第五話 リンク・ホーム・クラーク~精神的な壊死~
◆
「ハナさん、ここでの仕事も大分慣れたねぇ」
「はあ、お陰様で」
ハナは所長を一瞥して素っ気なく答えた。そしてすぐ仕事に戻る。
洗浄したタンクを運び入れる作業は一週間前に済ませた。被験者のカッティング作業は昨日ようやく終わり、後は被験者設置後にタンクと管を繋げばいよいよ注水である。
ハナは我ながら奇妙に思った。初めは被験者を見ただけで吐いてしまったのだ。そして培養液の緑色を見るだけで胃が縮むような思いがした。今ではカッティングだって平然とこなせるようになった自分を顧みて、慣れの強靭さに呆然としてしまう。
腰に簡易培養袋をぶら下げて、タンクひとつひとつにそれを設置する。簡易培養袋には随分と小さくなった被験者が入っていた。その袋は、培養液を別種の薬液で希釈した液体に満たされている。長くはもたないが、本格的に培養液が注がれるまでの期間だけ被験者を維持してくれれば事足りる。袋は希釈なしの培養液に浸かれば瞬時に溶け出す素材を使用していた。従って培養液の注水が始まってしまえば、後は放っておくだけで本格的な培養状態になる。
「あ」とハナは声を上げた。
「どうした」と聞く所長に二枚のプレートを振ってハナは苦笑した。
「このタンクのプレートって、どっちでしたっけ?」
「どっちでもいい、そんな物は飾りだ。正しい識別は番号でなされている」
せかせかと返すと、所長は去って行った。
ハナは二つのプレートを見つめて、はてな、と首を傾げた。暫く考えていたが、やがて頷き、片方のプレートをタンクに取り付けた。所長の言う通り、どちらでも良かった。これは最早何も意味していない。
培養袋の中で浮く被験者を見ても、何ら感慨が湧かなかった。
ハナは決して無情ではなかった。寧ろ親切で感じやすいタイプだと自負している。他人が傷つき落ち込んでいたら必ず励し、愛玩動物の死には涙した事もある。
それでも、被験者には何の感情も覚えなかった。屠殺のようなものなのだろう、とハナは考察している。
◆◆
培養施設――リンク・ホームなんて呼ばれていた――にリンク・フォースが来たのは随分久しぶりだった。
最後に彼らを見たのは何年前の事だろう、とハナは追想する。
『面会』の申請権利が得られるのは相応の貢献が認められた者のみ、という話だ。申請後にはリンク・フォースの管理機関である『本部』で人格に関する検討が行われ、厳しい基準をクリアした隊員のみに『面会』許可が下りる。つまり、タンクを見た後でも変わらず働き続ける事の出来る人間のみが『面会』を許されるというわけだ。
ハナは案内人という名目で、その隊員をタンクまで送迎する役を与えられた。
今回『面会』を許されたシオンという名の女性は、冷然とした表情で施設の表に立っていた。出迎えたハナに一礼する仕草も、どことなく機械的だった。
シオンの左右には武装した大男が屹立していた。『本部』からの目付け役である。シオンの武器は彼らが預かっているらしく、彼女は丸腰だった。
ハナは施設内を先導し、彼女が指名した『被験者』の元へ歩を進めた。大男たちも同行する。
道中、シオンはひと言も口を利かなかった。
やがて広間に入った。そこには鉄製の箱が等間隔に並んでいる。箱の上部からは管が伸び、培養液を送り込んでいる物もあれば停止している物もあった。
ハナは目的の箱に到着すると、まずプレートに誤りがないか確認した。そこにシオンの指名した優遇住民の名が刻まれているのをチェックする。確かに、名前は一致していた。
シオンは冷然とした顔のままである。
ハナは書類の挟まれたバインダーを取り出した。
「えー、これからお見せする物は、貴女が権利を行使して初めて目にする事が出来ます。故に口外はご法度。万が一外部に漏れる事があれば即時処分されます。貴女も、優遇住民も。宜しいですね?」
ハナの言葉に、シオンは頷いた。
「加えて、こちらを見る事で貴女の精神に深刻な影響が出る恐れがあります。当施設はその責任を一切負わないものとし、また、施設内の如何なる備品をも損なってはなりません。その場合も、即時処分となります。宜しいですね?」
シオンが頷くのを確認してから、ハナはバインダーを彼女に手渡した。
シオンは感慨なさげにそれを受け取る。
「同意書です。異論なければ親指をこちらに……」
ハナが朱肉を出すや否や、彼女は親指を押し付けた。思わず取り落としそうになったが、シオンは意に介さず押印を終えてバインダーを返した。
「あの、指を……」と言ってハナは拭き布を差し出した。
シオンは呆れたように布を見下ろした。「必要ない。早く」
早く見せろ。その威圧的な態度に気圧されまいとして、ハナは深呼吸をした。
彼女は壊れた人間だ。如何なる事実を目にしようとも戦い続ける廃人。それは『本部』のお墨付きだ。ハナは内心でそう呟き、シオンを見つめた。
「それでは……」
ハナは箱を解錠すると、遠慮なく開け放った。
シオンの目が、心持ち見開かれた。その瞳には緑の培養液に満ちたタンクが映っている。
しかし、変化はそれだけだった。後はタンクを凝視して沈黙しているだけ。ハナは自分の見立てが間違っていない事を確信した。彼女の血は凍て付いている。
ハナは咳払いひとつして書類を取り出すと、数枚捲った。
目的の頁を見つけ、読み上げる。案内人は『面会人』が望むと望まざるとに関わらずそれを音読する義務があるのだ。
「人体において不要な部位を切除・破棄。その極限が脳のみの培養である。培養槽の大きさ及び培養液量は厳密に定められており、現時点で――」
ハナが音読している間も、彼女はタンクから目を離すことはなかった。
「――培養槽は彼らの肉体であり、培養液は血液である。アイデンティティは脳に宿り、リンク・メイトに力を送り続ける。以上の事実から、培養設備の一切が……優遇住民であるといえよう」
元々『被験者』と印字されていた箇所に斜線が引いてあり、代わりに優遇住民と書かれていた。
ハナは感慨なく読み終えて、欠伸を噛み殺した。
シオンは脳に視線を注いでいる。そうなった優遇住民を目に焼き付けるように。それに何の意味があるのか、ハナには理解出来なかった。目に焼き付けたところで何ひとつ変わらないだろうに、と。
やがてタイマーが鳴り、ハナは箱を施錠した。
見送る道中も、シオンは冷然とした無表情を湛えていた。最早彼女の壊れた心にさえ、ハナは何の感想も浮かばなかった。
施設を出ると、人工太陽がわざとらしい夕日を照射していた。シオンは男たちに挟まれ、何歩か前に進んだ。
そこで足を止めて、振り向いた。
彼女の無表情がゆるゆると崩れた。口は歪に開かれ、目尻がぶるぶると下がる。その瞳から大粒の涙が、冗談のようにぼろぼろと零れた。
嗚咽と共に崩れ落ち、彼女は幾度も地を殴った。
慟哭の渦の中で、男たちも、ハナも、ただ立ち尽くしていた。
「あ」と自分の声が漏れたが、ハナは気にしなかった。その気付きの恐ろしさに囚われていたのだ。
本当に壊れているのは私たちかもしれない、と。
沈む人工太陽。その最後の光は、地下を橙色に染めていた。泣き暮れる戦士も、呆然と佇む研究者も、等しく。
【補足】
シオン=「シンジュク・リンク・フォース~或る少女の場合~」の主人公です。