039→【兄妹】
「あんたさ。今、自分がどんな目してるか、わかってる?」
「……え」
「思ってもねえこと言うなよ。やさしい振りで誤魔化すなよ。なあ、あたしはそんなに頼りねえかよ。腕っぷしばっかどんだけ強くなっても、あたしなんてあんたにとって――気ぃ遣わずにはいられない、マトモに向き合いたくもない相手かよッ!」
正面に立った真尋に、胸倉を掴まれる。
ぐしゃぐしゃの顔。乱れた息。震える手、食い縛った歯――頬を伝って、零れる涙。
「なにが、たすかった、だ。ふざけんな。そんならもっと、うれしそうなツラしろよ。あのマンションでも、今でも、なあ、気付いてないのか? 兄貴、ずっと同じ顔してるんだぞ。わかるか? 今から死ぬって、そういう奴の顔なんだぞ!」
「母さんのこと、思い出すか?」
思い切り、殴られた。
今朝と違って、もう遮り隠すものもない――相手から自分へ、直接、伝えられる痛み。
「勘違いすんな、クソバカダメボンクラ兄貴ッ! あたしはあんたを、助けになんて来たんじゃねえ! あたしはあんたを――いつまで経っても立ち直んなくて、いつだって楽しみながら死に場所を探してるような腰抜けを、誰より先に殴りに来たんだッ!」
「――――真尋、」
「ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなっ! お前、死ぬ気だったろ! あたしのこと助けて、あたしについての心配なくして、それを理由にする気だったろ! それでもう終わっていいと思ったんだろ!? だから、ああくそ、あのマンションの火事だって、絶対ぇそうだ、おまえが自分で起こしたんだ! あいつらの悪事もろとも、自分も終わるつもりだったんだろ!?」
それは違う、そう言っても聴きはしない。真尋は、妹は今、ずっと、ずっとずっと、自分の中に溜まっていた鬱憤を、怒りを、不安を、心を、吐き出している。恐れず、怯まず、ぶつけている。
向き合っている。
俺がそうしていたように――おそらくは、真尋も避けていたことと、勇気を振り絞って。
「聞けよ、あたしな、いいか聞けよあたしはな! 相良真尋には叶える夢が二つある! いっこは、最高に素敵で優しくて強くて頼りがいのある相手と結ばれて、その結婚式で、どうか見たかって、バカ兄貴、あんたに中指立ててやることだ! あたしはこんなに立派にやってる、もう何の心配も無いし強くなった、支えてくれる相手もいる、これから先、何があっても負けないし乗り越えられる、だから、だからだからだからだから――――もう一回昔みたいに、おんなじ目線であたしとふざけてよ兄ちゃん、って絶対に言うんだよッ!」
だから、と。
もう一度、真尋は繰り返す。
「それまで、元気で、生きててよ。“死ぬのにもってこい”の日なんて、探さないでよ、兄ちゃん――」
胸に顔を埋め、すすり泣く声を聞く。
その身体を抱き締める権利を、俺は持たない。妹の望みを知りながら目を逸らし、涙と共に訴えられた願いにも応えてやれないバカ兄貴には。
「……真尋、俺は、」
「 見 つ け た 」
声のほうに、揃って向く。
電灯の薄い明かりを逆光に、男が一人、立っている。
「探したよ、真尋ちゃん。駄目じゃないか、二次会に行こうって言ったのに。一人でどこかに行っちゃあさ。君を連れて行かないと、僕があの人に怒られるのに」
「――桜庭、さん」
不気味に立ち竦む姿を、真尋がそう呼んだ。
芝生を踏み締め、桜庭……白城哉彦の傀儡、桜庭誠也が、音も無く近づいてくる。
「言ってたよね。強くなりたい、けど、それ以上に、大切な人に心配をかけない自分になりたいって。そのために、色々なことを知って、早く大人になりたいんだって。手伝ってあげる手伝ってあげる、Setsunaが、僕が、君に、君たちに、魔法をかけてあげる」
「…………、来るな、桜庭」
真尋が構えを取る。その振る舞いの中に、もはや目の前の相手への尊敬も容赦も無い。
「もうあたしは、あんたらのことを知っている。Setsunaが金業と組んで悪巧みしてたことも、その後ろに黒幕がいたことも。そうそう、あんたの隠れ家だって燃えてるぞ」
「知ってるって? そ、そんなの――そんなのって、最高に都合がいいじゃないか!」
そこで、真尋も、俺も、ようやく気付く。
桜庭誠也の表情、だらしなく垂れた涎、鬼気迫る瞳――もうとっくに、こいつが正常ではないことが。
「一緒に行こう大丈夫だよ安心して任せるといい、だって僕もそうだったから。セーヤさんなら君たちのことも、僕を弟にしてくれたみたいに、立派な【妹】にしてくれるから」
「お、おまえ、」
「だめ?」
「ダメ――に、決まってんだろ、そんなの、」
「じゃあ仕方ない」
言いながら桜庭が、
「わかんない子は、大人しくさせなきゃ」
ズボンの後ろポケットから、
「いつもセーヤさんがしてるみたいに!」
取り出したのは、
「え、」
その瞬間。ケンカ――というより、人と戦い慣れている有段者の真尋が固まったのは、あまりにそれが予想外だったからだろう。
けれど、俺は動けた。
俺にとってそれは、怯むべき理由にはならなかったから。
ただ、妙に落ち着いた、静かに、冷めた気分で。
成程、こういうふうに帳尻が合うんだな、と思いながら、
「ぱん」
うっとりと、陶酔しながら引かれる引き金の前に、真尋を突き飛ばしつつ立ち塞がれた。
惜しむらくは、まだ奴のご主人に打たれた麻酔が効いているせいで、立ち上がりかたが中途半端な具合になってしまったせいか。
「——ぁ、」
背の低い真尋の、肩辺りを狙った銃弾は、運悪く――或いは予定調和として、俺の左胸に直撃した。
十回。繰り返してきた、感覚でわかる。
それがもう、取り戻しようのない、取り返しのつかない、【死因】であることが。
「は? あぁもう何やってんだか、この邪魔は、」
「邪魔はッ!」
見惚れるような踏み込み。
突き出した左腕と引かれた右腕、その両方が、美しく連動し。
正しく、揺るがぬ、正拳突き。
「テぇメエだあぁあぁああぁあッッッッ!」
容赦なく急所、顔面を打ち抜かれた桜庭と、奴が持っていた拳銃が宙に舞う。
「どうした! おい君たち、何だ今の音はッ!」
そこに通りがかった、福禄マンション火災の件で巡回していたらしい警察の二人が、錯乱した桜庭誠也を取り押さえる。
それを見ながら俺は、ひとまず危険は去ったと安心する。
「この、バカ、兄貴!」
だというのに、そいつと来たら未だに切羽詰まった顔で、倒れる俺を覗き込む。
「何考えてんだ、まだ麻酔も切れてねえくせにッ!」
何考えてると聞かれたら、そりゃあもう論理と返す他に無い。
もし、さっき。仮に真尋の身体が動いて、銃口を避けようとしても、桜庭が偶然命中させてしまう可能性はゼロではないが。
今日は俺の命日だから。
どちらかの命にしか中れない一発の死が放たれる時、それは相楽杜夫に引き寄せられる。
相楽真尋は、救われる。
「今日の無茶といいッ! 誰が、いつ、そんなことしろって頼んだッ! あたしはあんたに――ひでぇことばっかしてきたのにッ!」
おいおい、これは異なことを。バカ兄貴に相応しい、頭の悪いバカ妹め。
いつ頼んだか、だって?
「きらわれてても、たのまれなくたって、たすけるよ」
「っ、」
「おまえは、おれの、たいせつな、いもうとだからな」
「あたしも」
手が握られる。
熱が伝わる。
「素直になれなくて、ごめんなさい。ほんとうはずっと、大好きなんだよ、兄ちゃん」
俺は祈る。
ひとつだけ、願う。
どうか。
作り笑いでない、本当の笑顔を、この最期、妹に渡せていますように。




