063→【相楽君枝、“靄”】
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陽が沈み、星が出た。
消灯の時間が過ぎて、巡回も一段落ついた後、私は病室を抜け出し、日のあるうちに調べておいた部屋へ向かう。
控えめなノックに、柔らかい声が返る。
「どなた?」
扉を開け、中に入ると、その個室には一人の女性が、沢山の管に繋がれて、脇に大仰な機材が置かれているベッドに横たわっていた。
「あら、かわいらしいおじょうちゃん。どうしたの、おへや、わからなくなっちゃった? 看護師さん、呼ぼうか?」
「ちがいます。あなたに、用事があって、きました」
「え?」
「わたし、氷雨、芽々子といいます」
勇気を出して、話す。
「がらくん、――相楽杜夫くんの、トモダチです」
「あらまあ」
深夜に訪れた、どこからどう見ても怪しい来訪者を、その人は、まるでお日様が上ったような笑顔で歓迎してくれた。
「うれしいわ。ご挨拶に来てくださったの。それはそれは、どうしましょう、ごめんなさいね、ろくなおもてなしもできなくて」
ひどく痩せて、骨の浮いた手を、彼女は震えながら差し出した。
私はそれを握る。
それでわかる。
「はじめまして、芽々子さん。杜夫の母の、君枝です」
これからもあの子と仲良くしてあげてね、と語るその人には、決定的に、時間が無かった。
自らの死期を悟っている人の、命を振り絞る笑みだった。
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色々な話をした。
がらくんのお母さん、君枝さんが、彼の妹が生まれた直後に重い病気が見つかって、もうずっと入院をしていること。
小さなころの大事な時期、子供たちにかまってあげられなくて、寂しい思いをさせてしまっているのが申し訳ないこと。
「二年生になってから、杜夫はよくお見舞いにきてくれるようになってね。危なくない、って聞いたら、二年生はもうオトナだから大丈夫だなんて強がるの。最近は水泳もやってるから身体が強くなった、それを見せに来てるんだって」
確かに。
出逢ったころはよくけほけほ咳こんでいた彼が、この頃はどうにも、はつらつとしていた。いかにも、心に身体が追い付いてきた、という感じだった。
「こんなことを言ったら、怒られてしまうのだけど。ずっと不安だったの。私は、あの子の人生の、邪魔になっているんじゃないかって。私を気にさせてばかりいるせいで、周りにはうんとたくさんあるはずのしあわせを、気付けなくさせているんじゃなかって」
「そんなことは」
今は深夜で、わたしが勝手にここに来たことがばれてはいけない。
「ぜったい、ないです」
それを自覚していながら、大声を出しそうになった。
「がらくんはいつも、楽しそうに、君枝さんの話をします。話してもらったことを、ぜんぶ宝物にしています。【君枝さんがいたせいで】なんて、たったのいっこもありません」
行きの道、帰りの道。
繰り返される日常の、些細な雑談。滲み出して、かすかに触れる、彼と、彼の周りの人々の世界。
……それを私は、今までどんなに――
「【あなたがいてくれたから】。がらくんが、君枝さんに思っているのはそれだけです。いつもうらやましい、ずるい、しあわせなことを聞かされていた、わたしがおやくそくします」
――憧れて、いただろうか。
あたりまえに生まれ、あたりまえに生き、あたりまえに、人として普通に愛し愛される、その関係に。
「だから、おねがい、です。がらくんの、ためにも、そんなことを、言わないでください」
「……そう、」
細い手。
筋張った手。
何よりも、優しい手。
それが、涙を浮かべる私の頭を、そっと撫でる。
「ありがとう。あなたはとても素敵な子ね、芽々子ちゃん。ふふ、杜夫にはもったいないぐらいかも」
「――――っ、」
「あなたがいてくれるのなら、あの子も安心ね。それに――あの子が一緒なら、きっとあなたも、ずっと探している、ほんとうに欲しがっているものを、きっと、手に入れられるはず」
「……わたしが、探してる、欲しい、もの」
「芽々子ちゃん、杜夫のことよろしくね。あの子は人のためにがんばれる子だけど、それに一生懸命過ぎて、自分をあとまわしにしちゃう子だから。どうか、間違えそうになった時は、あなたが杜夫を叱ってあげて」
「――――はい。わたしが、がらくんを、叱ります」
「うん。いい顔だ、かわいいよ、めめちゃん」
おそらく、弱った身体で、長く喋り過ぎたのだろう。君枝さんは目を閉じると、「今日はぐっすり眠れそう。肩の荷が下りちゃった」と笑い、寝息を立て始めた。
伝えるべき言葉を伝え、欲しかった指針をもらった。
私の本当の目的は、ここからだ。
「……………………ふう、」
息を吐いて、眼を凝らす。
そうすると、透けて見えてきた。
君枝さんの中にある、黒く、不吉で、得体の知れない靄が。
誰に説明されずとも、私は、直感でその正体を悟っている。これこそが、彼女を苦しめているものだ。君枝さんを弱らせ、そして、私があの坂道で見た白昼夢を、現実に変える原因だ。
迂遠に言おうと事実は同じ。
ならば私は、この靄を【死】と呼ぼう。
「君枝さんは、いいひとだ。がらくんが大好きなのもあたりまえな、本当にいいお母さんだ」
静かに上下する、その胸に触れる。
意識を集中し、私は、私の内側から、それを引き出す――私の手の先から、ぼう、と光が溢れ出す。
「取ってなんか、いかせるもんか。このひとから、出ていけ」
その光――父によって【ヒーリング】と名付けられた、生き物を活性化させ、元気にする力が、君枝さんの奥深くに染みこんでいく。黒い靄が、命の光に包まれ消えていく。
その作業は、日が昇り始めるまでかかった。全身の疲れ、気だるさは物凄いが、自分の病室に戻った私は、大きな満足感に包まれている。
病室から帰る時、君枝さんの呼吸は、治癒を始める前よりずっと確かになっていた。これから体調も快方へ向かい、がらくんも喜ぶに違いない。いつもの時間が、自慢と喜びの話題で埋め尽くされてしまうかな。
悪くない。
そうしたら私も、言ってやるんだ。こっちにもひとつ、いいことがあったって。
ずっとずっと、何のためにあるのかもわからなかった、やっていてつまらないだけだったことで、はじめて、嬉しいと思えたんだって。
――助けたい人を、助けられた。
その感覚が、私を心地よい眠りに誘う。明日が楽しみだと感じる初めての気持ちが、どんな布団よりもふんわりと身を包む。
この力があってよかった。
生まれてきて、よかった。
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私が相良君枝の訃報を知ったのは、それから三日後の事だった。
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