072→【顔の無い自分】
《21》
「――――ぶはぁっ! っぅおい! おまえな、何の儀式だか知らないが、せめてこっちにも心の準備ぐらい、」
崖上にいるであろう相手への、抗議の声も思わず止まる。
顔を上げたら、夏だった。
「…………え?」
シチュエーションが繋がらない。
夜の滝壺ではなく、太陽の光にきらめく真昼のプールに俺はいる。水は溜まり、留まり、凪ぐ……まるで時間が時間の止まったように。
「これが、禊……? にしても、これって」
この状況に、この風景に、覚えがあった。
忘れるわけもない。
ここは、学校だ。母校だ。
真夏の、向井小学校だ。おそらくは、七月十九日の。
「――――っ!」
確証はなく、憶測こそが身体を動かす。“なんで”より“もしかしたら”がエネルギーとなり水から上がって地面を蹴る、びしょ濡れだったはずの服は、いつの間にか乾いている。
――果たして。
地上から見上げた屋上の縁に、予想通りの影を見た。
それだけで十分だ。“何故”も“事情”もあらゆる些細を飛び越えて、昇降口に飛び込んで、いつかのように階段を、駆けて、駆けて、駆け上がる。
「っるあぁっ!」
乱暴に蹴り開いた扉の向こうに褐色少女
屋上に立つ、その後ろ姿を、覚えている。
「――よーう。ここ、いい場所だよな」
声をかけて近づいていく。飛び降り防止の柵を越えた、今にも身を投げそうな後ろ姿へ。
「何してんだよ、ちーちゃん。こんな、いい天気の日にさ」
死ぬのなんて、勿体ないぞ――言いながら俺は、その肩に手を置いて、
「 【 う そ つ き 】 」
振り返ったそいつの顔は、凹も凸も存在しない平面だった。
そこだけが千波岬と似ても似つかず、目や鼻や眉や口が織りなす表情があるはずの場所には、底知れない靄が広がっていた。
「【自分は いつも 死のうとしているくせに 他の奴は 邪魔するのか】」
「【誰かの邪魔になるのが怖いくせに 自分の居場所を 諦めることもできないのか】」
「【諦めろ 諦めろ 諦めろ 諦めろ】」
「【 自分は いつも 死のうとしているくせに 他の奴は 邪魔するのか 】」
少女だった姿は溶けるように崩れ、いつでも生と死の境にいる、相良杜夫になった。
「【 生きているせいで 誰かの邪魔になるのが怖いくせに 自分の居場所を 諦めることも出来ないのか 】」
無い筈の口、濁った声で、そいつは呪いを垂れ流す。
肩に置いた手へそいつの手が重ねられた瞬間、全身の力が抜けた。
「【 諦めろ 諦めろ 諦めろ 諦めろ 】」
重力に従う。転落防止の柵に倒れ込んだ身体が、自重で柵を越えていく。
ずるり、ずるり、落ちていく。
「【 どうせそのうち死ぬくせに 他人の何かになろうとするな 】」
軟性の蛇。人の形のジェル。頭が縁に触れる。胴体の重みが身体を押す。
遠い地面に、沼が見えた。
「【 どうせいなくなるのなら 無意味なままで消え去ればいい 】」
何故だろう。自分と同じそいつの言葉は、いやに染み込む。反論する気が起きず、それどころか、ずっと自分が探していたものを見つけてくれた感謝さえ湧く。ずっと言われたかったことを、言ってもらった喜びがある。
とても無様な格好のまま、嬉しくって、涙が出た。
「【俺なんて】」
その涙が、一足先に零れ落ち、地面の沼に吸い込まれた。
それが酷く、先を越されたような気がして、羨ましくて。
だから俺も、
最期だけは自分から、
俯くように地面を目指して、
身を投げた。
声を聞いた。
「【 最初から 死ぬために産まれたのだから 】」
「違います」
もうひとつの、声を、聴いた。
とても、強い、断言だった。




