007→【千波岬は押しが強い】
《3》
人より幾分頼りないことに自信のある我がノーミソを小突いてみれば、“そういえば”と転がりでるものがなくはないのだ。
どこで吸収していたかといえば、町会の噂話や回覧板。アクティブに拾いにいかなくても自ずと届く類の地元情報、俺たちの卒業後に新しく誕生した母校の誇り。
千波岬。
昨年、同学年の県記録を塗り替えたとかで、注目と期待を集めた将来有望な若き水泳選手。海の無い町の飛び魚、元気燦々夏色児童。
「へえ、君が。確かに先程の蹴り、見惚れる切れ味だったね」
「何見てるんですか。いやらしいですね、あなた」
西日の差し込む廊下を歩きつつ、容赦ない毒舌が山田を穿つ。
しかし当人ケロリとしたもの。何故なら、この程度の罵声は奴にとって日常である。
「ははは。うん、察しがいいね。その通り、僕は君を女性として見ているよ? 女性の女性としての女性であるということの魅力に年齢など関係ないというのが僕の持論で矜持で自負だ。君は今のままで十分に美しいが、成長後もさぞ素敵な宝石になると今まさに確信し、そして今まさにそれを押さえておこうとしているのだと考えてくれ」
「そうですか。ところで、あなたは人間として問題があります」
「そうなんだよ。ありがとう、僕のことをよく分かってくれて」
対処法を知らない時の山田ほど厄介なものはない。
あいつ、異性相手には常時えげつない防御力バフがかかるっつーかバグみたいなオートリジェネっつーか、うん、痛めつけられるほど嬉しいみたいなトコあるからネ! ホントどこのおじゃまキャラかってぐらいに!
いやあ、これで訴えられないんだから、世の中って理不尽で不公平ですわ。
「そこまでにしろ、山田。私はこれでも理解があるほうだし、愛の在り方にとやかくいうほど無粋ではないが、生徒が校内で迷惑なナンパにあっているのを見逃すほど無秩序でもないぞ」
「わーい! せんせー、すきー!」
こっちはこっちでナチュラルに、多分一切その気無く、ヤバげな地雷を踏み抜いて爆破させてしかし煙の中から仁王立ちで現れるぐらい頑丈にポンコツな赤ジャージメスゴリラ先生。
気付いてあげて、その褐色アスリート、時折目が笑ってないから。
「ね、ね、ね、ね! せんせー、私、汗かいちゃった! プールいきたいな、プールプールプール! こういう時に泳ぐと、すっごく気持ちいいんだよ! 今まではそんなこと一度も思ったことなかったけど、そこにせんせーがいてくれたら、きっと、楽しいと思うんだ!」
「……わかったわかった、少しだけな、少しだけ。でも悪い、今日は多分無理だ」
その理由は、タケセンが鍵で開けた教室の中にあった。
引き戸の向こうを見て、俺は思わず「うっお……」と呻き、山田は「この有様で資料室は無理でしょ……」と率直な意見を述べ、「……職員も、その、何かと忙しくて……」とばつが悪そうに顔を背ける。
さもありなん。
向井小学校第三資料室は、まさしく混沌のるつぼだった。
広い部屋にはいくつもの棚と重ねられた段ボール、処分のタイミングを逃した運動会の飾り物や各種レクリエーションイベントの残骸が乱雑に押し込まれたといった感じで、まるで整頓されていない。
「……山田と杜夫が三年の時のもの、つまり七年前の備品は、向かって左手の奥だ。その辺りにあると思う……四十七期生の、タイムカプセルの、鍵が」
……その辺りって、どの辺り?
タケセンの指を差した場所は、棚と棚の間の通路で、そこに至るまでもゴミゴミと埋まっており、まっすぐに進んでいける隙間もない。手間だが、通路を塞ぐものを片し片し掘り進んでいかねばならないか。
なるほど、校門でのタケセンの様子がなんかおかしかったのは、千波ちゃんにプラスでこれが原因だったわけだ。
「夕方……までかければ、多分見つかる。でも、今日はそこまでだ。そこからタイムカプセルの掘り出し、となると、日も暮れてしまうからな。また後日、改めて予定をとってくれ」
「……また後日、ですか」
「ああ。すまんな、杜夫。折角の夏休み、二日も使わせてしまって」
「いえいえ、そんな。事前に連絡もせず、当日急なお願いをしたのはこっちですから。しょうがないこともありますよね」
そう、しょうがない。
“前日”に準備の進行が出来ないのも。
“後日”なんてものが存在しないのも。
“当日”しかない相楽杜夫個人的事情。
……俺はこの七月十九日に、やれることをやるだけだ。
少なくとも、やりたいことの妥協だけは……真っ先に、辞書から消してある。
「ま、精々急いでみますよ。もしかしたらなんかうまいこと、素早く目的のブツが見つかって、予定が前倒しにできるようなミラクルも……」
「奇跡でタイムは縮まりませんよ」
腕まくりをした俺より早く、その声と一歩が先んじた。
身体は小さく。
しかし、態度と想いはでっかく。
「今、自分が何をやるのか。それを0.01秒でも早く決めて、きっぱりすっぱり動き出す……時間を圧縮し、人生を高濃度にするのは、それだけです。考えたってどうにもならないことなんて……天気だけでたくさん」
「千波ちゃ、んんんっ!?」
思わず変な声が出た。
千波岬は突如服を脱ぎ、水着姿となった。突然の奇行かと思いきや表情は真剣かつ明瞭、では一体いきなり何を……答えはすぐぴんときた。
当たり判定を減らしている。
「お兄さんたちの探し物、私が取ってきます。勘違いしないでくださいね。私が先生と、一刻も早く夏休みを満喫するためですので」
「お、おい、千波! 待て待て、こんなところ一人で進むのは……」
「いってきまーーーーす! せんせー、泳ぐの、約束だよ!」
止める間もあらばこそ。タケセンが伸ばした手もするりとかわし、水着に上履き装備の千波ちゃんは、資料室の奥に進んで行ってしまう。入り組んだ荷物に阻まれ姿もすぐに見えなくなり、俺たちは揃って立ち竦む。
「――もう、あの子は。元気になったのはいいんだけれど、危なっかしいったら……」
「武中先生」
「なんだ山田」
「坂下って、ひとっ走りデパートまで行ってきますね。待っててください、普段なら絶対小学校じゃ着ちゃいけない奴選んできますよ」
「そのまま真っ直ぐ地獄へ行け」
タケセンは溜息を吐き、部屋の奥へ向かって叫ぶ。
「千波ーーーーっ! いいか、くれぐれも、気をつけろよーーーーっ!」
はーーーーいーーーー!
という返事は、実に、まことに、何かやらかしそうでしょうがない。
顔を不安で七変化させた後、タケセンは第三資料室を出て、俺たちもその後に続き、ふと山田が意地悪い顔で尋ねる。
「いいんですかー、武中先生。あんな中でのモノ探しを、あの子一人に任せてしまって」
「私だって、本当は良くないというのはわかっているよ。だけど、ここは任せてやりたいんだ。誰かの為になりたいという気持ち、やりたいことを成し遂げた達成感――どちらも、今の彼女に必要なものだから」
窓なんかお構いなしに届いてくる蝉の声。
深さ1m幅10m長さ25mの水面が照り返してくる夏は、人生を急かしてくるように目に痛い。
「まったく、人生ってわからんなあ。おまえら級のトンデモが、私の教師人生にこんなにも早く再来するとは……」
「がっはっは、照れますなあ山田」
「まったく晴れがましいのう杜夫」
文章だけを見るならば、かつて問題児コンビの担任だった日々を疲労と共に懐かしむ言葉だ。
けれど、
「またしっかり支えてやってくださいね、武中先生。僕と杜夫が、今でもこれからも感謝を忘れてないみたいに」
こういう順番で並べたのならば。
それなりに、察せられることがある。
「……ふん。当然、言われずともだ。それをせずして何が教師だ。私はあの子に、教えなきゃあならんことが山ほどあるし……多少行きすぎではあっても、千波岬は基本的に素直な子だ。おまえらの相手よりかは、まだ随分と気が楽だよ」
「恥ずかしいですな山田氏」
「気持ちいいですぞ杜夫氏」
どんなものであれ、過去は過ぎる。
それが直視するのも痛々しい歴史だろうと、顔が火を噴く失敗だろうと、ずっと目の前にあってくれる時間は無い。
かつて六年間、自分たちの場所だった向井小学校はもう、許可が無ければ入れもしない境界線の向こう側だ。
世話になった恩師と三人、壁に背を預けて、夏休みの校舎に座り込むなんて、あの頃には考えられもしなかった――