043→【さよならマイホーム】
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そうして。
妹の、先へ行く背中を見送り、別れた直後に引き返した。
家に着いたら押入れを漁り、使えそうな道具を詰めてザックを背負い、制服から動き易い私服に着替える。
「うし、行くか」
自分の部屋をぐるりと見渡し、それから、そういえば今日はいくつか、やり残している恒例があることに気が付いた。
十一時前の向井小学校への電話等、これから済ませるべき重要なことは忘れていないが、たとえばPCの初期化やら、恥を隠して見栄を守る、立つ鳥跡を濁さずの心得を守れない手抜かりが散見し、少し考え『うん』と頷く。
「ンな時間ねえし、汚れの跡もある意味思い出だ。杜夫ちゃんの名残として、いっそ楽しんでもらうとするか――見るも無残な、出来れば知りたくなかっただろうあれこれを!」
「であろうのー」
背を向けて踏み出そうとしたところ。
自分しかいないはずの家で、聞くはずのない声を聞いた。
「実の兄貴が無類の尻好きと知った日に、妹というのは果たしてどういう態度をするのが正解なのじゃろな? ①、『兄様破廉恥!』と鉄拳を振るう、②、『これなら発育の乏しい私でも喜ばせられますわ!』と歓喜する、③、『乳が育たぬ私への嫌味ですか!』と咽び泣く、さあどれが一番嬉しい?」
「いやいやいや」
どう転んでも悲しいクイズに挑んでいる場合でなくて、
「なんでいんの、神様」
あたりまえのようにベッドに腰掛け、そこにあったみたいに隠していたはずのスケベブックを熟読する、見知った童女に問い掛ける。
「わしがあちらにしかおられんといつ言うた?」
「言っ――て、ないね。そういえば。でも、“なんで”はもう一個だ。俺の命日は見る専で、内容には関わらず、死に直し以外で干渉しないんじゃなかったっけ?」
「決まっておろう。確認じゃ」
生に溢れた本を閉じて、神様が顔を上げる。眼差しは真っ直ぐ、口調は静かに、
「モリオ。おぬし、これから北峰に行くつもりじゃな?」
「……おう」
「一方、ワシの管轄は南河じゃ。この地であらばこそ、そこで行われる生き死に、運命の一部采配を決める権限を持つ。即ち、相楽杜夫は世界中の何処にいようと本日夜に必ず死ぬが、南河より離れて死んだのならば、もうワシの力を以ても命日をやり直させてやれぬこと、よもや忘れておるまいな?」
「当然。それが、何の問題でもないってことまで含めてな」
意地や、虚勢ではなく。本音として、するりと答える。言葉が出る。
「何のこたぁない。死ねば死ぬのが命だろう。そこんところにズルしっぱなしだった俺が、過剰に貰ってた反則の特権置いて、正しいルールに戻るだけ――別に手足がもがれるでもない、プラスがゼロに是正されるだけの話だ。ここを怖がってたんじゃあ、生きれもしないだろ」
「くは」
膝を打つ音。愉快を見る顔。その口元は、悪辣な笑み。
「吠えよったな、坊」
「そりゃあ吠えるさ、男の子だもの。そういうわけで、だ。神様。相楽杜夫は今日この後にどうなろうと、恨み節吐くつもりはないよ。自分で選んで自分で決めて、自分の信じた自分の無茶だ。しかしまあ、どんなふうに死ぬにしても、先にこれだけは言っておく」
「言うてみい」
「ありがとう」
深々と。
心よりの、偽らざる、万感を篭めて、頭を下げた。
「あんたのおかげで、色々出来た。そりゃあもう、ありえないぐらいに色々だ。気付いてなかったことに気付いて、やり残してたことも出来て、心の底から楽しめた。出来ればずっと、なんて考えもしたが、流石に虫が良過ぎるだろう。クセになったら覚悟が鈍る、度を越えたなら愛想も尽きる。そろそろ俺は、約束を守るとするよ」
「氷雨芽々子と、ワシとのか」
「うん」
ともすればどちらも遅いというのはいかにも格好がつかないが、そこはそれ。
つまらない恥や外聞を恐れて、やるべきことをやらないほうが――きっとずっと格好悪い。
「俺の人生、最初で最後の告白をしに行ってくる。じゃな、神様。俺が逝ったらまた会おう」
そうして、再び家を出る。
多分今度は、今回こそはもう帰らない、帰れない、本当の旅立ち。
途端、急激に、胸が詰まった。積み重ねた記憶、数え切れない思い出が接着剤となり、足と地面を張り付ける。
家族の話。
友達の話。
生まれてからこれまで。
いつだってここは、
俺の帰る場所だった。
迎えてくれる家だった。
「――止まるな、馬鹿」
未練の糊が乾ききる前に足裏を引き剥がし、力を込めて鍵を閉めた。
もうここに戻らないとしても、思い出は、消えない。無くならない。
相楽杜夫以外の中に、過ごした日々が、残っている。
「俺は、行くんだ」
顔を上げて、顎を引いて、踏み出した。
時間は現在、朝八時。夜までの猶予を、一秒も無駄にしている場合じゃない。
調べたところ、北峰へは八時十五分発の快速電車に乗るのが一番早い。これを逃したら次は一時間は待たされる――げに恐ろしきかな、地方都市の鉄道事情。差し当たっての課題は急ぎ駅に到着することだが、それはどうにか自転車をかっ飛ばせばギリギリで達成可能と見た。うなれ、俺の愛ママチャリ。
「うむ、行こうぞ! 気張れよモリオ! いざ、発ッ進!」
「――――いやいやいやいや?」
表に出した自転車の、サドルにまたがった瞬間に、再び後ろからそんな声が聞こえてきた。
ちらりと見る。
なんかおる。
「神様? 神様神様神様?」
「なんじゃその面白い顔。やめんかやめんかこんな火事場に。ほれ、走れ、走れ! もうわしは全身で風を受ける気マンマンなんじゃから!」
つくつくつんと突かれる背中。ママチャリの後部荷台に腰を下ろした童女が、眉を寄せて訴えてくる。
「あのなあモリオ。ワシがこのまま、おぬしの部屋でエロ本読んでのんびり魂届くの待つほど薄情者じゃと思うたか? 有り得んわ。有り得んじゃろそんなつまらんの」
「つ、つまらん?」
「ワシはおぬしの命に寄り添い、最期を見届ける。故に、おぬしがワシの管轄外での死を望むなら、ついていって見物する。契約は変わらぬ。ワシはおぬしの側での生き死にを面白がるだけで、手を貸すことはない。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「……そっか。うん、そうだよな。確かに。ここまで散々付き合ってもらっといて、クライマックスだけお預けってのは、無体な話だ」
『じゃろ?』と神様は得意げに頷く。
「ならば行くぞ。疾く駆けよ。今日こそが正真正銘、最終最期の一日じゃ。相楽杜夫の命日じゃ。十と一度を死に直した男が、変えられざる閉幕にいかなる結末を選ぶのか――今こそ答えを出すがよい!」
全力で踏み込むペダルが軽い。それは俺の気合の問題ではなく、神様の体重が限りなく及んでいないせいか。手助けはしないが、荷にもならない――という配慮を察する。
快晴の空、緩やかな風。真夏の朝、一足早い夏休みの始まりと終わりに自転車をかっ飛ばす。
十二回で初めての同行者を連れ、向かうのは、十一回分過ごしての把握もない、何が起こるかわからない場所。
最期の相良杜夫は、繰り返しの試行錯誤から外れ、未知の挑戦に飛び込んでいく。
ひどくあたりまえで、誰もがきっとそうである、人生の一日。
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