分でもそれがわかっているからだろう。私はさらに言葉を続けた。
「美香子が私を気に入らないのは、私が雄哉と仲がいいから。美香子は雄哉のことが気になって仕方ない。自分のことを振り向いてくれないから。なのに私には積極的に話をしてくる。自分の方が間違いなくいい女だっていうのにね」
美香子は下を向いたまま。私が言ったことが真実だからだろう。けれど私はここでニカッと笑って、美香子にこういった。
「でもね、今はっきりわかったの。なぁんだ、美香子も私も同類じゃないかって。私はDJを、美香子はアナウンサーを目指している。なのに、とんだ犬のうんこに目をとられているだけなんだってね」
「え、犬のうんこ? 何のこと、それ」
「今から行く喫茶店でわかるわよ。さ、もうすぐよ」
昨日まで許せなかった美香子なのだが、今は気分がスッキリしている。美香子も私も、こんなくだらないことでつまずいている場合じゃないんだ。
「ほら、ここよ」
「へぇ、こんなところに喫茶店があったんだ」
どうやら美香子もここは初めてのよう。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。あ、芙美恵ちゃん。今日はお友達連れてきたんだ」
「うん。同じサークルの美香子」
私はここでマイさんにウインク。マイさんは一瞬、あっ、という顔をしたが、すぐに笑顔でこう言った。
「シェリー・ブレンド二つでいいのかな?」
「はい、よろしくお願いします」
私と美香子は、昨日雄哉と座った席へ。
「美香子、今から出てくるコーヒーを飲んだら、その味の感想を聞かせてね」
「え、どういうこと?」
「まぁ、いいからいいから」
美香子には最初にどんな味がするのか。そしてどんな味の変化があるのか。
「はい、シェリー・ブレンドお待たせしました」
「さ、美香子、飲んでみて」
「う、うん…」
美香子はカップにそっと口を付ける。そして驚きの表情を見せた。
「え、うそ…この味って…」
うふふ、美香子がどう変わっていくのか、とても楽しみ。このときの経験がきっかけとなり、私はこのあと多くの人の人生を楽にしてあげる、新しいスタイルのDJをスタートさせた。
何を見て生きていくのか、その大切さをもっと多くの人に知ってもらうぞ!
<もう許せない! 完>