046→【北峰水汲山岐神信仰、あるいは黒森准教授お姉ちゃん】
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「へえ、南河の。学生さん。夏休みの自由研究? 郷土の伝承を調べてる。へえへえ!」
資料諸々論文諸々、殴り書きのメモにそこらからひょいと拾ってきたとしか思えない石ころやシャーレに入ったコケらしきもの、木や石を削り出して作られた像、机の上をデカデカと占めるジオラマ、それらに挟まれるようになりながらもかろうじて面目と役割を保っている、両サイドから計四割ほど侵食された来客応対用ソファ。
身を縮めるように座る俺(と膝の上の神様)の向かい側にいるのは、藍染の浴衣を着た眼鏡の女性だった。
「うんうん、やっぱり若い子が自分の研究分野に興味を持ってくれるっていうのは、えへへ、いいもんだあねえ! 楽しいよー民俗学は! 悠久の時の流れを感じるっていうか、文化というものがどのような必然と偶然の複合によって形成されているのか、その手触りと温度を実感出来る瞬間ってのはたまらんもんがあるぜ! たとえばこの服! 綺麗な色でしょ! 北峰の伝統工芸で、昔からこの地方に群生してるカンナビアサヒを原料にした」
「どうぞ水です」
ごとごとん、と力強く置かれたコップが空気を戻す。
「毎度のことながら脱線してますよ、准教授。ごめんね相楽くん、この人、自分の得意な話題になるとすぐこれだから。初対面だとか遠慮しないで適当に注意してやって。いつまでたっても大人になれないアラフォーオタクを助けると思って」
「む、むぅ。本人を前に言うよねセーヤ。昔はもーちょっと手心がなかったっけ?」
「それいつの話? 残念だけど、近所の馴染みだった時より、大学院で教授と院生になってからのほうがむしろ“こいつはダメだ。俺がしっかりしてないと”って確信は強まったね」
「うふ。そんじゃー、わたしのこと貰ってくれる?」
「無理。俺バリッバリの年下好みなんで。主にあんたのせいで」
「がーん今日もフラれたー! えーえー知ってまーしたっけどーーーーー!」
軽口に憎まれ口を飛ばし合う二人を見て、膝の上の神様がぼそり『コントじゃ』と呟く。
それが聞こえたわけではなかろうが、准教授と呼ばれた女性が咳払いをひとつして、
「北峰大学院民俗文化研究学科で講師を務めております、准教授の黒森香苗と申します。南河高校の相楽杜夫くん、だっけ? 北峰の岐神信仰は、ちょいとばかし深い沼だぜ?」
ニヤリと笑い、キラリと光る眼鏡。
これはもう勘というか確信なのだが、この人おそらく、どこぞの漫研の姫様と馬が合う。
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岐神とは岐路の神――交わる道の分岐点、峠や村の境にありて“邪なるもの”の侵入を防ぎ人々を守る、いわゆる道祖神の類型だ。
全国各地に散見されるこの信仰は、ここ北峰に於いても発生した。
ただし、少しばかり特殊な形で。
「標高1032メートル。北峰の地名の由来であり、またそこから始まった湧水が地に注ぎ川となり、人々に恵みと繁栄をもたらす南河をも創ったのが、この部屋の窓からも見える水汲山――その山巓には、推定四百年前のものと見られる石仏が置かれているの」
黒森准教授に示された写真には、空に近い森の中、長きに渡り風雨を受けてきたと思しき石の像が映っていた。
「古来、北峰の民、水汲山の恩恵で生活を続けてきた人々にとって、ある種の富、善、吉、幸福は、地に住まう自分たちの頭上、山、さらにその先、天より来るものだったんだね」
「そして、そのように考えた場合。彼方より降る吉凶が、最初に接触するもの……そこから広がり、幾筋に伸びる分岐点の始まりこそが」
言葉を引き継いだ白城が、ジオラマの水汲山の頂上を指す。
「この土地で最も高い、あの山の頂上。いいものは通す、わるいものにはお引き取り願う――水汲山こそは世の平穏を保つ為の最前線の防波堤、吉凶を選別する関所の役割を兼ねていたというわけだ」
かくして、北峰の人々は生活と心の支えを、水汲山から授かって生きてきた。
道祖神信仰と山岳信仰が混じり合った畏れと敬いは、近代社会の文明が発達するにつれ徐々に薄れてきたものの、連綿と続いてきた文化は本質を失うことなく現代に残っている。
「八月の頭には、水汲山でお祭りがあるの。山頂まで続く道を、男衆が日暮れの前に昇っていき、水汲岐神石仏の周囲に陣を組む。吉方凶方の具現に扮した代表二人が鼓笛の中で演舞を行い、凶方の面をお焚き上げで空へ返して、吉方の面はそれを被った代表者が先頭となって夜明けと共に山を下りる。つまり人里に善きものがもたらされる。これは岐神を讃え労う奉納の儀であり、北峰はまた一年、邪を遠ざけ福を呼ぶと信じられているんだよ」
書類の山から発掘された古い本には、明治時代に行われていた水汲岐神祭の、そこで使われた二種の仮面と、山頂での祭事の様子がスケッチされたものが載っていた。
「変わったお祭りでしょ? わくわくするでしょ? 私も是非一度は生で見たい、いやいや体験したいんだけど、悲しいかな山岳信仰のお定まりみたいに奉岐神楽は女人禁制でねー。そんなら私の目と耳として、黒森ゼミから敏腕調査員の哉彦ゼミ生を送り込もうと思ったんだけど、落選しちゃうしさー」
「無理もないでしょう。最近は特に競争率が高いし」
「そだね。今回は御縁がなかったけれども、別にお祭りが無くなるわけじゃなし、次回次々回、またの未来に希望を託すと致しましょうっ。お願いします水汲山の岐神さまっ、どーか、どうかあなたのことを好きで好きで知りたくてやまない当ゼミに、ほんのすこしの良縁をー!」
手を組み掲げ、祈りを捧げる准教授。それを見て、白城が苦笑し肩を竦める。
「とても分かり易い一例をありがとうございます、准教授」
「ほや?」
「軽はずみに【結論】なんていうのは、文化の研究者としてあるまじき浅慮だけれど。それでも一応、ある側面の証明というふうぐらいに聞いてくれ、相楽くん」
その言葉に、俺だけでなく、准教授も目を向けた。それを受けて白城は、発表会に臨む研究者のように背筋を伸ばした。
「今このおばさんがやってくれた通り、水汲山岐神信仰が通常の道祖神信仰と決定的に違うのはまさにこの点――【積極的な吉の獲得】だ。北峰の民は、悪しきものが地に流れてこないように、だけでなく。天運、即ち運命をも自在にせんとした。悪いことを拒む、その利点に留まらず、もっと欲深に、善いものだけを呼び込み、得をしようとしたんだよ。本来決して届かない、届いてはいけない領分にまで手を伸ばそうと、な」
この研究に惹かれた理由がそこなんだ、と。白城哉彦は、古書に描かれた祭事を流し見る。
「あれも欲しいこれも欲しい、どこまでいっても満足できない――まったく人間ってやつの欲求は、何百年も昔からてんで打ち止めを知らないよな?」
一瞬、目の前の院生は、俺が知る……南河のマンションで見た時のような顔で笑った。
「セーヤ」
「っと、悪いね准教授。若造が知ったふうな口で持論なんぞ謳ってさ」
「ううん。そっちは全然いいんだよ。私としても、自分と違った視点でものを見てくれる君の存在は刺激になるし発見もある。うちに来てくれて感謝してるよ、いっつもね。たださ」
黒森さんはおもむろに立ち上がると、白城の頭を鷲掴みにした。
「“おばさん”は違うよね、セーヤ?」
「――あ、ぅん、そう、だな。俺としたことが、言い間違った。ごめん黒森、お姉ちゃん」
「オーケー正解素直でよろしい」
解放される白城、「ははは客の前だぞ」と笑うその顔に、本気の焦りと怯えを見る。
……そっか。
お前、それで、年下フェチになったんだな。
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