065→【少年時代、最後の日】
《0.9》
「や、がらくん」
「よう、メメ子」
三年生、一学期、終業式。
習慣というのはおそろしくもいとしいもので、私たちは同じクラスになっても、相変わらず帰りの待ち合わせは正門の前だった。
教室から一緒に、ということはせず、わざわざ一度別れた上で再会する。それは別に、クラスメイトにからかわれるのが恥ずかしいからとかじゃなく、【坂の下で待ち合わせて行き、坂の上で待ち合わせて帰る】というのが私たちにとって、特別な意味を持つからである。
そもそも【クラスメイトが云々】というならば手遅れで、彼と私の鍔迫り合いは、向井小学校三年一組の連中にとってある種の名物となってしまっているのだ。
相楽杜夫が動いて無茶して関われば、その相手も否応なしにライトを浴びる。――奇しくも、二年二組で生まれ、隣のクラスにも知れていた【怪獣の空気】は、それにより払拭された【あのバカの相楽がやたらと絡む気の毒な優等生】として、氷雨芽々子は再定義され、人間の立場に引き戻されたのだ。
無論、それを支えた重要なファクターとして、担任の武中先生による行き届いた睥睨、妙な風評に影響された行いは許さないという断固たる態度も忘れてはならない。
本当に。
春が来て、桜が咲いて、世界が変わったようだった。
ずっとここにいたいと感じる陽だまりが、責め苦でしかなかった一年二年の教室と同じ建物の中にあるなんて、すごく不思議な気分だった。
「しっかし、明日から夏休みか。なんかあっという間だったな、一学期が終わるのも」
「同感。一年や二年の時は私、自分のペースでゆったりやっていたんだけど。教室でまであなたにケンカを売られるようになってからは、のんびりなんてしている暇が無かったわ」
「きしし。嬉しい反応ありがとよ、ライバルさん。こっちのペースに引きずり込んだってこたぁ、こりゃ二学期はもらったかなー!? あっはっはっは、氷雨芽々子、破れたり!」
同じクラスというならば、平等に比べられる勝負項目がひとつ増える。
私たちは互いの通知表を見せ合って、成績を比べ合いっこした。結果、私には白星がひとつ増え、彼は【担任評価】の項目の『三年生になったのだからいい加減少しは落ち着きなさい』とのお叱りを強がりみたいに『また勲章が増えちまったな』と謎の誇りかたをする。
彼を見てると、つくづく思う。
勝ち負けが本当に決まる瞬間とは、誰かに『私の勝ちだ』と言われた時ではなく、『自分の負けだ』と感じた時なのだろうな、と。
「見てろよメメ子、今回は一本取られたが、一年間は三学期、つまり二本先取だ! 夏休みで俺は自分を磨き、パワーアップを果たして帰ってくる! 逆境から逆転するものこそ真のヒーローだということを、おまえのその目に見せてやんよ!」
「ええ、期待して待っているわ。それはそれは楽しそうだから」
本当に楽しそうで、申し訳ない。残りの二本を、彼の不戦勝にしてしまうことが。
一学期の思い出、一緒に過ごした行事や勝負の歴史を、がらくんは熱っぽく語り始める。
彼は、知らない。その裏で、自分を中心として、何が行われてきたのか。氷雨芽々子が、どのようなことをしていたのか。
私は、夏休みの間に南河から去り、戻らない。
それが、二年生の春休み、父に押し付けられる仕事の合間を縫い、調べて立てた【計画】の、最初の一歩だ。私は北峰、水汲山に行く必要があり、その手筈も既に、両親には結局打ち明けなかった予知の力を使って整えた。
先日、父が仕事でミスをした。
占いを始めてから最初で最後の、とてつもないしくじりを。
父はとある男に【自分が能力を持っていることを証明しなくてはならない】状況に追い込まれた。
成功すれば顧客拡大・名声獲得……ぬるま湯に浸かり勘を鈍らせ、餌に釣られて引き際を謝った詐欺師には、相応の末路しか待っていなかった。場を焚き付けた男が、氷雨槙吾を罠に嵌めるべく虎視眈々と準備を整えていたのにも、最後まで気づけなかった。
私は、知っていながら教えなかった。
父を終わらせた男がこれより、予知能力持ちの協力者を得て、北峰の地で征流院浄権を名乗り水天岐神楽果堂という宗教を起こす未来が、計画に不可欠だったから。
両親を捨て、故郷を捨て、そして氷雨芽々子という名すらも仕舞って、私はもうすぐ、八年
間の旅に出る。
そう。
私がこの数ヶ月、予知の実験を繰り返してわかったのは、人には変えられる【運命】と、変えられない【宿命】があるということ。
【運命】は、外部の要因が干渉することで発生する未来であり、これは、外から働きかけることによって変動し、異なる結果をもたらす。
しかし【宿命】は、本人が自らの裡に持ち合わせる【決まった結末】であり、外部からどう働きかけたところで、経緯に多少違いはあれど、必ず同じ地点に帰着する。
――君枝さんが、私の視た【生命力の枯渇】による死から、【元気を取り戻したことでの事故】へと、因果が収束したように。
生物の中に発生する、暗黒の渦巻く靄。
【死の宿命】は、何人もそこから逃しはしない。
春休みから夏までに、合計で十二件ほどの【運命】と【宿命】に関わった。前者は私の手で進路を変えられたこともあるが、後者には全敗した。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
たった数回試しただけで、それが駄目だっただけで、これを答えと認めない。簡単に諦められるものを、決意とも願いとも私は呼ばない。
だから私は、北峰に行く。与えられた残り時間、九歳から十七歳までの全てを費やす。
霊峰、水汲山。人の定めを変える神。
その信仰を、私の力とするために。
「がらくん」
坂を下る途中、民家の庭にある木、高い場所の枝に引っかかっているボールを見つめて動かなくなった彼の袖を引く。
「行こう」
「いや、でもさ。あれ、なんだろうな。なんであんなとこにあんのかな。友達と遊んでて、取れなくなっちゃったんじゃないかな」
塀を隔てた向こうから、話し合う声が聞こえる。どうしよう、と話す二人の子供の声。
「うん、やっぱり困ってる。しかたねえなあ、まったく」
彼は。
その木が、たとえば四メートルほどの高さではなく、百メートルでも躊躇はしない。自分が落ちることを考えて、危ないなんて思わない。
――ともすれば。
――ボールを落として、人を笑顔にした後で、自分もそこで落ちたいと、考えている。
「悪い、先行っててくれ、メメ子。俺はちょっと」
「あら。その必要、無さそう」
木に引っかかっていたボールは、……保たれていたバランスがずれでもしたのか、するりと枝から外れて落ちた。願ってもない幸運に、喜びはしゃぐ声がする。
「あなたはとても優しいわよね、がらくん」
それはかつて、私にとって、ただひたすらに好ましいだけのものだった。
今は、違う。
あの日から、彼のそれは、追い立てる強迫観念と共にある。本人だけが気付かない、意識できない、抗い難い誘惑と一体化している。
悔いのない日。
悔いのない死。
自ら望んで銃弾に身を躍らせるような、恍惚とした自己犠牲。
「けれどね、ひとつ知っておいて」
私は取り戻したい。
彼が、死のためではなく生きるために、生きることを楽しむために、正しい自分であることに胸を張れる日を。
「何もかも、あなたひとりでしなくたって。あなたと同じように、優しい人は他にいるのよ」
頼れる相手は、きっといるのよ――と。
私は、今しがた自分がしたことを、ボールを落とすのに合わせて動かした指を、背中に隠しながらそう言った。




