015→【最終未練、最初の恋】
《4》
やるべきことをやり終えて、向井小学校の正門から出てきた時。
町の向こうの茜色が、藍と混じって溶けていた。
もうすぐ、今日も、夜が来る。
「じゃあ、杜夫。また明日ね」
「おう、山田。そんじゃあな」
坂の途中で別れる。何でもない挨拶に、手を振って、それから、振り続ける。
角を曲がり見えなくなるまで、俺は一人、俺にしかわからない別れを惜しむ。
「――――さて、」
経験上、そろそろだ。昼間な場合もあるにはあったが、そういうのは大体自分で虎口に踏み込んだ時。
“約束ごと”は、夜に来る。
ただ、それがどこからどのように、いつそのタイミングが飛び出すかは、毎回、子供みたいに気まぐれだった。
いつもなら、もう少し慎重だし、慌てふためいたり、この期に及んで焦ったりする。
だけど、今は不思議と和やかだ。すっきりしていて、さっぱりしている。
今から死んでも、いい気がしている。
「はは。まるで自分じゃねえみてえ」
ある意味ではそれも、正しいのかもしれない。
俺を俺たらしめていたのは、ある種のこだわりで、執着――誰かが定めた在り方ではない、自分で勝手に決めるエゴ。
今まではそれが、往生際悪く騒いでいた。
この十回目の命日までだって『これでいいじゃないか』と思えるキレイな終わり方があったにも関わらず、なんだかんだと理由をつけて、【もう一回】を繰り返してきた。
ある日、ただ普通に突然納得なく死ぬ人を思えば……ありえないくらい、贅沢に。
「本当、往生際が悪い」
自分の口で吐いていながら、ばつが悪くて仕方ない。
――【本当に死にたい奴は誰が止めても一人で死ぬ】。
――【死ぬか生きるかの淵に立ち竦んでなどいない】。
よくぞ吹いた、と自嘲する。
「教師は教師でも、俺じゃあ反面教師だな」
それでも、ようやく、こんな心地になれた。今がその時だと、思う事が出来た。
それは多分、【腹の中の相楽杜夫】が、いなくなったからだろう。
俺が今夜、この後、死んでも。
多分、俺のしたことが、ほんの少しだけ、遺る。
意志とは、言葉だ。
言葉は言葉でしかないが、それでも、その人の全部でなくとも、一部にはなれる。
俺が今日、後輩に伝えた言葉として――
――相楽杜夫は、続く。
「……ああ、そうか」
俺は、俺が、消えてしまうのが嫌だった。今まで誰にも伝えていない本音が、誰にも知られないまま失われることに、心の底で抵抗を覚えていた。
それが、相楽杜夫の、死んでも死にきれない未練だった。
「なんだよ。つまり、本当に助けられたのは」
何のことはない。
彼女が生きてくれるおかげで、俺はようやく、死ねる。
今日をついに、【死ぬのにもってこいな日】にすることが出来た——
「ありがとうな、ちーちゃん」
まだ小さい、幼い、未来も夢も遠くに見える、彼女に届かない礼を言う。
これから訪れる運命を、今こそ受け入れられる。とても自然に、前向きに。
――――と、
「その前に、一個だけ」
ポケットの中に入れていた、小さな球体――スーパーやゲーセンにあるガチャガチャの、それを持ってきたのだろう、ありふれた、プラスチックのカプセルの表面には、その名前。
【出席番号十七番 #氷雨めめ子】。
「……本当。悪い奴だわ、俺」
誓って言うが、偶然だ。
約束破りをタケセンに叱られたどさくさ、どうやらちーちゃんは、タイムカプセルの中から見つけたそれを、隠蔽の為か単に驚いたせいか、草むらに蹴飛ばしてしまっていた。
地面に正座させられたっぷりとお説教を貰い、タイムカプセルも元通りに埋め直したさあ帰ろう、そういう段になってから、俺はそれを発見してしまった。
……一言で言ってしまうと、魔が差した。
気付けば俺は自分だけが見つけたカプセルをケツのポケットに突っ込み、今の今まで、一人になるまで隠していた。
「仕方ない、仕方ないよな、これも。だって、ほら、今日、ちゃぁんと未練を消さないと。今回は色々とうまくいったわけだし、なるべくならあの子の思い出を、自分でも恥ずかしいがどうにか言えたあの助言を、未来に持っていってもらいたいわけだし――」
きょろきょろと周囲を見渡す。……人気はまばらで、間違っても知り合いなどいない。それでも警戒度は最大値、ポストの陰に屈み込み、いざ、密閉されたカプセルを開けた。
その瞬間、
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――は、」
稲妻のような、眩暈がした。
本当に色々なことを、一辺に、思い出した気がした。
「――――――――――――――――――――は、は、ははは、は、」
人生には何が起こるかわからないし、人間はどこまでも身勝手で、馬鹿で、欲深い。
ほんの一秒前の自分が、確かに手の中に持っていた悟りの境地が、それはもう簡単に、零れ落ちることがある。
…………いや。もっと的確に、恥ずかしげもなく言うとするなら。
今しがた、それはキレイに空にしたはずの、願いを入れるお茶碗へ。
一秒あればその隙に、すぐおかわりが降ってくる。
「うっはははははははははははははははははははははははッ!!!!」
坂の途中の住宅の、いくつかの窓から顔が覗く。ついでに罵声も飛んでくる。
構えない。腹を抱えて笑う。まったく自分が好きになる。呆れた馬鹿だ、こうでないと。
これが俺だ。相楽杜夫だ。
その場の流れの賢者モードほど、長続きしないものはない。
だって、この世の中は楽しいと、骨の髄まで知っている。
「めめ子、めめ子、めめ子、めめ子めめ子めめ子めめ子――――氷雨芽々子ッッッッ!」
名を呼びながら走る。降りかけていた坂を昇る。
この道、この道、ああ、この道だ。
あいつは東、俺は西、家は離れて近所でもなく、特別に仲が良かったわけでなく。
ただ登校の時間が同じで、一年生の頃から何度も何度も顔を合わせた。その内帰りの時間まで、かぶるようになっていった。
学校にいる時はむしろ眼を合わせてもそっぽを向くのに、登下校の時だけは悪態をつきあう奇妙な関係。互いに競うように、こいつより下になるのが到底我慢ならなくて、意地を張って、気合を入れて、背筋を伸ばす理由になって、
三年の時、初めて同じクラスになったから、俺たちは初めて、正面から対決した。
その時間はそれまでの二年と比べ物にならないぐらい楽しくて、そして、短くて。
タイムカプセルを埋めたのは夏休み前最後の日、
二学期が来た時にはもうこいつは転校していて。
それがとても急な話で、俺は、クラスメイトの誰も、何も事前に知らされていなくって。
最後まで。最後の最後の最後まで、俺は、
本当はおまえが好きだったんだと、告白することが出来なかった。
相楽杜夫の初恋は――宙ぶらりんで八年、ずっと放置されていた。
「堂々としたところが好きだ物怖じしないところが好きだ長く伸ばした紙がキレイだ難しいことばっか言ってて凄い頭が良くて尊敬してる俺よりずっと運動出来て羨ま悔しい毎朝顔を合わせて最悪な表情をされると張り合いがある本音でぶつかれる相手でいてくれて嬉しいおまえもそう思ってくれてたら嬉しい憎まれ口も悪態も競争も喧嘩も全部おまえとすること何でも楽しいおまえのことが好きなんだきっとこれが初恋なんだそれなのにそれなのにそれなのに言えなかったことを後悔してる伝えられなかったのを悲しんでるやれることがあったはずなのにやらなきゃいけなかったはずなのにまだ三年だからって卒業して別の中学にいくのにも時間があるから大丈夫って保証も無いことに甘えて避けて自分が根性ないだけだってのを誤魔化してその挙句今日まで忘れてた辛かったからって考えないように生きてきた違うだろうそうじゃないだろ相楽杜夫忘れてる場合か満足してどうするあの日の気持ちを伝えないままごめんなさいも言わないままで死んでる場合かそんなふざけた命日があるかッッッッ!」
思い出した言葉。
蘇った最後。
夕暮れの帰り道。
坂道の岐路。
あの日、
あいつは、
いつものように、
これが最後じゃないみたいに、
また明日も続くみたいに、
恒例の悪態を、
笑いながら、
舌を出して、
仲のいい、
友達同士のように、
『ばいばい、がらくん。また顔を合わしちゃう時まで、私はあなたを忘れるから。あなたも私のことなんて、次に会うまで忘れてね』
笑い話にもならない。
それから今まで――ショックだったにせよ、あいつのことを、本当に忘れていたなんて。
何やってんだよ。
初恋だぞ。
「でも、間に合った! こんな、どうしようもない土壇場でもッ!」
閉じられた向井小の正門をよじ登って越えた。昇降口に飛び込んで、職員室を乱暴に開く。
先程別れたばかりの武中先生が、唖然とした顔でそこにいる。
「お、おまえ、どうした杜夫」
「先生ッ! すいません、忘れ物をしましたッ!」
背筋を伸ばし、直立し。声を張り上げて、願いをぶつける。
「三年の二学期に転校した、氷雨芽々子の、連絡先を教えてくださいッ!」
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