061→【それはきっと、はじめての】
《0.5》
ある晩、私は奇妙な夢を見た。
真っ暗な部屋で、いくつも並べたテレビの画面を一辺に見ているような夢。
そこで私は、普段から特に仲の悪いクラスメイトの五人が、朝目覚めて登校し、他の皆がいない教室で笑いながら準備する嫌がらせの光景を、その後ろから眺めるように見ていた。
目を覚ました際には奇妙な確信があり、登校した時は、だからショックや辛さより「やっぱりだ」と思う。
そこには、夢で見た通りの光景があった。使った後のチョークを置いた位置まで同じで、私は答え合わせをするように、夢で見たテレビ番組の内容をかいつまんで発表する。
突然の奇行に周囲はあげつらう笑いに包まれたが、名指しにされた五人だけは、串刺しにされたようにひきつって、怪物を畏れるように血の気を引かせた。
というわけで、どうやら私は、今度は予知能力に目覚めたらしい。原因はやっぱり不明。もしかしたら、溜め込んでいたストレスから自分を助けるためとか?
確かなのは、その力が私の人間関係を改善するなんていうことは当然なく、この一件のせいで、周囲とより深刻に溝が開いたことだ。
あたりまえにも程がある。これまでは単に【出来が良くて鼻持ちならないヤツ】だったのが、【知らないはずのことを言い当てた得体の知れない化物】になったのだから。
朝登校して、問題を起こして、その日だけで新しい空気はクラス内に完成した。それまでとは比較にならない隔絶を、周囲の反応で肌に感じる。私は二年二組における人の姿をしているだけの怪獣で、決して触れないように、その進路にいないように、誰もが自然体のまま道を空ける。徹底的に関わりを避ける。どんな意味でも、状況でも。
見方を変えるのならば、こんなにも平穏な一日はついぞ無かった。陰口を叩かれない教室というのは氷雨芽々子にとって、アトランティスとか桃源郷、この世に実在しない夢の場所としてのカテゴリであった。
問題は、辿り着いてしまったそこが、私にはあまりにも息苦しい異界であったこと。
帰りの会で『今日も一日みんな仲良くケンカもなく過ごせました』という日直の言葉に過敏に反応してしまい、逃げるようにクラスを飛び出していた。
行く当てなどあるはずもなかった。
逃げ場など考えたこともなかった。
私の人生は、とことん誰かに決められて動くものでしかなかったから。周囲の目を窺いながら只管に課題を消化する、都合のいい登場人物。
今日も仕事が入っていて、寄り道をせず、まっすぐに帰るよう言われている。
このまま家に戻って、母に着付けられ、父に連れられ、私は、私が最も有用に使われる場所に行こう。明日からはちゃんとするから、今日は、あまり自分の事を考えないようにしよう。
今、色々なことを考えてしまったら。
私は、気づいてはいけないことに気づいてしまう。
――――なのに。
そこに来た途端、足が止まった。
向井小学校、正門。
いつも、そこにいるはずの誰か。
今日は、私が帰りの会の途中で飛び出してしまったから、まだいない、誰か。
自分がこのまま坂を下れば、どうなるだろうと考えた。
彼はいつものように、私が通りがかるのを待つだろうか。
今日はどうだった、給食のゼリーうまかったよな、とか――友達みたいな話をするために、自分の時間を使うのだろうか。こんな、人間の振りをしているだけの怪物相手に。
それは、悪い。
とても、悪いことのような気がする。
私はずっと、悪いことをしていたような気がする。
ともすれば、父さんに連れられてデタラメな占いをやり、効果の無いものを法外な値段を売りつけるよりもずっとよくないことで、やってはいけなかったことで。
ならば私は、今こそこの坂を駆け下りるべきなのではないか。今日クラスの連中とそうなったように、すっぱりと縁を切り、歪んでいた関係を是正するべき時なのでは?
そう考えると心が弾んで、清々しい気分で、私に初めてできる「善い行い」に思えて。
歓喜か、或いはそれ以外の何かで震える足を踏み出し、門を越え、帰路に踏み出した。
瞬間。
日が落ちるまで一人、この場所で、来ない誰かを待ち続ける彼の姿が頭に過ぎった。
多分。
負けというのなら、その時にこそ、私は負けたのだと思う。
それは予知か、はたまた単なる空想か。どちらにせよ、彼と会わずに帰るのが未練だと感じた時点で、氷雨芽々子は決定した。
踏み出した足を戻す。
門柱に背を預け、空を見上げた。
本当に久しく――もしかしたら、生まれて初めてかもしれない、ゆったりと流れる時間。自分で自分の使い方を決めた時間。悔しさともどかしさに笑む。
心から打ちのめされた時、帰りたいと思う場所。会いたいと感じ、たまらなくなる相手。
私にとっての彼は、いつのまにかそういうものだった。
他の誰でもない、他の誰とも無理な関係、会話、距離感、心地。
一緒にいて、楽しかった人。嬉しかった人。心地よい人、安らげる人――そばに来てくれた人、私を私にしてくれた人。
風が吹き、流れる雲を眺めながら目を閉じる。
ぼんやりとした、瞼越しの光。暖かで柔らかな、春めく三月の日差し。
その中で、訪れを感じる。それがわかるぐらい、その隣を歩いてきた。
急くような歩調。前に前にと進もうとする、元気に満ちた、彼の足音。
「うっわ、ちくしょう! 今日は先まで越されてんじゃん! おまえどんだけおれに勝ちたいんだよ、メメ子!」
「ふふ。そうだねえ、私もそろそろ、そっちで勝手に【こいつに負けた】と思われるだけじゃなくて――自分でも【こいつに勝った】と感じたいかな。ねえ、がらくん」
勿論本音で、本心だ。彼だけには、自分の言いたいことを言い、やって欲しいことを言う。
そうとも。惚れたが負け、と人の言う。
この朴念仁にいつの日か、氷雨芽々子は心の底から“勝ってやった”と思いたい。
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