059→【氷雨芽々子の事情/表】
《0.3》
クラスも一緒ではない。休み時間に会うこともない、行きと帰りの道だけの奇妙な交流。
「さてメメ子よ、どうだそっちは」
「そうね。このあいだのさんすうのテスト、100てんだった。がらくんは?」
「まじか。おれ、72てん。なんだよおまえ、やべえ、テンサイだ、テンサイがいやがった」
向井小学校は一学年に二組のこじんまりとした学校で、授業やテストの内容も同じだ。必然イベントの内容も重なるのだが、こっちにその気は無いのに、向こうはその度いちいちつっかかる。対抗意識を燃やしてくる。
よくもまあ、飽きもせず凝りもせず、意欲が維持できるものだと思う。出逢いから一年が過ぎ、二年生に進級しても、彼の熱量は変わらない。いかにも子供っぽい、ヒーローのじゆうちょうに、今回も負けだ、と本気で悔しがりながら戦績を書き残す。
「かー。おまえ、ほんとできすぎてるよなー。いっこぐらい、ジャクテンとかおしえろよー」
「おしえてもいいけど。つかう?」
「……じょ、ジョーダンにきまってんだろ! そんなんでかってもうれしくない!」
「だよね。それ、わかる」
物事には、時に、結果よりも重視される過程がある。同じ効果を上げようと、片や称賛され、片や罵倒の限りを尽くされる外道がある。
そういうズルはしたくない、“クイ”が残ると彼は言う。自分の中にある道しるべ、こうと定めた方針を、力いっぱい誇るみたいに。
「かあさんが言ってたんだ。ただしく生きてれば、さいごまで、なにがあっても、ぜったいコウカイしないんだって。なにがあっても、おれはやりきったんだってムネをはれるって」
「そうなんだ。いい、おかあさんだね」
「おう! いいかあさんだ! だいすきだ!」
笑い、これから病院に行ってくると手を振るがらくんと別れ、私はひとりぼっちの帰路で、さっきの言葉を反芻する。
【正しく生きれば、後悔はしない。その結果がどうなろうとも、胸を張れる】。
うん。そうだね、がらくん。
だから、きっと私の毎日は、こんなにも色がないんだ。
何も楽しくなんてないし、あなたに対して、負い目ばかり感じているんだ。
「ただいま帰りました」
「時間通りだね」
『おかえり』の代わりに、そんな確認が私を出迎えた。
懐中時計をしまいながら、神主さんの格好をした人が満足そうに頷く。
「清めと着替えを済ませておいで。お客さんの予約は五時だ、すぐに出ないといけないよ」
私の部屋には、大きなクローゼットがある。
自分のものなんて何一つ買ってもらえないけれど、私は、クラスの子たちが着たことはおろか触ったこともないような、高価な服を持っている。
特注で仕上げられた巫女装束。
それを着付けるのは母だが、お風呂場で水垢離を済ませてきた私と、彼女は一度も目を合わせない。人形遊びをしている子供のほうが熱心だろうと思えるぐらい冷淡に、小学校に上がる前から続けてきた作業をその日もつつがなく完了させる。
リビングの大きな姿見で、最後の確認を済ませる。
相変わらず。
そこにいるのは、自分だなんて思えない誰かだった。
「ありがとう。いってきます、お母さん」
返事は無い。こちらを一瞥もせず彼女は立ち去り、ほどなく洗面所から水音が聞こえ出す。
うちの洗面所には、他の家にはあまり置いていないだろうものがある。
お母さんは、私に巫女装束を着付けた後、決まって、お塩を擦り込むように何度も何度も手を洗う。奇妙な御経を、唱えながら。
「ところで芽々子。今日も、いい子にしていたかい?」
現場へ向かう途中の車内で、父は決まってそう尋ねる。
「はい、お父さん。今日も、芽々子は、いい子でした」
それ以外答えてはいけないから、私は笑顔でそう返す。
「そうかそうか。君は、氷雨家の自慢の娘だから、恥ずかしいことをしちゃあいけない。僕らが尊敬されるように、優秀な成績を残しなさい。不出来な連中を、栄養にしてやりなさい」
「はい、お父さん」
「いつもの感謝は?」
「私を、つくってくれて、ありがとうございます」
「よくできました。感謝の心をいつも忘れず、これからも道具でいなさい、芽々子。おまえなんかが生きられる、生きていい場所が欲しかったらね」
心の底からの本音を告げる、バックミラー越しの笑顔。深々と頭を下げるのは、そうするのが決まりであるからと、頭の中に鉛でも詰められたみたいに重いから。
南河市の中心街に向けて車は走る。
今日も私たちは、胸を張れないことをやりにいく。
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