053→【少年の眼から見た少女】
《17》
長い長い暗闇の通路。心が潰されそうな、形の無い圧迫感。
「なあ、相楽くん」
それから自分を守る為、俺たちは声を潜めて話をする。
「岐神権現――氷雨芽々子は、一体、どういう少女だったんだ? ……って、な、何だいその顔は」
うーむ。
ごく軽い調子で、何気なく、とても難しいことを聞かれてしまった。
氷雨芽々子、芽々子、めめ子。
小学一年から、三年生の夏休み前まで、一緒だった女の子。
そうだなあ。もし、一言で言うのなら、
「最っ高にいけすかない“出来過ぎちゃん”。強くて格好良くて頼もしくていい奴で――だから俺は、あいつのことだけは、絶対に味方にだけはしたくねえって思ってましたね」
「…………うん?」
あれどこかで何か文脈を取り違えたかな、という顔で首を傾げられる。
いえ、残念ながら合ってます。
俺とあいつの関係ってのは、そういう、ハタから見るとわけわかんねーもんだったんで。
●○◎○●
氷雨芽々子は何でも出来た。何でも持っているように思えた。
が、それは、残念ながら、能力だけの話だ。
どれほど自分の内側に多くの才能や実力を持とうと、あいつは自分の外側にまったく居場所を作らなかった。
見えない壁が常にある。人付き合いもこなしはするが、決して深く踏み込まない。
子供同士のコミュニティで、それは残酷に顕著だった。人は、決定的に他者を必要としない、こちらに見向きもしていない相手と、心から手を繋ぐことなどできない。
人は、それがどれだけ優れたいいモノだろうと、決定的に他者を必要としない、こちらに見向きもしていない上辺だけの相手と、心から手を繋ぐことなど出来ない。
氷雨芽々子には能力があった。
もっと正しく言うのならば、能力しかなかった。
図抜けた成績を残しながら、それを誇ることも偉ぶることも喜ぶこともしない。そんな相手が近くにいたらどうなるか。
そのことについて熱意を燃やす、自分たちの願いまで踏み躙られた気分になる。
本気で目指していた一位を実力差で奪われ、しかしその座についた当の本人が、冷めた目で賞状を二度と出しもしない押入れの奥にしまい込んだ時、二位の子供はどう受け止めればいい。
芽々子は優秀で、小学校という場が求める成果で何もかも及第点を越えていて、他人の手が必要になるような躓きなんて一度たりとも経験しないで。
だから切り離された。
だから輪の中にいられなかった。
氷雨芽々子は、一人でなんでも出来るから、独りになった。
そんな彼女は、小学二年生の三学期、いじめのようなものに合いかけたことがある。
【ようなもの】【かけた】……言い方を濁すのは、問題を隠蔽しようとしているからじゃない。
事態には、問題の芽が出始めた一日目、氷雨芽々子を追い詰めようとしたグループが初撃を加えた瞬間に、けりがついてしまったからだ。
朝の教室。彼女が登校すると、黒板一面に、落書きがあった。それは氷雨芽々子を激しく痛罵し、名誉を毀損し、尊厳を否定する、剥き出しの攻撃だった。
机も無事ではない。本人の持ち物を使い、習字の墨や図工の絵の具がぶちまけられ、それは椅子も机の中まで著しく汚していた。
子供の、幼いが故の、一切手心も遠慮も無い、悪意、敵意、抗議活動。
【おまえは邪魔で、いらないから、苦しめ】という自由奔放な意思表示。
果たして。
氷雨芽々子は、それに対し、らしからぬ手を打った。
らしからぬ、というのは、子供らしからぬという意味であり、逆に、ともすればひどく彼女らしい、そういう反応だった。
くすくすと嘲る忍び笑い、『ひっどい。だれがこんなことしたのかな』なんてわざとらしく尋ねる声、『なによごしてんだよきったねーな、せんせー来るまえに片付けろよ』と濡れた雑巾を背中に投げる男子、
それに対し、このように言ったらしい。
『浅田修二。朝七時に登校。普段より早い出発に、友達と待ち合わせだと嘘をつく。木伏文。偶然その場を見つけて、面白がって仲間入り。絵の具を机に塗りたくるアイディアを出した。小泉玄太。黒板左を担当。高月省吾。黒板右を担当。美里笹江。今回の計画を首謀。クラスの空気をよくするため、みんなが本当にしたがっていることを代わりにやろうと提案した』
なんか言い始めた、とクラス中が笑い、名指しにされた五人だけが凍り付いた。
その反応、状況の異常性は、次第に周囲に伝わった。笑い声は薄れて消えて、後には、気味の悪い、真夜中のような静寂が残る。
矢印の向きが変わる。責められる弱者だったはずの少女が、飲み込む側に回っている。
『今回だけは許す。けど、もうやめて。次は、私も、反撃をする』
氷雨芽々子に悪意を向けた犯人が誰だったのか。
それらは、何もかもうやむやになった。
事実は二つ、先生が来るまでに全ての痕跡は始末され、学校側はこの事態を把握出来ず、当時二年一組だった子供たちの間でだけ伝わる事実となったこと。後始末を、頼まれもせず率先して行ったのは、例の五人であったこと。
こうして。
氷雨芽々子は、クラスの一員としていじめられすらしなかった。
この一件から、彼女はもう、そういう形で攻撃され、関わられる存在でさえなくなった。
自分たちと同じ場にいながら、自分たちと決定的に断絶したもの。
名を呼んでも顔を見てもいけない、いないものとして扱うしかない異物。
無難にやり過ごし、横を通り過ぎていくのを待つしかない怪物。
それが、氷雨芽々子。
小学三年生で、初めて同じクラスになった、俺の宿敵。
『ようやくこの日が来たな。おまえと俺が、直接対決できる日が』
隣の席になったあいつにそう言うと、奴はあきれ顔で『もう負けてるくせに』と言った。
その時。
周りが俺たちを、特にあいつをどう見ていたのかなんてのは、どうだっていいことだ。
二年の三学期の“いじめ未遂”は、噂として知られていた。俺も、一応、その事件の後から知った。
それがどうした、
俺たちには、そんなの、関係ないことだ。
その事件があった日、帰り道の正門、なぜだかあいつはまるで俺が通りかかるのを待っていたみたいに、うまいタイミングで鉢合わせていた。あいつは、まるでそんなことなかったかのように普段通り振る舞い、いつもと変わらない悪態を吐いた。
あの日、そういう態度を選んだメメ子の思いこそが、俺の動機だ。
あいつは、俺との間だけは変わらないものであって欲しいと、きっと願った。それが願いだったと、俺が勝手に受け取った。
だったら、やることなんて決まっている。
あいつは一度だって、俺に【助けて】なんて言ってこなかった。だから、答えは簡単だ。
どんな事情があったとしても、同情なんかしてやらない。
そんなふうに、下には見ない。
俺はあいつの仲間じゃないし、絶対味方なんかじゃない。
けれど。本当に嫌っている相手を、弱っている相手を、ライバルには出来ない。
あいつの敵であるために――敵であり続けるために。
異物や怪物としてはじき出さず、いけすかない奴として同じ世界にいるために。
この世の他の誰もが目の色を変えても、相楽杜夫はずっと、ありったけの敵愾心と対抗心をたっぷりに――氷雨芽々子のそのツラを、睨み続けていてやろうと思ったのだ。
……【目を離せない】。【ずっと傍に居よう】。
どうしようしようもなく捨て難い、自分のそういう感覚が。本当はなんて名前なのかなんて、気付きもしないで。
●○◎○●
「俺があいつにつっかかって、大体はこてんぱんに返り討ちにあう――そういう関係は、三年生の一学期の間、引っ切り無しに続いたよ。終業式の日にタイムカプセル埋めて、夏休みがあって――英気も十分養った、第二ラウンド開幕だ、ってとこでマヌケな俺は、もう二度とゴングが鳴らないことをようやく知った。勝ち逃げされちまったんだな、メメ子の奴に」
語るも恥ずかし昔の話。顔から火が出る照れ臭さ。
未だ冷め遣らぬ――死ぬ前に果たさなきゃならない、一番の未練。
そうか、と一連の説明を聞き終えた白城が頷く。
「要するに、その頃からもう岐神権現、氷雨芽々子には、そうした才があったんだね。しかし、分類としては何に当たる? 観測された事象から推測するなら、過去を視た――待てよ。北峰に来てからの活動から、彼女が持つのが一種の未来視、卜占・予言に類するものと仮定すれば、もしや彼女はそのことを、起こる前から知っていた……?」
思考が妙なところに入ったらしい。考え込むのは学者見習いのクセなのか、ブツブツと呟く白城。
しかし、本当にそうなら大したものである。何しろメメ子は、自分を嘲笑するいじめの現場が作られていることを、あらかじめ把握しながら登校したことになる。肝が据わっているというか、恐ろしい女というか。俺としちゃあ“それでこそ”って感じだけどね。
「今一度確認するが。相楽くん、君、彼女に惚れこんでいたんだよな?」
うわ。真顔で聞いてきますか、そういうこと。
くそうなんだこれ、誤魔化せる場面でも無し、言うしかないのか。この、隣でニヤニヤ顔を覗き込んできやがってる神様のことはこの際気にしないようにして。
「そりゃもう。本当、いなくなった後に自覚するなんてそれこそ大馬鹿極まれりってなモンだけど。俺は確かに、あいつに対して、は、……初恋、したよ」
「それは、相手が急に引っ越した程度のことで、忘れられることか?」
……………………ああ。まあ、そうだよな、普通。
「そこなんだが。多分あの野郎、別れ際に仕込みなんぞしていきやがった」
「仕込み……?」
「『次に会うまで、自分を忘れろ』。そういう呪いをかけられてた。救いは、何かのきっかけで強く思い出しさえすればいいって条件のヌルさだな。タイムカプセルの中身にガツンと頭を打たれたおかげで、どうやら鍵がイカれたらしい。それまで自分の中にあったはずなのに意識できなかったもんが、それをきっかけに蛇口が壊れた水道みたいに」
「待て、待て待て待て待て待て!」
白城が激しいリアクションを見せる。
「忘却の呪詛? なんだそれ、岐神権現、氷雨芽々子の持つ能力は、予言じゃないのか?」
「予言もできたんだろ?」
こっちはあっさりと言い、向こうは唖然とする。
「ウチの妹、あんたもご執心だったみんなの真尋ちゃんの言うところにゃ、奴がオヤジにさせられてた霊感商法、そこで見せてた“手品”ってのは、そりゃあもう多岐に渡ったらしい。相当の荒稼ぎで、顧客もどんどん拡大してて、ヘマさえしなきゃあそれこそもっと」
「その通り」
突如。
第三者の声が、通路に反響した。




