055→【運命宿しの贄守人】
《18》
耳だけは聞こえる。
閉ざされた視界で歩かされる中、前を歩く男から、宝物を独り占めにした子供そのものの声がする。
「拙僧は善人だよ、贄守人殿」
世の救済に身命を賭しておる、と征流院浄権は言った。
「善因楽果、悪因苦果――正しき行いには相応しき福あってこそ。つまりだな、拙僧はしかーたなく得をしておる。しょうがなかろう? 世を救うという驚天動地の大事業を成さんという高僧がみずぼらしくあっては衆生とて不安がる。世を導く頂点の者、輝かしき未来の最先端を歩く者――これ即ち、自ら富を得て財を持ち、己が幸を下賜出来得るものなりや」
歯の浮く建前だ。こいつが考えているのは人の役に立つことなどではなく、その他大勢の人間の願望をどう吸い上げて利用して、自分の利益に変えるかでしかない。
「身体が強張ったな。拙僧の物言いはそんなにも不愉快かね、贄守人殿」
頭突きのひとつもかましてやりたかったが、今の俺は護送される囚人めいて、両側から行者に肩と腕を掴まれ、姿勢を拘束されつつ歩かされている。身を捩る自由もない。
「だがな、忘れてもらっては困るぞ。八年前、不逞の輩に囚われていた窮地より、岐神権現を御救い差し上げたのは、他ならぬ拙僧であることをな」
夜逃げ、当日。
目撃された北峰ナンバーの車。
事態を手引きしていた、第三者の存在。
「まるで今朝のことのようにありありと思い出せる。あの頃、まるでつまらん満たされん、何の旨味も無い本山での修行より逃――いやいや、真なる救世の在り方を探し下界を放浪しておった拙僧が、流れ着いた南河の夜で、岐神権現を見つけたの感動と憤怒はな」
感動は分かる。だが、憤怒?
「貴君とて知っていよう。何の間違いかはたまた試練か、俗人の腹より生まれ出でてしまった岐神権現が、幼少のみぎり、どういう苦界にあったのか」
……思い出す、あいつの姿。
服の下、背に、腹に、隠されていた青い痣。
行きすぎた“しつけ”の後、『なんでもないよ』と笑った顔。
父に強いられた、詐欺の片棒。
「御可哀想に岐神権現。拙僧はすぐにもあの方を解放せねばと義憤、使命、善意に燃えた。そうとも、あのような無駄はない。本物の神力は、もっと深く広く巧妙に使えるというのに――氷雨槙吾という痴れ者は、己が名声を浴びたいがため、自分の力のように見せかけることばかりに夢中になり、岐神権現の神力を著しく制限していた。……故に」
天罰覿面、と錫杖の音が鳴り響いた。
「虚栄虚妄、白日の元に暴いてくれた。岐神権現を引き剥がし、奴が一人になった状態で、普段通りのことをやってみせろという試練を与えてやった。うつけめが、お得意の口八丁で時間稼ぎでもすればよかろうものを、余程焦っておったか、岐神権現が自分の種より出でたことに頭に乗ったか。ありもせん神力をひねり出そうとしてどつぼに嵌まり、自滅しよったわ」
その光景を思い出したらしい。含み笑いはやがて、抑えきれず口内から飛び散る。
「呵々々々々々々ッ! あれぞ傑作と呼ぶべき道化! 最初からその芸で銭を稼いでおればよかったろうに、身の丈に合わん欲をかくから地獄に落ちる! 因果応報、此処に在りッ!」
――へえ。
その馬鹿笑いってつまり、あいつの周囲を追い込んで、かどわかした黒幕は私ですっていう自白と捉えてよろしいか?
「おお、怖い怖い。なんという気配を漏らすか、この子鬼は。さすが死の神を飼う贄守人よ、穏便でないなその怒気も」
侮辱、挑発でしかない声。浄権は俺のことを、何の脅威だとも思わない。
「思い違いをなされるな。貴君の思ったような強制などどこにもない。逆だ。拙僧が手を下したことで、あらゆる状況は好転した。何しろ、岐神権現がそう仰られたのだからな」
嗜虐を伴う開示。教祖は自らの善を確信して笑う。
「待っていた、と迎えられたよ。はは、実に素晴らしい御力だ。岐神権現はその夜、その時、拙僧が御身に接触するのを知っていた。組み立てていた計画の事ことすらも」
他者を見下す高慢な男の、本物の崇敬が滲んで垂れる。
「北峰の地の伝承を足掛かりとする降臨と救世。教えの拡大、信仰浸透。岐神権現はな、拙僧に、ただ拙僧のみにこそ、協力せよと仰ったのだ。南河を遠く離れるわけにはいかぬ、八年後に訪れる、贄守人による完成を待つためにとな」
事をあくまで穏便に、その取引は、一度寝かせてから持ち掛けられた。
偽霊能者の詐欺発覚から一週間、征流院浄権が流布した情報で、氷雨家は凄惨な有様に追い詰められた。このままでは法の柵など越えて暴徒が押し寄せ殺される、というまでになった。そちらの扇動にも浄権が一役買っていたことなど言うまでもない。
「実に簡単だった。拙僧が持ち掛けた商談、【娘を養子として預ける代わり、そちらの雲隠れの面倒を見る】という提案に、大喜びで飛び乗りおった。肉親の情など皆無、早くそいつを連れていけとぬかしおった。おかしな子が生まれたせいで、自分たちは惑わされ人生を踏み外さされた、こちらは被害者なのだと訴えて」
逃がし屋を雇い他の地方まで逃がしたが、それから先の消息は知りもしないと浄権は言う。
岐神権現より尋ねられたこともない、らしい。
「誰も閉じ込められてはいない。捕らわれてなぞおるものか。岐神権現は自ら望まれ当山におわし、衆人の欲を必要以上に刺激せぬよう、座敷の牢に己の未熟を封じたのだ」
梯子に着いた。
横からせっつかれ、それを昇っていくように促される。
「だが、それも今日までよ」
先を行く男の声は、成人の誕生日を迎えるような感慨が溢れている。
「産土を離れた岐神権現は、一時的に託宣以外の神力を失ってしまわれた。拙僧があの夜確かに見た、目も眩む奇跡も。その全てが、本日ついに、贄の儀によって取り戻される。岐神権現と拙僧の、水天岐神楽果堂は、いよいよ、ここから――真の始まりを迎えるのだ」
二回梯子を上り終え、数歩歩いたところで、唐突に肩と腕の拘束が外された。
その代わり、首の両側に添えられる、薄く冷たい金属の感触。
「長らく、お待たせ致しました」
逃げ出せない、首も動かせない状態にされた後で、目隠しと、猿轡も、取り払われる。
「御所望あそばされておりました、贄守人を、此処に」
目に飛び込んでくる明かりに痛みを覚えながら、それでも、無理矢理見開いた。
そこにいる。
俺の人生で、見たこともない豪華な和服を着て。
俺の人生で、見たこともない意匠の小刀を膝に。
何故だろう。
最期に別れた、九歳の頃と同じ姿の、見たことのある相手が、格子を隔てて座っていた。
「どうぞ、お好きに召し上がりくださいませ、岐神権現」
言葉と、地下の電灯を受けた少女が、妖しく、そして、神秘的に――顔を上げ、こちらを見つめて、微笑んだ。
瞬間。
相楽杜夫の口が、勝手に動いた。
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