第三十問
舞が小学校に通い始めてから数カ月が過ぎた。舞の性格なら誰とでも仲良くなれると思っているが、それでも心配してしまうのが親の性というやつか。そんなのことを考えつつ、私は夕飯の用意をしながら二人の帰りを待つのだった。
グツグツとスープが煮え立った頃、玄関の方からドアが開いた音がした。どうやら舞が帰ってきたようだ。しかし何故か今日はドタバタという足音が響いてこない。
「ただいま〜」
「おかえり」
顔色は普段と変わりなく、どこか怪我をした様子もないので健康であると思う。でも、何か引っ掛かる。私の杞憂だったらいいのだけれども、悩み事が出来たのなら私や桜に頼ってもらいたい。
「手洗いうがいしてね」
「…はーい」
そう言うと舞は言われた通りに手洗いうがいした後、自分の部屋に行ってしまった。
誰にだって調子の出ない時はある。が、やはり気になってしまう。それは朝の舞のテンションが誰かさんと同じくらい騒々しいモノだったからだ。学校で何かあった?と聞いてしまおうか。それとも先に桜や学校の先生に相談するのが良いのだろうか。頭を掻く私は火を止めて、舞にとっての最善策を思考する。
「うーん、やっぱり、美味しいものを食べるのが一番」
じっくりと考えることだけが正解を導く途中式ではないのだ。寄り道しながら答えを探してもいい。それから私は、もう一品を作ることに取り掛かるのだった。
ごちそうさま、と舞が手を合わせる。
「あれ?お腹空いてないの?」
「…うん、ちょっとね」
「まさか…ダイエット?」
「違うよ」
舞は食器を片付けて、また部屋へ行ってしまった。食べて元気を出さなくてはいけないときに限って人は食べたくなくなるのだ。作ったものを食べてくれないのは悲しいが、桜が心配そうにしているのを見るのも辛い。その桜が席を立って舞の後を追う。
「ちょ、ちょっと!桜?!」
「何があったのか聞いてみる」
「待って」
桜の腕を掴む。けれど、すぐに振り解かれてしまった。
「なんで?薫は舞の力になりたくないの?」
「そうじゃないよ。ただ、今は一人にさせてあげた方がいいと思う。無理に聞くと逆に塞ぎ込んじゃうかもしれないから…」
これは本心だ。けれど桜の行動も正しいことだと思う。
「薫、ごめん。私やっぱり舞と話してくる」
スタスタと歩く彼女を引き止めることが出来たのに私の足は動くことができなかった。また、いつもの日常に戻れることを祈るばかりだった。
食後の食器を洗っていると舞の部屋の方から怒号が聞こえてきた。私は慌てて二人の元へ走り、目にした光景を疑った。
「出ていってよ!!」
叫んでいたのは舞だった。机の上には宿題をやっていた形跡があった。憤怒を剥き出しに仁王立ちで叫ぶ舞は少し怖く思えた。
「私は話をしたいだけなのに」
「話なんてない!勝手に部屋に入ってこないで!!」
次の瞬間、舞の腕が振り上げられ手にしていたペンが桜に向かって投げられた。
カラン、コロコロコロ。
小さく(痛い…)と桜の声がした。私は必死に頭をフル回転させる。まずは舞をどうにかして落ち着かせないと。
「舞、今日はもう出ていくから。勉強の邪魔してごめんね」
「……」
肩が上下に動いているが、桜が痛いといった瞬間、青ざめた顔をしたのを私は見逃さなかった。
「桜も、ちゃんと謝って」
「…ごめんなさい」
ペコリと頭を下げる。
「…舞」
「なに?」
「さっきの、本当は投げるつもりなんてなかったんでしょ?」
「……」
「桜も分かっているから。気にしないで」
舞の口がモゾモゾと動いたが聞き取れなかった。でもきっと、(ゴメンナサイ)と言ったに違いない。
「あまり、無理しないでね」
「…うん」
それじゃあ、お休み。と言って、そっと部屋のドアを閉めた。
それからというもの舞の態度は日に日に悪くなるばかりだった。桜もあまり口を出すことはしなくなったけれど良い方向に進んでいるとは三人の誰一人思っていたなかった。ご飯に全く手を付けない日もあった。私はそれとなく舞に言葉にしなかったけれど転校を提案してみた。でも彼女は首を縦に振らなかった。カーテンを締め切って体育座りで耳を塞いでいる、そんな気分。雨天ではなく雪でもない、曇天。ただ、ただ、どんよりとした曇りの日が終わらない。私は桜と相談して無理矢理にでも家族旅行と嘘をついて「転校しよう」と言う決心をした。その日が私たちの運命の日となった。
「舞が、お婆ちゃんの家にいるって…」
舞が学校から中々帰ってこなくて、学校側に電話しようかとしていた時、桜の母親から電話がかかってきたのだ。今、舞ちゃんが来ている、と。
私たちは急いで家を出た。電話越しに聴こえてきたのは、絶叫。耳にベットリと残る舞の壊れた声が私たちの胸を引き裂いて血が溢れて脳味噌をかき混ぜる。
テオクレ。その言葉が過ぎってしまう。道中の道が長く感じられて苦しかった。
舞を連れて何度も遊びに行った桜の実家。玄関を開けると靴が沢山あって二人の脳裏に最悪のイメージが広がっていく。沈んでいくだけの泥の中、それでも舞に会いにかなくちゃ!
「桜」
野太い声で呼び止めたのは桜の父親だった。今まで数回しかお会いしたことはないが寡黙で厳しい人だと桜から聞いていた。その人が何故ここに?と疑問は尽きないが私は桜に目配せして先に行くと訴える。すると桜は一度、頷いた。
私は先程から聞こえてくる泣き声を頼りに駆ける。
「舞っ!」
蹲るように両手で両耳を抑える私たちの娘を目にした。その舞を抱くような形で桜の母親が背中を擦っていた。予想した最悪のイメージは消え去ったが現実は地獄であることに変わりはない。
「舞…舞…」
私もすぐに抱き締めようと近寄る。その時、舞が絶望した顔で私に「嫌ぁ!こないでぇえええ!」と言い放ったのだ。
「え」
最初、私はソレを受け入れられなかった。でも間違いなく、強い拒絶。桜の母親も言葉ではなく目で「来ないで」と言っているのはハッキリと理解できた。どうすることも出来なくなった私の肩を誰かが叩く。振り向くと桜の父親だった。
「話、いいかな」
はい、と声を出す力も出なくなってしまった。スーッと、一筋、流れたけれど舞に比べたら大したことない。あぁ、きっと、これがサヨナラなんだ、と悟ってしまった。
正直、話のできる精神状態ではなくなるかもと思ったけれど案外と頭は冷静に働いた。
「舞ちゃんのことは、これから来る専門の人たちに任せてあるから心配いらない」
きっと彼と彼女たちだろう。彼等なら任せても大丈夫だ。私は微かだったけれど笑う事ができた。
「桜には悪いが帰ってもらった」
「そうですか」
「そして、“本題”はここからだ」
「………」
「君たちは“こうなること”を予想できなかったのか?」
恐らくだが私と桜が同性愛者だから学校で舞がイジメられたんだ。舞にはもう少し時間が経ってから私たちの口から打ち明けようと一応決めていたのだ。が、もう意味なくなっちゃったな。
「その様子だと多少なりは考えていたのだな。だが事態はもっと複雑だった。舞ちゃんは自分が何なのか分からなく感じてしまったらしい」
「っ!?そんなっ…」
「女性と女性の二人では子供は産まれない。最近の小学生の性の知識は進んでいるのが仇となったみたいだ。自分は何処から来たのか、どうやって産まれたのか。拾われたか、もしくは…………人工的に造られたか」
真っ暗で話されている内容が頭に入ってこなくなった。ボンヤリとして、グラグラする。
「まぁ、理解できる歳になったら説明するつもりだったのだろうが、子供は大人が思っているより賢いぞ」
私は嗚咽を抑えるように口元を手で隠す。もし一人になったら膝から崩れ落ちて、枯れるまで泣き続けた後に死んでしまうだろう。
この日、私たち三人は同じことをしているのに、バラバラになってしまったように思えた。
その後、舞は桜の両親、大森家に引き取られ学校も転校した。




