011→【タイム・カプセル/Ⅱ】
呼吸のリズムが崩れるのを見る。
かろうじて嫌悪止まりだった目の色が不快と憎悪に染まり、不愉快さもあらわに睨みつけられる。
絞り出されるように出された声は、予想通りに、険悪なものだった。
「――――何が言いたいんですか、あなた」
「外と内は混同しないほうがいいってこと」
そこを間違えちゃあいけない。
君が誰かを好きなこと。
君が自分を愛せること。
その二つは同じにならない。
関わり合っているようで、隣り合っていたとしても、その実、まったく連動していない。
「君が最悪から救われた。先生に恩を感じて慕う。そりゃあとっても素晴らしいが、その気持ち、別に万能でも全能でもないぜ。言葉はどこまで行こうと言葉だし、言葉以上であっちゃあいけない。友人も恩人も恋人も最後は他人でしかないように。そこのところを取り違えると、たまーにしんどい羽目になる」
「馬鹿にしてるんですか」
「真面目に言ってるんだよ、こんなでも」
過度の依存は依存先の重荷になるし負担になるしせっかく助けてくれた相手に責任丸ごとおっ被せて不幸にさせることもあれば善行に罪悪感を抱かせるような本末転倒も起こり得る。
なーんてことは勿論言わない。今の彼女はどうにもどうやらその線引きの近くにいるが、今のここで、必要なのは違うからね。
「『誰かに言われたから』は、判断材料であって、決定的な動機じゃない。手段の目的化っつーかさ、それじゃあ君がやっていることは、別に自分がやりたいと思ったことじゃなくて、単に【言った相手に媚びる為】になっちまう」
「それの何がいけないんですか?」
反論。
屈辱と、怒りの語気。
「大切にしてくれた人の期待に応えたいと思うのを、どうしてあなたなんかに侮辱されなくてはいけないんでしょう。腑に落ちません、不愉快です、納得のいく答えか、あるいは謝罪を求めます。何を知ったふうに、わかったみたいに、私の、私が嬉しかったことを、喜ばせたいと思った気持ちを、へらへらと踏み躙る権利が、あいつらみたいなことを、なんで、ここに来てまでまた別の人からされなくちゃあいけないんですか……!」
「本当にそうなら、誇れ」
柳に風の例えのように。
またどうせ来るだろうと決めつけていた、正論の顔をした心境の無視――その為に備えていた、どう言われようと譲らないという強張りを、彼女は見事にすかされて当惑する。
「単なる間に合わせでないならいいんだ。君が本当に、助けてくれた人に報いることが幸せだって考えるんなら、自分自身で真っ直ぐに立て。顎を引いて、前を見て、誰に何を言われても動じる必要なんて無い。……でもさ、違うだろう」
ちーちゃんの口から、言葉は出ない。
漏れる吐息と表情が、正解を示した。
「自覚、あるんだよな。今の自分がしているのは、逃避だって。本当は“救われたところ”から考えなくちゃいけないことを、それがあんまりにも苦しいんで、一番手ごろで、ちょうどよさそうなものでフタをしてるんだ」
「あなたに、」
「わかるさ」
ここに来て物凄い雑な論法で恐縮だが。
どれだけそれがしんどかろうと、乗り気でなくても恥ずかしくても。
言わなきゃいけないことは、言うしかない。
「俺もそうだったんだから」
証明なんて、しようがない。
身体に傷がつくような未遂じゃなくて、それこそ、あと一歩踏み出すか踏み出さないか、0になるか1のままかの境界線上の出来事だった。
やっていれば中途なく、取り返しもつかず、今、一切ここに残っていない。
だから、なんて軽薄だろう。
どうにも、胡散臭いだろう。
これまでふざけ通しの面ばかり見せてきた、馬鹿で軟派な相手の言葉なんて、どれほど信用を欠くだろう。
けれど。
彼女は、笑わなかった。
疑わしい目もしなかった。
ただ、じっと、こちらの瞳を覗いていた。
自分の未来を、水面の向こうに見るように。
「なあ、ちーちゃん」
「…………」
「実はな、嫌なことってキリがないぜ」
「知ってます、それぐらい」
「だろうね」
人は。
辛いことが終わると思ってるうち、思えているのならばまだ、そうそう簡単に『終わろう』とは思わない。
『もういいや』と投げ出したくなるのは。
『ああ、これ、出れない』と悟った時だ。
「参るよなあ。きっついわ、はは。本当、次から次だ。どっからでもいくらでも、一個が気になったらゾクゾクと、気付いちまうし流せない。挙句の果てに考えるのは、『どうして今まで、これが平気だなんて思ったんだろう』、『なんでこんな気分でいてまで、耐え続けなきゃならないんだろう』――なんつってね」
「おにいさん」
「言ってなかったな。杜夫。相楽杜夫だ。よろしく後輩」
「相楽さんは、どうして、それで死ななかったんですか」
笑う。
こんな話をこの場所で、同じ学校に通い同じ恩師を持つ相手に語っているおかしさで。
「そん時、叱ってくれたのがタケセンで、笑い飛ばしてくれたのが山田だよ」
「――――」
「ほら。あの人って、前向きで、行動派で、考えるよりまず汗流して、問題は片っ端から手の届く範囲まで近づいてぶっ倒す人だから。まだ起きてもいない不安まで考え過ぎて、嫌になって屈み込んじまうような視野狭窄の手合いには、てきめんにありがたいんだよな。昔の俺みたいな目ぇしてたおまえには、タケセンに事情を知らせさえすればさぞかしピッタリハマるだろうと思ったんだ。ちょいと予想を超えてたけども!」
あの人は、いい人だ。
見捨てない人で、見守ってくれる人だ。
そして何より、
「間違ってることは、間違ってるって言ってくれて。本気の本気で手加減せずに、大切な人になろうとしてくれる。――あんのクッソダサくて格好いいジャージといい、センスもテンションも、まるっきり昭和から来た教師のタイムカプセルだぜ」
尊敬していて、心の底から慕っているであろう相手に、極めてちゃらんぽらんな、けれどありったけの親愛を篭めた軽口を叩いた。
「ちーちゃん。本当にあの人に感謝してるんなら、自分が好きってだけで止まらずに――あの人を、喜ばせられる奴になれ。見ていないと心配な相手じゃなくて、前途を安心して楽しみに見られるような人間になれ。誰かの為じゃない、自分で自分の夢を見ろ。……これ、実を言うと本人からの受け売りなんだ。その分、好みの傾向としては信頼性があると保証するぜ」
おどけるようにウィンクかます。
リアクションの予想としては、怒るか、笑うか、それとも、同じように助けられた相手として、嫉妬でも向けてくるか。
「――――なんですか」
そのどれでもなかった。
「なんですか、それ。【昔の俺みたいな目】って。【事情を知らせさえすればピッタリハマると思った】、って」
これだから締まらない。
しまった、と考えても今更遅い迂闊な台詞を、嫌と言うほど、俺は悟った。