第十九問
不思議なことに家での風当たりが良くなった。主に母からの小言が随分と減ったのが大きい。
「一体、何をしたの?」
気になって仕方ないので電話で薫に聞いてみた。
「何もしてないよ」
「そんなことないじゃん」
私の目の前で戦ってくれた恋人の姿を思い出すだけで目が潤んでしまう。それくらいカッコ良かった。嬉しかった。
「ありがとうを何回言っても足りないくらい…」
「桜…」
携帯越しでも伝わる彼女の優しさがカサブタになったはずの傷口に触れて凄く痛い。私は一体、どうすればいいのだろう。釣り合うような何かを返したくて仕方ないのだけれど“お返し”のキスでは到底敵わない気がした。
「薫に何かしたいよ」
「え〜?いいよ別に」
「何して欲しい?何か欲しいモノない?行きたい場所とか、ない?」
「う〜ん。今は特にないかな」
「そっか…」
「じゃあ、もう切る?」
「あー、ちょっと待って。まだ理由を聞いてない」
絶望の日々を変えた魔法の種明かしを私は知りたい。
「大したことじゃないよ」
薫は私に分かるように、ゆっくりと説明してくれた。
「桜への怒りは同性愛に対する偏見を通じていたんだと思う。アノ人の中では桜イコール同性愛者そのものみたいに思っていたのかも。そこに私、桜の恋人が登場する。それまで太いパイプのように、同性愛者から桜へ、ほぼ直接と言ってもいいほど感情が流れていた。その間に私が入ることでクッションの役割を果たした。だから桜への怒りが和らぎだというわけ」
なるほど。感情の矛先が増えた。正確には厚みが増して、憤怒の鋭い刃先が私まで届きにくくなったのか。
「分かった?」
「うん、ありがと」
「…本当は話し合って解決できたらよかったんだけどね」
「………」
「全く不可能…ではないだろうけど、厳しいだろうなと思ったから」
私に気を遣ってくれているんだと感じた。言葉を選んでくれているのが分かる。
「なんか眠くなってきた…」
薫の、フワァと可愛い欠伸の音が聞こえて来て身体がムズムズした。
「あ、あのさ!お礼…じゃないんだけど、今度、またデートしよ?」
「うん、いいけど今週は大学忙しいから難しいね」
「じゃ、じゃあ来週!来週は、どう?」
「いいよ、日曜でいい?」
「あー、うん。日曜なら空いてる」
「決まりね」
「うん!決まり!」
「それじゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ薫」
「またね」
「またね。………………薫…」
「…ん?なに?」
「愛してる♡」
ブチッと通話を切る。だから薫の反応を知れないのが少し残念だ。
明日も早い。さぁ、寝よう。布団に潜って眠りに入りかけていた、その時。薫からLINEが来た。たった一言、「私も」と。思わずスマホを抱きしめて布団の上でゴロンゴロン転がる。私は言葉にできない喜びを、温かいスープをスプーンでゆっくり掬うように味わうのだった。
待ちに待ったデート当日。天気は雨なので予定が狂ってしまった。前日まで悩みに悩んだコーディネートが無駄にされたような、そんな悲しみの雨を喫茶店の中から二人で眺めていた。
「また今度だね」
「そうだね…」
この雨の中、遠くへ出かける気分になれず最寄りの店で時間を潰している。そして、頼んだクッキーもココアもコーヒーも食べ終わってしまった。やることがない。ウィンドウショッピングにでも行こうか?と提案しようと口を開きかけたら薫が「散歩しようか」と言ってきた。
「この雨の中を?」
「たまには、いいんじゃない?」
「折角オシャレしたのに」
「今日すごい気合い入れてきたよね」
私の服を見て彼女は言う。
「私もだけど、薫も凄く綺麗なのに…なんか勿体無い」
薫が今日のデートを楽しみにしていたのがバレバレなのだ。
「勿体無いって…他に見せる人いないでしょ?」
「そうだけどさぁ…」
本当は少しでも雨に濡れてほしくないから、なんて思っているとは言えないよなぁ。
「さぁ、長居したら迷惑だから行こうよ」
「もう、諦めるしかないか…。よし、行くか!」
「会計してからね」
「お、今度は覚えてた。偉い偉い」
「………ありがとう?」
素直に感謝を言われて調子が狂ってしまう。嫌じゃないんだけど、上手く言えない気持ち。薫といるのは本当に楽しいんだけど、最近ずっとモヤモヤする。
折りたたみ傘を二人取り出して、雨の中を当てもなく歩み始めた。こんな天気も、愛する人と一緒なら平気だと思っていたのに。辛いことは、やっぱり辛いや…。
「寒いね」
薫が呟く。
「そうだね」
今からでも戻って雨が止むまで休もうよ、と言いたくなった。でも、きっと薫が行こうと言ったからには私も行くしかないんだ。健やかなるときも病めるときも、だ。
「ねぇ、桜。相合い傘しない?」
「えぇ〜?この年で?」
「嫌ならいいけど」
「いや、相合い傘が嫌なんじゃなくて…」
「じゃなくて?」
「その…薫が…濡れるのが……嫌」
「私は別にいいよ、濡れても」
「か、風邪とか引いたらどうするの!?」
「もう、桜は心配し過ぎ」
でも薫に風邪を引いたら困るのは本心だ。
雨音は弱まる様子はないけど、強まることもなかった。結局、薫に押されて渋々承諾して一つの傘に二人で入る。そして、身体が少し冷えてきたので薫の家へ行くことにした。少女漫画みたいなドキドキを感じることもなく、わたしはただ、早く家に着くことだけを考えて歩いた。気まずい空気が流れたのは言うまでもない。
家に着いた。
「鍵開けるからちょっと待ってて」
「あれ?今日、親は?」
ガチャリ
「ん?いないよ。今日二人とも忙しいから帰ってこないよ」
「……」
「はやく上がって。シャワー準備するから」
そう言って家の奥へ行った彼女を見送る私の胸中には、モヤモヤが再び顔を覗かしてきて困ってしまった。
「ふたり…きり…」
何故か緊張してしまう。どうしてだろう?
いつも二人きりでデートしているじゃないか。手だって繋ぐしキスもするし。ザワザワと騒ぐ胸に静かにするように訴えかけても「いつやるの?」と書かれたプラカードを掲げる小さな私がいる。「今でしょ」という文字を掲げる私もいる。(でもソレは一体、何?)私は答えの分からない心情に苦しみながら、シャワーの準備が終わるのを待つことになるのだった。
薫 (今日の桜、様子が変だな…)
桜 (うぅ…モヤモヤするよぉ…)




