036→【夜の始まり】
――それは、もう、“この今日”では起こり得ていない、交わらなかった、線と線。
けれど。
『……ワルですよね、もりおにーさん』
その声を、覚えている。
あの笑顔を、覚えている。
たとえ一方的だとしても。
相楽杜夫は、千波岬のことを、今だって、親しんでいる――。
「……下拵え、ってのは、なんだ」
「妹に仕立てるには、俺が依存対象、恩人にでもなるのが手っ取り早い。だから、来年中学に入ったら、Setsunaメンバーと関わりたいと思っている彼女と同じスクールの子たちを、煽って、煽って、煽って煽って煽って煽って操作して――あの子を孤立させたのさ」
『私が何かしたのかな』。
『謝っても怒っても泣いても訴えても、誰も、だれも、まともに取り合って、くれなくて』。
少女は、今では大丈夫、もう何でもないと装いながら、装っていると、わかる態度で、そう語っていた。
それを打ち明けられることを、話せる相手がようやく現れたことのほうを、本当に、本当に、嬉しそうに、救われたように。
「匙加減は、これまでの実験で覚えていたからね。今日あたりに、彼女、自殺するはずだったんだよ」
「――――――――は?」
「ああ勿論、本当に死なせたらもったいない。絶望しているけれどまだ希望を捨てきれない、未遂で終わる程度のバランスで、繊細に慎重につついていたんだけどね。つけておいた監視からは、彼女が正しくそれを実行しに学校に向かったことは確認されたんだが」
なんと、それがすんでのところで、教師に止められてしまったんだ――と。
一人の少女が、求め続けていた救いに辿り着いたことを。
まるで悲報のように、とても不本意げに、白城哉彦は唾棄した。
「おかしいんだよ。外部の人間には気付かせないよう、訴える精神状態にも慣れないよう、精神に筋道を整えていたのに。困ったことをしてくれたな、武中とかいうやつは。一体どこから、本人が表に出せない情報なんて知り得たんだか。なあ佐藤、本当に教師っていう人種は、俺たちみたいな手合いにとって余計なことしかしてくれない、鼻持ちならん連中だよな?」
『一緒にするな』と、激昂を期待されていることなど読めている。そういうふうにこちらを揺らして、付け入る隙を探っている――或いは単に、遊んでいる。
ああ、認めよう。一部だけ。
白城哉彦。
こいつと、相楽杜夫は、似ている。
表に出たがらないところ。企みを好むこと。他人の示す答えより、自分の理想を探すこと。
だが、“三つ”。
決定的な違いがある。
「一つ」
「うん?」
「俺には、友達がいる。自分が間違っていることに気付けなかった時、それを教えてくれる、同じぐらいの阿呆がな」
「はあ。なんだ急に、持ち物自慢か?」
ああ、そうだ。
黙って聴いてろ。この、《《勝利宣言》》を。
「二つ」
「お次は?」
「そいつの教えを、俺は共有させて貰ってる。曰く、【女を尊敬しろ】。自分とは違う形の、違う考え方の、だからこそ魅力的でたまらない在り方を、全力で愛せ。そして、自分が相手を愛したなら、相手もきっといつの日か、こっちのことを認めてくれる。情も、絆も、何もかも――まずは、両手いっぱい惜しまずに、与えることで返してもらえる。俺たちみたいな、本当は一人じゃあ寒くて寂しくて心細くてしょうがない臆病者は、踏み出して、手を差し出して、笑う勇気を持って初めて、あったかい場所に届くんだ、ってな」
「いかにもありきたりな正論だ。その友達、受け入れられない恐怖を知らないボンボンだな」
大外れ。
俺はあいつほど、誰かに告白してはフラれて、避けられて、傷付いて――その度にめげもしないで数打ちゃ当たるを繰り返す、阿呆な勇気を知らないよ。
「三つ」
「まだあるの?」
「俺の妹は、マジ愛らしくって自慢だぜ、おにいちゃん?」
ぴく、と。
ここで初めて白城は、着飾ったもの、これ見よがしなものではない感情の反応を見せた。
は――思った通りだ。いい表情をありがとう。
“前回”も、今回も。
そこは、そこだけは、どうにも本音っぽかったんだよなあ。
「おまえの絆の作り方は、根本からして外道だよ。どうやっても仲が良い、本音も出せない関係なんて、一体ドコが面白い? あっ、そうかそうか。怖がりのセーヤさんは、自分が優位を持てないと、妹との関係に安心も出来ないんだね? 悪い悪い、人には人それぞれ好みがあるもんなあ。そんじゃせいぜい紛い物で喜べや――俺とあいつの、手が出る足が出る暴言が出る気まずくなるの天然モノな関係には、到底及びもつかねえ、だ・ろ・うけどなッ! がーーーーっははははははははははッ!」
「君、立場を理解してるか?」
髪を掴んで持ち上げられる。痛い痛い痛い。だが、その怒りが気分爽快。
「ここで俺を不愉快にさせても何の得も無いぞ? 今は精々こびへつらい、明日から使い潰されるまで続く道具としての生活を下の中くらいにする努力を行うべきだろう?」
「おまえこそ、理解してねえよ」
さっきから、それが笑えて仕方ない。
白城哉彦が――得意顔で、脅しのように、“明日の話”を語るのが。
「俺がなんで、七月十九日は外に出ると思う?」
「……ん?」
文脈が切れた。そういう言葉が白城の顔に出る。
それがさ、切ないぐらい繋がってんだよね。
「最初の何回か、試してみたんだよ。もしも、安全なところでずっとじっとしていたらどうなるだろう、もしかしたらもしかして、しのぎ切れるんじゃないかってさ」
「何の話をしている?」
「決まってんだろ」
明日から使い潰されるまでとか、そんな、鬼が大爆笑しそうな未来の話じゃあなくて。
「“今夜”の話さ、セーヤさん」
可能な限り憎たらしく、とぼけたツラで舌を出す。
それと、同じタイミングだった。
乱雑なリビング――否、福禄マンション全体に、火災報知器の警報が鳴り響いたのは。




