080→【七月二十八日】
《23》
これは、後から知った話。
水汲山の伝承に曰く、順序が、そもそも逆であるという。
始まりは四百年前、この地にて発生した“天災”――即ち、【空より来きたる凶星が、地を襲った】隕石落下事件だ。
『細かな石くれが無数に降り注ぎ、田畑を、家畜を、家を、人を、みなだめにした』という記述と、一目で当時の凄惨さが分かる絵巻には息を呑んだが……しかしその中に一点、神々しいきらめきを残す場所があった。
北峰の周辺、並びに水汲山。
不思議なことに。
この地だけが、周囲を襲った災害から免れた。
そして、民衆が苦しみに喘ぐ中、当時北峰を治めていた姿勢者の判断は素早く、かつ高潔だった。
全ての倉の備蓄を惜しみなく解き放ち、天災を受けた人々を分け隔てなく救ったのだ。
首を垂れる彼らに対し、施政者はこのように語ったという記録が残っている。
『此度土地を襲ったものが天災ならば、私が受けしものこそは天命である。
幼き頃、私の夢枕に光り輝くお方が立ち、仰られた。
遠からずこの地に、人々の命運分けるおそろしき災いあり。それを防ぐこと叶わぬが、命の岐路にて、良きほうへ導くことはできる。我はしばし、裾野の地へ多くの恵みを授けよう、と。
その言葉通り、百年は覚えのないほどの豊作が続き、倉は大いに潤った。
私は慈悲深き方の御意思を果たしたに過ぎぬ。
あれはきっと、水汲山の化身であったのだろう』
民衆は約束を果たした施政者と、何より水汲山に感謝し、【水汲山は悪しき運命を遠ざける神様がおわしている】と見出し、石仏を建立したのである。
つまり、神を興したので奇跡が起きたのではなく。
奇跡の影に、人々が神を、その理由を見出した。
そこから、この地に於ける【岐神信仰】が始まった。
人々は幸運に感謝し、目に見えぬ定めを意識し、己が出来ることを考えながら生きていく。
――本当に、そんな神様が“いた”のか。水汲山と北峰だけが被害を受けなかったのは、偶然以外のものなのか。
それを確かめる術は、四百年後の今には無い。全ては遠い、歴史の彼方だ。過ぎ去った文化を覗き込む遠眼鏡と、かつての言葉を聞く心を持った民俗学者であろうとも、踏み込みえない領域がある。
それでも、確かな事実ならば、語れる。行動と、その結果ならば、残っている。
災害から救われた人々は、北峰の、水汲山からの恩恵が、遠く、広く、多くの場所へ行き渡るように、自分たちの故郷の復興の為に、水路を造った。十年、五十年、百年……意思を繋げ、託し、伝え、連綿とそれを続けた。
やがてそれは、山から始まり、海まで注ぐ流れを伸ばす。そこには魚が住み、農業を支える要となり、沿って人が集まり、町が出来た。生活を潤し、発展させる、人々の命と共にある流れとなった。
その町の名を、今日では、【南河市】という。
始まりは、苦難。多くの涙、嘆き、悲しみを産んだ災害。
その悪因は、しかし、この地に善果をもたらした。耐え難き試練の中から、折れず立ち上がる強さと、新しく咲く花が生まれた。
人は。
自分で結果を選ぶことで、遡り、その原因を、肯定することが出来る。
未来を創るだけでなく。
過去の不幸さえ、その意味を変えてやることだって。
『――でさ。これまでキワモノ扱いで、ろくに見向きもされてこなかったのに、例のあの一件のおかげで最近は急に忙しくって。方々で目撃されながら、突然に消えちゃった水汲山上空の隕石の取材や質問の予約がテレビから雑誌から殺到して、うちのゼミはろくに研究が進められないぐらい予定が詰まりっぱなしなの。あーあー、せっかくの夏だってのに、絶好の山日和だってのに、外出する暇もないんだよー! うーうーうーうー、フィールドワークいーきーたーいー!』
電話の向こうの声は、口振りとは裏腹に、溌剌とした調子で言う。
『こんな時にあの子がいればなあ。今月中には、保釈の目途が立ちそうなんだ。帰ってきたらみっちり叱って、溜まった資料整理と論文執筆を手伝ってもらって――そんで絶対に、本人がなんて渋ろうとも、八月一日の岐神参りには一緒に参加させてやるんだから、セーヤには』
スピーカー越しにもはっきりと、断固たる決意が届く。
話を聴きながら、荷物を鞄に詰めていたのだが、作業が終わった辺りで丁度玄関のチャイムが鳴った。
『あ、そっちに着いたかな? じゃあ相楽くん、うちの娘をよろしく頼むよー。まだまだ色々アンバランスだから、現代社会のフィールドワーク、しっかりついてあげてね』
通話が切れ、鞄を担いで部屋を出る。
階段を下り玄関に向かえば、
「やっ、がらくん」
我が愛しの妹・相良真尋と何事かを話していた彼女が、こちらを見つけてひらひら手を振る。
「あ、ようやく来やがった。ったく、おっせーよ兄貴。女より準備に時間かかるとか、男子の心得なってねーんじゃねーの?」
「うん、おまえがもう少し、せめて一般的なレベルで準備とか見栄えを気にしてくれる女の子だったら兄ちゃんとしても嬉しいんだけどな?」
電気に火の元、窓の鍵。それらを今一度確認し、先に出ていた二人を追って外に出た。
澄み渡る夏の空。
七月二十八日は、七月十九日より暑い。
「そろそろかな」
真尋が時計を確認してほどなく、道の向こうから一台のミニバンが走ってきて、うちの前で止まった。
「おはよう、杜夫」
運転席から顔を出したのは、誰あろう、武中先生だ。――学校外だけあって、トレードマークのジャージを脱ぎ、今日は私服で決めている。ビシっとパンツスタイルの、男より同性にモテそうな凛々しさだった。
「おはようございます、武中先生。急な誘いにも関わらず快諾を頂いて、助かりました」
「はは。なに、そう畏まるな。むしろ感謝しているのはこっちだよ。おまえにそんなつもりはないだろうが、ひどくタイミングが良かった。どうせなら、大勢で行ったほうが賑やかでいいと思ってたんだ」
その視線が、俺からその後ろへ向かう。そこにいる、八年振りの生徒を見る。
「芽々子」
「…………どうも、武中先生。――その、お元気、でしたか?」
「勿論。私はいつだって元気だよ。やるべき時に、やることをやり、生徒の喜ぶ顔が見たいからな」
「…………私のこと、まだ、そういうふうに、思ってくれるんですね」
「はぁ? おい、ちょっと待て。ふざけたことを抜かすなよ、氷雨芽々子」
ちょいちょい、とこっちに来いとジェスチャーをして、それから武中先生は、おずおずと寄ってきたメメ子の顔を見つめて、そして笑って、
「これは私の、教師としての信条でな。一度受け持った連中は、どんなに困った奴でも、」
からかうようにこちらをちらと見て、
「途中で転校した奴でも、私が死ぬまで私の生徒だ。いつでもきっちり叱ってやるから、今度こそ、遠慮しないで頼ってこい。もう三年の頃みたいに、一人で悩むんじゃあないぞ」
再び向き直り、頭を撫でた。厳しさと優しさを、均一に混ぜた、乱暴で力強い掌で。
「――――はい。では、これから、そのように致しますね、先生」
「うむ。さあ、三人とも乗った乗った。どいつもこいつも教え子だらけだからな、今日は運転の手間賃代わりに、到着までの一時間半、卒業後どんなに成長したかじっくりと聞かせてもらうぞ」
3ドアのミニバンの、真ん中の座席に俺とメメ子が並んで乗り込み、真尋は後ろの扉を開け、
「Welcome」
何故か既に上が半裸の変態を見て、すぐさま閉めて深呼吸した。
「おい兄貴。許可を二つ貰いたい。拳の封印を解く許可と、悪をせん滅する許可だ」
「うむ。どちらも、半分ずつ許可する」
「ちょぉっとちょっと待っておくれよ相楽兄妹、そりゃああまりに御無体ってものじゃあないかなあ? あ、わぁかったっ! さては何かと間違えてるな? フフフ、とびきり安心しておくれ、然る後会いたかったと泣いてくれ。僕だよ! 君たちの愛しき友人、山田ソロモンの出番だよ!」
「シャォラーーーーーっ!」
絶妙な手加減、半分の力で打ち込まれた腹パンで、約束通り半分だけせん滅される変態。身体をくの字に折り曲げて、「出落ちは笑いの華だよねぇ……」とそれなりに満足そうに呟く我が悪友。こいつ多分何をやっても絶対めげないし死なないな!
「はじめまして」
かけられた声に振り向くと、運転席と助手席の隙間から出てきた顔が、こちらにぺこりとお辞儀した。
「向井小学校六年生、千波岬と申します。この度は、お誘いを頂き、本当にありがとうございます」
「いやいやこちらこそ、運転手の説得材料になってくれて助かったよ。俺は相楽杜夫。高校二年生。ミズハラ・スイミングスクールには、俺も昔に通ってた。君みたいに立派な競泳選手を目指してじゃなく、小児喘息の改善目的だったんだけどさ」
予想していなかったらしい共通項が見つかり、表情と緊張がほぐれるのがわかる。俺は出来得る限りの、あらん限りの親愛を篭めて笑いかける。
今はもう俺しか知らない、【起こらなかった七月十九日】を、ほんの少しだけ思い出しながら。
「すんげえ成績なんだったな。今日は一丁、その実力、見せてもらえるのを期待してるぜ、ちーちゃん」
「――はい。OBの方のご期待に応えられるよう、精一杯頑張らせて頂きます。……もりお、お兄さん」
人は。
誰かに認めてもらえることで、時に、自分の力を存分に発揮出来る。
一人ではないという実感だけで、何処にいても、その背中を押してくれる。
「それじゃ、行くぞー」
ミニバンが発進する。空は晴天、照る太陽は季節を主張し、つまり、この上もなく、今日という日はもってこい。
道路を走り、車は向かう。
河に沿い、南へ、南へ。
丘を越え、町を抜け。
橋を渡って、視界が広がる。
遮るものもない、天と地と、その青色が溶け合う場所ところ。
南河逢浜海水浴場。
「すっごいすごいっ! あっ……おーーーーーーーーいっっっっ!!!!」
子供の、子供らしい、子供の特権な、歓喜の叫び。
『川やプールでしか泳いだことがないので、いつか思いっきり、広いところで泳いでみたい』――ささやかな夢を叶えた小学生が、窓を開けて、風を受けて、輝きに手を伸ばした
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