075→【母と息子/心残】
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「ごはん、ちゃんと食べてる? 学校楽しい? 友達は何人出来た? 今何歳? ……十七!? へぇ、へぇぇぇぇえ! 道理でおっきいわけね! 喘息も治った? あぁよかった! お見舞いに来てけほけほつらそうなところ見ると、こっちが気が気じゃなかったんだから! ねねねねね、真尋はどうなった? あの子は控えめでお淑やかな子だったから、昔の母さんに似てさぞかしモテモテな淑女になったんでしょうねえ! あ、ついでに聞くけどあの人、お父さんは? 新しいお嫁さん貰った? ……貰ってない!? はぁぁぁぁもう何をしてるんだかあの人は、相変わらず仕事仕事ばっかりなの? もう何考えてるのかしら、新しい母親も作らず子供たちの側にもいてあげないなんて! とっちめてやりたいんだけどここに呼べない? 無理? あっそう、じゃあ後で杜夫の口から言っといて、『いなくなった女のこと考えてるヒマがあったらさっさと新しい恋をしろこの朴念仁!』って! ……あ、ちょっと待って! うん、『この朴念仁!』の後に『本当は寂しいの我慢するな!』も足しといてね!」
その辺りでようやく、言葉の途切れる間が開いたので、ここぞとばかりに口を挟む。
「――いや、でもさ。いよいよこれは、無理があると思うんだよ」
「ん? なになに? どうしたの、お母さんにちゃんと言ってみなさい、杜夫」
「……今回ばかりは、本人じゃないだろうってこと」
真尋に山田にちーちゃんに――一年後メンツはまだ理屈として納得出来る。
しかしこの人は、俺の心の中とはいえ……。
「母さんは、九年前に亡くなってる。可能性とか言うんなら、それはもう、とうの昔に、閉じてるじゃないか」
「ていっ」
「あ痛ぁっ!?」
思いっきりデコピン食らった。
「なんて生意気で小癪に理屈っぽいこと言うの。杜夫、空気を読みなさい空気を。ここはどう見ても、手放し感動すシーンでしょう。そういう本物とか偽物とか深いこと考えずに、『ああ、会いたかったよ母さん!』『ええ、私もよ杜夫!』ヒシッ! 抱きッ! シャランラーン! と、ピアノ独奏BGMで視聴者の涙をちょちょぎらせる見せ場にすればいいでしょうに」
はふー、と実の息子に対して辛辣過ぎる溜息を吐く母さんのベッドの周りには、見慣れた機材が存在しない。
――病状が決定的に悪化したのは、小学二年生以降だ。つまり、この状態は、この母さんは、まだ比較的、軽口を叩く余裕のあったそれ以前ということらしい。
母さんは、元来、明るくて、よく冗談も言って、周りを和ませるのが得意な人だった。
けれど、相楽杜夫にとっては、二年生になってから――学校帰りに自分の足でここに通うようになってからのほうが、どうしても印象深い。
……思い出そうとすると、その末期の様子ばかりが、頭に過ぎる。
元気が無いのに強がって。
自分の身体そっちのけで、残される家族のことばかり心配していた、母さん。
「あーあ、でも叱り辛いなあ。強く言えないわよね、とても。だって、杜夫がそんなんなっちゃったのはわたしが原因なんだし」
今も、わからない。
目の前にいる相手が、何なのか。本物なのか、偽物なのか。
「そんなこと言うなよ」
それでも、我慢ならなかった。聞き捨てられるわけがなかった。
相楽君枝が『自分のせいだ』なんて言うことは、俺は絶対、認めない。
「母さんに、一つだって落ち度があるか。そんなこと言う奴がいたら、ああ、俺はそいつら全員許さない。俺がひねくれたのも、こんなんになったのも、全部、全部全部全部、俺自身で決めたことだ。――そうだよ、折角元気になりかけてた母さんが、あんなことになったのも!」
眩暈がする。
視界が滲む。
この場所に来ると、元気な母さんを見ると、思い出す。
もしも、何かをやり直せるなら。
一つの過ちを、消すことが出来るなら。
「俺が浮かれて、『一緒に散歩に行きたい』なんて言ったからじゃあないかッ!」
相楽杜夫は、九年前の、あの日にこそ戻りたかった。
「そのためのリハビリだって、無理させたんだッ! そのせいであんな事故が起きた! 俺が母さんを殺したんだ! こんな奴、普通に幸せに生きてちゃいけない! 償わないなんて許されない! 自分勝手な我儘で、本当に大好きな人を死なせた、悪い奴は!」
「悪くない」
母さんは、笑った。
「悪くなんてないさ、杜夫」
「――――っ」
「命ってのは、生きるってのは、うまくいかないことばっかりで。どんなにがんばっても、どうにもならないことがある。届けたい気持ちがすれ違うこともあるし、絶対に嫌なことを、我慢して我慢して受け止めなくちゃあならないことも。今回の、あなたたちにあったのは、単に、そういうことなんだ。互いに、互いを愛しく思い、その結果に起こったことが、悲しいことだったとしても。それは、決して、どちらかが悪いなんてことじゃあないんだよ」
「……え、」
「それに。君枝さんは、自分がいなくなっても、杜夫ならそれを乗り越えられるって信じてた。だって、杜夫は優しくて、気が利いて、元気で、生きるのに一生懸命な子なんだもん。これから絶対に、色んな人を助けるし、色んな人から慕われて、大切に思われて――時間はかかるかもしれないけれど、母親がいなくなったことを、乗り越えられる時が来る。なんてったって、泣いている妹を慰めることも出来る、お兄ちゃんだもん」
その口から出る言葉は、自分の事を語りながら、他人を見るようで。
俺は、こう尋ねている。
「あなたは――何なんだ?」
「わたしは、相楽君枝さんの【夢】」
母さんと同じ姿の人が、そう答える。
「芽々子ちゃんが、本物の君枝さんに元気を分けてもらった時に、託されていた心の欠片。いつかあなたが、もしも自分自身の優しさで追い詰められてしまっていた時に、彼女の思っていたことを伝える、伝言役」
彼女は、俺の頬を撫で、涙を拭う。
「しっかし、そうかあ。私は他の子たちと違って、本人から分離した時の、九歳までの杜夫しか知らないかったんだけど――そんなことになっちゃってたのか。君枝さんは、そういうふうに、亡くなったのね」
しみじみと、何かを噛みしめるように頷いたその人が、真っすぐに俺を見る。
「ねえ。聞いて、杜夫」




