064→【相楽杜夫の変化】
《0.7》
相良家には、借金があったらしい。
その理由は、他でもない、相良君枝の治療費だ。彼女の生命を日々維持するのに莫大な金額が必要で、それは彼らの生活を、当たり前に圧迫していた。
しかし、それも解決された。
彼女の死にあたり、多額の保険金が降りた。借金を完済し、彼らが普通の生活に戻って余りある、生命保険。
勿論、それを喜ぶ者などいなかった。
相楽杜夫は、その日を境に変貌した。
彼が病床の母から伝えられていた教え、【いつ命が終わる日が来るかは誰にもわからない。だからこそ、それがいつであってもいいように、一日一日を悔いなく生きる】というものは、【いつ死ぬかわからない命を大切にする意味などない】という歪な解釈に捻じ曲がった。
本人には、その自覚などなかったろう。まわりから見ている、第三者だけがわかった。
『よく晴れていて風景が綺麗だったからもっと遠くまで見たいと思った』という理由で屋上の柵を越えた。
『犬が轢かれそうだった』と言って、平然と車の行き交う道路に飛び出した。
『川に大切なキーホルダーを落としたって泣いてたから』と下級生を置き去りに川の中で探し続け、あわや凍死になりかけた。
そういう無茶を叱られた彼は、毎回、同じ言葉を返した。
「母さんの遺言なんです。俺、とにかく、悔いが無いように生きたくて。ひっかかりをほっといたまま、明日なんか迎えられないじゃないですか」
それが【格好のつく、仕方がなかったという言い訳のできる死に方を探している】のだと誰もが気づいた。一度、彼が妹と取っ組み合いの喧嘩をしているのを見たことがある。
彼は、今でも、罪悪感に囚われているのだ。
自分のせいで母が死んだ、という空想に。
その死因が、限りなく自殺を疑われる事故死であったことに。
体調が回復した相楽君枝は、散歩に出た先で、階段から落ちて死んだ。
その直前、看護師に対して、これから元気になるまでに、どれぐらい時間がかかるのか、その間の医療費はどうなるのか、という話を漏らしていた、という記録が残っている。
周囲が隠そうとしていたその情報を、偶然、病室の片づけをしていた彼は聞いてしまった。
その日から彼は、自分が生きていることに、その正当性に、確信を持てなくなった。
「考えたんだけどさ。俺があんなに頻繁に、お見舞いになんかいかなかったら。なんだか痩せてきたんじゃないかって心配する母さんに『確かに家では色々とあるし困ったこともあるけどそんなのへっちゃらだ』なんて言わなかったら、もしかしたら、母さんはそんなこと気にしなかったんじゃないか、って思ったんだよな」
本人はそれを、まるで益体も無い世間話のように、私に語った。
彼の行動は、まるで己を罰そうとしているかのようだ。
母を追い詰めた己への怒り。その過ちを清算する贖罪。
今や、母から聞いた生き方の矜持は、彼にとって呪いに近しく。
そして。
私は彼の中に、君枝さんから消したはずの【靄】が移っているのを見つけてしまった。
不吉なもの。
まとわりつくもの。
避けられぬ【死】を、もたらすもの。
相楽杜夫が、八年後、十七歳の七月十九日に死ぬことを予知したのも、その日だった。
私は、泣きながら起きて、起きてから泣いて、それから、自分のするべきことを。
『杜夫のことを、よろしくね』
『どうか、間違えそうになった時は、あなたが杜夫を叱ってあげて』
あの晩、君枝さんと話したことを、考えた。
○●◎●○
人は、ただ、命があるから生きているのではない。
意味を知り、目的を持ち、その為に行動するから、人になる。
氷雨芽々子は、八歳の春にそれを得た。もしかしたら早いかもしれないし、遅いのかもしれない。どちらだっていい。これは私の答えだ。私が決めた、私の望みだ。誰にも、これは正しいですかなんて、お伺いを立てはしない。
最初に決意を済ませたら、次にするのは計画で、そうして私は走り出す。遠く長い坂の上、あの日、並んで踏み出し損ねた『よーいどん』のかけ声に、今度は私が先行する。その先に行って、待っている。
その時点で私は、父に、母に、氷雨家に、心の中でさよならを言う。あなたたちは私を愛してはくれなかったけれど、あなたたちが私をこの世に産んでくれました。私はそのおかげで、自分の意味を知りました。
ありがとう。奇妙な子供で、ごめんなさい。どうか、私の知らない場所、もう互いに関われないずっと遠くで健やかに。
八年後。
相良杜夫、十七歳、七月十九日、命日。
その日に彼を生かすため、彼の【死期】に打ち克つために、氷雨芽々子は全てを賭ける。
誰かの都合なんかではなく。
自分を、自分の使いたいように。
○●◎●○




