051→【岐神権現奇譚/末】
一瞬で恐怖が湧いた。
振り向いてはいけない気がした。
だって、知るはずがないんだ。
俺は断じて名乗っていないし、その時は菜畑佐一郎という男に成りすましていたし、どう考えても、この、座敷牢に幽閉された少女から、その名前が出るはずはなかったし、あってはいけないことだった。
瞬間脳裏に過ぎったのが、そもそも、全てがバレていた可能性。俺の侵入も狼藉も、本当は水天岐神の連中は何もかも知っていて、その上で脚本を書いた。まんまと俺を神秘体験に放り込むことで、頑なに抵抗を続ける黒森ゼミを関係者から篭絡していこうと企てた。
しかし、違った。
それならば、そのほうがまだ、マシだったんだ。
『上には程なく信者たちが帰る。今戻れば鉢合わせになり、おまえは祭事のどさくさに紛れ、この閉ざされた山で“行方不明”になる。それではあの、ひたむきな学者がまた泣くだろう』
冷や汗をかいたよ。
何しろ、相手の意図が何もかも掴めない。何がどこまでどう見えているのかもわからない。その瞬間、白城哉彦の目の前にいるのは、カルト集団の被害者ではなく、得体の知れない怪物だった。
『左を見よ』
見た。
そこにあるのは、突き当り。行き止まりの壁だった。
『そこを踏め』
踏んだ。
そうしたら、妙な感触があった。
他と何も変わらない、剥き出しの土の地面――じゃあなかった。
そこにはまた、更に下に続く、梯子が隠されていた。
『その下は、物資搬入用の通路に繋がっている。そこを下り、進んでいけば、麓に出る。ここで見たモノは忘れよ。急ぎ、夜が明けぬうちに不自然の繕いにかかれ。菜畑佐一郎、あの酒飲みにあと二杯、葡萄酒ではなく焼酎を飲ませろ。それで記憶が曖昧となる。今日、おまえと役割を交換したことも忘れる。あとは白を切り通せば、おまえの無謀もなかったことになる』
俺は、何は無くともそれを実行すればよかったのだろう。
なのに、踏み止まった。これで帰ることに、抵抗を覚えてしまった。
岐神権現は、そう名乗った少女は、やるべきことをやらない馬鹿の目を見た。
それから、ふ、と笑った。
『なあ。お前は、もし、今日が死ぬ日であったとしたら、何をしたい?』
どう答えるべきなのか。何を求めているのか、人の言葉を喋りながら人とは思えないそいつに対し、俺はあらゆる判断を行うことが出来ず、言い淀んだ。
しかし、そいつは特に俺の言葉など待ちはせず、続けて言った。
『昔、そう尋ねられたことがある。そもそも、生まれてから一度も、自分でやりたかったことなんてない、だから、いつ死んでも構わない――そう答えたら、心底本気で怒られたよ』
俺は再び、見方を変えた。
ここにいるのが、人間だという――過去のある、あたりまえの少女であるということに、今度こそ、確信を持った。
『彼は。彼こそ――毎日死に続けているみたいな人間だったくせに。命のことなんて、誰より、大切にしてなかったくせに』
一目散に逃げておくべきだったろう。
けれど俺は、どうしても気になったし、この運命の神様を、かろうじて人間に留めている奴のことが、知りたくて仕方がなかった。
『白城。お前はこの先、大切なものを大切にするほど、間違える。その先で罰に逢う。それはお前の人生に、まったく関わりのなかったもので、まったく予期していなかった方向から、まったくの道理として相対する。因果は巡り応報する、悪因熟れて苦果落つる――その時のお前に相応しい相手として、彼こそがお前に立ち塞がる』
どれだけ抗おうと無意味だと、そいつは言った。
何故ならば、それが、宿命なのだと。
『彼はその日、自らの避け得ぬ死の中にある。定められた結末の中で、選び得る最良を、手に入り得る最善を成そうと、幾度となく繰り返し繰り返し、繰り返しの死の中でもがいている。故におまえは敗北する。何度お前の目論見が成就しようとも、その次で改善してくる相手に対し、勝てる道理がある筈も無し』
実態が掴めない。正直、言っている意味が掴めない。
そいつの発言は常に人間と神様の間を往復し、俺の焦点を曖昧にした。
『おまえが敗れる日。それがまた、彼の命日だ。命を燃やし倒すべき、全力で心血を注ぐ最期の敵となれたこと、せめて光栄に思うがよい。何故かと言えばな、味方にしている時より、敵に回した時のほうが――本当に面白い相手だったよ、“がらくん”は』
それを最後に、そこから離れた。
これ以上話を聞くと、人の世界に戻れなくなりそうだったから。
――果たして。
岐神権現の言ったことに、嘘はなかった。
梯子を下りた先には通路があり、それを何時間か歩いた先は、山の麓、水天岐神楽果堂が流行ったせいで、誰も寄り付こうともしなくなった寂れた社に繋がっていた。
俺はそれから、言いつけられた通りに行動し、追求を免れた。
……何もかも、なかったことになったと思うか?
違うさ。
白城哉彦には、拭いがたい無力感だけが残された。
だってそうだろう。
水天岐神楽果堂が、何のペテンでも方便でもなく、本当に【託宣の神様】を抱えていると来たら――そんな魅力に、どうやって抗えばいい?
信者の拡大は止まらない。
黒森香苗は追い詰められる。
だから俺は、Setsunaと金業を創った。
【組織】の弱点を研究するサンプルであると同時に、連中に極めて即物的に対抗するための、相打ちにして使い捨てる手駒を用意した。
どうにかなると思っていた。
手段を選んでいる余裕なんてなかった。
そしたら、今日が“その日”だった。
よくやった。
よくもやってくれた。
俺との勝負は、おまえの勝ちだよ、相楽杜夫。
組織はどちらも潰された。俺もめでたく、形振りを構わなかったツケを払わされる。それだけじゃない、身内に犯罪者がいたって事実が、黒森ゼミに決定的な打撃を与える。
はは。まったく、お笑いだ。最後の最後で、俺はお姉ちゃんに、かけられてきた迷惑を纏めたより、ずっとデカくて返しきれない喪失をさせちまう。
何をしたかったんだろうな。
何もできなかったな。
――ああ、そうか。
もしかしたら、今日、七月十九日は――俺の戦いの終わりの日で、俺の志の命日なんだな」
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