050→【岐神権現奇譚/序】
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白城哉彦は話し始める。
自らが遭遇した、その、身に余る奇譚を。
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「隠すつもりもないしわかっていると思うが俺の言葉として口に出そう。
白城哉彦は、水天岐神楽果堂が嫌いだ。
俺の、俺が、大事と感じていたものを、踏み躙った奴らが、憎い。
笑えるよ。正しいと信じている主義が、相手を攻撃していい理由になる。ついこの間まで同じグループにいたはずなのに、より多くの側に移ったほうが、まだそこにいる奴を『乗り遅れだ』とブッ叩く。正義感と優越感をたっぷりに、殴る拳の痛みだって忘れるんだ。
黒森准教授は、一度、余所で民俗学を専攻してから、北峰に戻ってきた。曰く、【本当に好きなものをsしっかり調べるには、経験値を積んでこなきゃいけなかったからね』だと。
今も、一度北峰を出た時も、あいつが白城家の隣に住んでいる【変わったお姉ちゃん】だった頃から、黒森香苗は岐神信仰に惚れこんでた。『私は一生を北峰とこの研究に捧げるのだ』なんて、きらきらした目で言っちゃってさ。
うん。
そういう、あいつにとって何より大切な研究が、潰されかけてる。
水天岐神楽果堂――征流院浄権にとっては、岐神信仰の神秘を理と実で分類しようとする研究者なんて、邪魔者でしかない。
北峰では四割。だが、外部のお偉い相手の商売も含めれば、奴らの勢力は、更に深く、広く、えげつない。大学院の運営に干渉し、特定の学部に圧力をかけられるくらいにな。
まず予算が削られた。次に人員が削られ、立場が削られ、学会での風当たりが強くなり、妙な風評が出回ったり、あらゆる方向から黒森香苗の岐神研究を妨害する波が押し寄せた。
それまで協力的だった村の住人が口を閉ざし、言いがかりとしか思えない『一度北峰を離れた際余所の土地からよくないものを連れてきているかもしれない』なんて理由で祭事の参加はおろか麓での集まりの見学すら拒まれ、民俗学を行うには必要不可欠な、自分の目と足と耳で情報を得ることすらも禁じられた。
余所の土地の大学院、自分が院生だったころに大きな恩を受けた教授から『黒森の窮状は聞いた、事態が落ち着くまで一旦そこを離れ、自分の研究を手伝いに来てほしい』なんて誘いもあったが、あいつはそれを丁重に断った。
『どれだけ速度が遅くなっても、自分が調べたいのは北峰の岐神信仰で、四百年の歴史と組み合うのに、泣いている暇も諦めている暇もありません』――意地っ張りなところ、いくつになっても、昔からまるで変わらないんだ、あの人は。
馬鹿なやつ。
その教授だって、裏から連中の手が回ってたことを、今も知らないんだ。
ムチの次にアメがぶら下げられてただけだって、気付かず感謝なんかしやがって。
それが五年前で、それを知ったのがきっかけだった。
そっちがそういうことをするのなら。自分たちの盛り上がりのために、邪魔な健気を踏み潰すつもりなら。
こちらも遠慮をするのはやめにしよう、と思ったんだよ。
当時、院に入る前の俺は、祭事の日、若い衆の一人を懐柔した。その頃にはもう、殆どが水天岐神の連中で埋まっていた奉岐神楽男衆の枠にそいつのフリで潜り込み、山頂の石仏近くに建てられた、本殿に忍び込んだ。
目的は一つ。
水天岐神楽果堂、征流院浄権の嘘を暴くこと。
幸福の預言なんてものはありもしないと曝し上げるために、立ち入り禁止の縄を乗り越えた。その結果、信仰に依存し、それによりかかって生きている連中がどうなるか、俺の知ったこっちゃあない。
最初に手を上げてきたのは、黒森香苗を泣かせたのはおまえらだ。仲良しこよしで積み上げた無自覚の罪、纏めて償え、共同正犯。
――少し、動揺した。話を戻そう。
大切な祭りの日だけあって、本殿は外も中もがらんどうだった。土地の所有者も取り込むことで、既に水汲山一帯は水天岐神の所有物になっており、警戒も薄かったんだろう。
神聖侵すべからずと伝えられる奥の院に、俺は土足で踏み込んだ。
調べた通り、普段教祖が陣取る祭壇の床下には梯子があり、地下に続いている。
おかしいだろ。水天岐神楽果堂の奥の院は、そういう、暗い場所にあったんだ。隠しかたが度を過ぎている、絶対に何かある、とその構造を知った時から確信していた。
梯子を下り、地下へ降りた。今でも思い出せる、土をくりぬかれたトンネルの、一片の光も差さない完全な暗闇、静寂が果てまで行き着いた耳鳴、吸い込んだ空気の、異界の味。
神様なんて信じちゃあいなかった。でも、その時はじめてちらと思った。
こういうところでなら。
外の常識、人が作った文明と完全に切り離された空間でならば、もしかしたら、そういうものも生存できるのではないだろうか、と。
――――そして。
その奥に、いたんだ。
懐中電灯を持って歩いた奥、角を四回、四角を描くように右折した最深部。
水天岐神楽果堂、秘中の秘、地下奥の院。
そこは、ありったけにきらびやかな、贅と手間の限りを尽くされた、しかしどうあがいても見紛いようのない座敷牢で。
そいつは、まるで俺が来るのをわかっていたかのように、出迎えた。
少女だった。
和服を着た、座敷童みたいな女だった。
俺は実際、混乱していた。教祖の言うことなんて、何から何まで少しも信じちゃいなかったから。
【ここにすごいものがありますよ】と思わせぶりに喧伝しているからっぽのつづらの中を、本当は何も入っていないと暴いて証拠に収める為に来ただけだったから。
だから自然と、こいつはカルトの被害者だと思ったし、出してやらなきゃって思った。
けどな。
そいつは、自分のことを岐神権現だと名乗った。天より降る運命を仕分け、託宣を下すものであると。
当然俺は思ったよ。
『洗脳されてる』。
腸が煮えくり返る思いで、ますます連中に対する怒りが増して、粉粒程度残っていた罪悪感が今度こそどっかに行った。
使命感は強まったが、結局牢も鍵も頑強で、俺にはどうにもならなかった。
しかし、座敷牢もそいつの姿も、全て証拠の写真に収めてやった。これを警察にでも突き付けて、あるいは信者の前に洗いざらいぶちまけて、これがおまえらの喜んでいたことだと後悔させるつもりでいた。
ネットにデータを保存したかったが、地下のせいか電波も入らない――あるいは、こういう事態を想定しての構造だったのかもしれない。
すぐそこから出してやると、言いかけてやめた。その少女には、自分が何かの被害者であるという自覚がない。そういう目をしていた。狂気ではなく、逃避でもなく、自分のやるべきことをしているという目。俺が、そこまで来た理由と、同じ目を。
何を説いても無駄だろう。そんな時間も無い。だから、そのまま去ろうとした。
『待て、白城哉彦』。
呼ばれたのは、背を向けた瞬間だ。




