052→【岐神の御山へ】
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語りが止まって、蝉の声も数秒止んだ。
白城哉彦と相良杜夫が、七月十九日の北峰、土と草の匂いのする境内裏に帰ってくる。
「頼みがある」
飲み干された水のペットボトルを、白城が一気に握り潰す。
「一枚噛ませろ、相楽杜夫。おまえの目的が、どういう意図でかは知らないが、あの岐神権現に会うことならば。俺がその、道案内ぐらいはしてやってもいい。具体的には……例の、信者も知らない地下道を教えてやったりな」
「……白城」
「俺の理由は、反撃だ。水天岐神の連中の喉笛を噛み千切る、それさえ出来れば後はいい。その為になら何だってしてきたし、何だってしてやるよ」
事情を知り、状況が変わった。
相楽杜夫がこれから、今日一日で再会を果たすには、通常の方法では追い付かない。
足跡を辿る人探し程度であったなら、不可能ではなかったろう。しかし、宗教団体の私有地に侵入し、山道を警備の目を掻い潜りながら踏破、本殿の先の隠された奥の院にまで辿り着くというのは、どう考えても無理事だ。
現在時刻、午後三時。
今から正面切って行動に移ったところで、途中で制限時間が来る。
――外部の人間が本来知るはずもない、秘密の裏道でも利用しない限り。
「乗れよ。俺への復讐も一旦忘れろ。どうせ、白城哉彦は今日で終わりだ。こっちはせいぜいその前に、精々派手に、いけすかなかった連中と刺し違えて娑婆に後悔残さないで」
「あのなあ」
確執も、疑念も、嫌悪も、困惑も、飲むことにした。
ただし。
これだけは、捨て置けない。
「おまえよ。勘違いしてんじゃねえか、白城」
「……何?」
「別にさ。これが終わりじゃないだろう」
とても簡単なことで、実に明白なこと。まるでそれがわかっていないような口調に、実は、さっきからイライラしていた。
「今日中に、水天岐神楽果堂の秘密を暴いて。そんで、おまえも南河のほうで散々目論んでいたツケを払わされることになって。――で?」
「何が言いたい?」
「その先を考えろっつーことだろ、馬鹿」
ああもう、なんだその顔。
テメエ、ホントにわかってねえのかよ。
「バレて、捕まって、失って、積み上げたもんガラガラ崩れて。それであんた、命まで取られるつもりでいんの? ンなわけねえじゃん、日本だぜココ」
まったく。どうしてこんなこと、よりによって俺が、おまえに言わなきゃならないんだ。
「生きてるんならまた会える。償ってやり直せ。許される時が来るか来ないかは俺が口出しすることでも決めることでもないけど……黒森さんは、白城哉彦を待ってるだろ」
その名前を聞いた白城が揺れる。踏み越えた境界から、半歩分戻る。
「【今日が命日】って決まってもいない限り、うんざりしても悩んでも、辛かろうが苦しかろうが“明日”はあるんだ。考えたら気まずいからって、楽しようとしてんじゃねえよ二十四歳。――いいか。あんたの要求を受ける、こっちの条件はひとつっきりだ」
警察を誤魔化し、大学院を抜け出す時。正門前まで靴も履かずに追ってきた彼女のことを、その言葉を、思い出す。
『私には、今回のこと、今でもよくわかっていません。でも、心当たりだけは、あるんです。追い詰めてしまっていた、自覚だけは』
『もしも、あの子に会ったなら、伝えてください』
『――セーヤ。あなたが何かをしたことが、私の為だというのなら。私は絶対、あなたのことを叱ります。そして、その後に、ごめんねと、ありがとうも、言わせてほしい』
『あなたの苦しみに、気付かなくてごめん。あなたの優しさは、生まれて一番嬉しい』
『けれどやっぱり、私は怒る。すごく怒る』
『馬鹿にしないで。私は、自分の研究がいくら大切だからって、その引き換えに、大好きな哉彦を差し出す気なんか、絶対に無いんだから』
『……いけない。長くなっちゃった。あの子のことになると、やっぱりだめだな、私』
『どうか。哉彦のことを、よろしくお願いいたします、相良さん』
「今回のことが終わったら、黒森さんに、きっちりばっちり叱られろ。んで、色んなことをちゃんと謝れ。あんたの一方的な、守りたいとかどうにかしなきゃだけじゃなく、【それでもし何かあったら】って考える、向こうの立場にもなれっつうんだよ、この思い込み大馬鹿野郎」
白城の身体から、力が抜けたのがわかる。擦れた笑いを漏らしながら、同時に、毒気のようなものが白城哉彦から抜け出ていく気配が、仕草でわかる。
それは奴の、凝り固まり濁った諦観で、自身の岐路を自身で閉ざしていた思い込み。
「勘違いするなよ。おまえなんかの為じゃない。全部、黒森さんの為だ。愛情で叱ってくれる年上を、それがどれだけ有難いことかも気付かない阿呆には無性に腹が立つんだよ、相楽杜夫って人間は」
「……えげつないね、相楽くん。そういう物言いが、今の俺には一番効く」
「あと、俺からも一発殴らせろ。うちの妹にコナかけようとしてた件で。……ちなみにだが、あいつのどこが気に入った? 本人、モテなくてモテなくて毎晩震えてんだけど」
「全然妹っぽくないところ。【妹】にし甲斐があるだろ?」
「あっちくしょうこいつわかってやがる……!」
そんな、軽口を叩く束の間。
多分、こういう時間はここで終わる。
かつて敵対していた――今も完全に和解したとは言い難いが、それでも、これから目的と行動を共にする相手と、せめて話しやすい空気ぐらいは作っておいたほうがいい。
結局、十分ほど雑談をするうちにわかったのは、白城哉彦が、普通の若者であるということ。前回、あのロクマンであったひとでなしの状態は、熱に浮かされたような、魔が差したような、一時のものであったこと。気のいい大学院生である彼は、確かに存在するのだということ
――つまり。
そういうものにならなければあの敵とは戦えないと、白城哉彦は考えていた。
これから俺が向かうのは、そういう相手の腹中だ。
「準備はいいか、相楽くん」
おう、と返事をして鞄の重みを背負い直す。何があるかわからないから備えはしておこう、と詰め込んだザックが、ここまでおあつらえ向きに役立つとは思っていなかった。
待ち合わせだった神社の敷地内、林の奥にある洞窟の、突き当りにある仏像の裏に回る。外からは陰になって見えない、内に入ってさえその場所に立ってようやく気付く、巧妙に隠された入り口がある。
中に入り、懐中電灯を点ければ、想像よりいくらか広い、ギリギリで横に三人は並べるか、という程度の通路が照らされた。
示された時間は、徒歩二時間弱。運命が俺のケツに食らいついてくる直前には、ギリギリ辿り着けるだろう。
「そんじゃ行きますか。囚われのお姫様が待つ、悪党の巣窟へ」
果たして、鬼が出るか、蛇が出るか。
一介の大学生だった白城哉彦が、鬼か蛇にならないと退治できないと考えた相手を――岐神権現、即ち、氷雨芽々子を。
俺は、憑き物が落ちた彼のように、神様から人間へ引き戻すことができるだろうか。
「まあ、やるしかないんだけどね」
本当に最後の命日を、そう過ごすためにここまで来た。
やるべきことをやるだけだ。
悔いのない、俺以外の明日に繋がる、最善のために。
「よくぞ言ったものよな」
白城とは逆の側、もちろんずっとぴったりくっついてきている神様が、さっきからの沈黙を破り急に喋ったので、暗い通路の状況も相まって飛び跳ねるほど驚きかける。
「なんだ、どうかしたか相楽くん!? 怪しいものでもあったか!?」
「い、いや、べ、別に!?」
誤魔化してそちらを見ると、なんだろう。神様は今まであまり見たことの無い、どんな時もいつも達観していたふうな彼女に珍しい、北風の肌寒さを憂うような表情で。
「説法、見事であった。だがな、それを気づかせねばならん馬鹿はもう一人おるぞ、モリオ」
白城がいる手前、尋ね返すわけにもいかない。
それきり神様は黙りこくり、なんとなく宙ぶらりんな居辛さを拭い去ることも出来ず、疑問から逃れるように歩を進めていく。
螺旋を描く暗闇の坂道を、奥へ、奥へ、奥へ。
【間違いを気付かせるべき馬鹿】。
歩きながら考えてみたものの、結局、思い当たる節は無かった。
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