062→【“ともだち”】
《0.55》
そうして、私だけのささやかな自覚と、決意を得た、はじめての彼との時間は、名残惜しくもあっという間に終了する。
西と東への岐路。
私たちは互いに、逆方向へ帰っていく。
「そんじゃ、またな、メメ子」
「うん。また明日、がらくん」
笑顔で手を振り、彼は普段とは違うほうの道へ歩き出す。そういえばさっき言っていた、今日は母親の面会日で、
『――――かあさん、かあさん、かあさん、かあさん! 目ぇ開けてよ、話してよ、なあ、なあ、なあッ! あ、あ、あ、うわああぁあああぁあぁあぁあぁぁあぁあっっっっ!』
目が眩んだ。
全身の骨が水母になる。一瞬の踏ん張りもきかず倒れ伏し、指のひとつも動かせない気持ち悪さが血管を走り回る。
「め、メメ子ッ!?!?!?」
驚いた声。駆け寄ってくる足音。
「おい、しっかりしろ、どうしたんだよ、メメ子っ!」
耳元で何度も呼び掛けられる。その大声でも、ああ、私の頭に張り付いたものは拭われない。
先に見た姿。
悲痛な泣き声。
もう起きない母に縋りついて泣きじゃくる、相楽杜夫の涙。
○●◎●○
病院で目を覚ますと、連絡を受けてきたのだろう、父がいた。
仕事用のハイブランドスーツに身を包んでいるその人は、笑顔で私に呼びかける。
「言うことがあるだろう、芽々子?」
「――わたしのせいで、おしごとが、できませんでした。ごめんなさい」
「うん、自覚があるのはよろしい。ただ、それ以外全部落第だ。今日の仕事は重要だと何度も念を押していたね? 残念だよ芽々子。自己管理を怠るなんて悪い子だ。悪い子にはちゃんと罰を与えないと世の中が回らない。さ、上着を脱いで背を向けなさい、いつものように」
この手の指示で二秒以上の間は許されない。
急いで裾を掴むが、同時に部屋に近付く足音が聞こえ、父の方針転換は早かった。手に持ったライターが素早く仕舞われたのにこちらも合わせ姿勢を戻し、来訪者に備える。
ノックもされず、扉が開いた。
「しつれい、しますっ!」
「背中は大丈夫かい、芽々子。こけたと聞いたからね、変なふうに痛めてないといいんだが。――おやきみ、もしや病院に連絡をしてくれた同級生かな?」
「あ、はい、お――ぼく、です。さがら、もりおです」
「モリオくん! 今回は本当にありがとう! このお礼は改めてするからさ、今日の所はすまないが、この子をゆっくりさせてあげてくれないか? ああ、あと次からは、病室を開く前にはノックをしたほうがいい。僕は平気なんだが、そういうことを気にする人は多いからね」
こう言われては、引き下がらないわけにもいかない。彼は、見舞いに来ることも多かったからだろう。こういう場の振る舞いかたを承知している。
「……わかりました。ノック、ごめんなさい。――その、メメ子? また、学校でな。明日、ちょっと遅れるぐらいなら、待ってるからよ」
「……うん。あの、きゅうきゅうしゃ、よんでくれてありがとう」
「礼なんかいんねーよ。あたりまえのことしただけだ。なんで、こんなん勝負でもなんでもないから、かってに負けたとか思うなよな」
彼は帰っていく。足音が遠ざかる。
それを見送った父は、個室に内側から鍵を掛けた。
「おかしいなあ。友達は作るなと、言わなかったっけ」
「はい。あの子は、ともだちじゃ、ありません。向こうが勝手に、そう思っているだけです」
百円ライターを掌で弄び、何回か火花を散らし、父は立ち上がる。
「まあいいや。罰ならまだしも、今は教育している時間がない。急なキャンセルの件をお詫びしにいかなくちゃな。お前は今回だけ、一晩だけ入院しなさい。体調を戻し、明日からは今日の分と、罰も含めて働いてもらう。……返事は?」
「ありがとうございます。ごめいわくを、おかけしました」
「よろしい」
個室の鍵を開け、去り際。
父はそうだ、と思いついたように、
「あの“モリオくん”、明日縁を切りなさい。芽々子の世界に、ああいうものはいらない」
有無を言わさず、そして、返事など聞くまでもないというふうに、扉が締まった。
私はベッドに倒れ込み、窓の外の、夕闇に染まりかける風景を見る。
「――――がらくん」
名を呼び、そして、噛み締める。
私が、彼と、明日関係なんてなくなるとしても。
今日、やらなければならないことがある。
○●◎●○




