彼女とメアリとヒロインの事情
信号は青だった。
仕事で少し遅くなった日だった。彼女は自分へのささやかな労いとして、帰り道に駅前のコンビニでスイーツを買った。夜甘いものを食べると太るのはもちろんわかっているけれど、ダイエットは明日から始めようと思っていた。ビニル袋をぶら下げて、信号が青に変わるまで待って、渡り始めて――
確かに左右の確認は怠った。確認不足だと言われれば、その通りだ。認めざるを得ない。認めざるを得ないが……でも、やはり猛スピードで突っ込んできた向こうの方が悪いのだろうと思う。
車種はわからない。でも大きくて重くてスピードは出るけど非常に燃費の悪そうな――つまり、まったくエコとは縁遠そうな左ハンドルの車だった。軽ならまだ、望みはあったかもしれないのに。おまけにドライバーは余所見をしていた。カーナビかスマホかケータイか。何をいじってたのかは知らないけど、手元ばっかり見てぜんぜん前を見ていなかったのが目に焼きついている。
彼女が覚えているのは、そこまで。
忘れてしまったのか、知覚できなかったのかは定かではないが、その後の記憶がないのは、たぶん、幸いなことなのだろう。とにかく、気が付いたら体が思うように動かなくなっていた。
最初は、怪我をしたのだろうと思った。手足は思うように動かず、目はろくに見えない。そもそも、好きな方向に顔を向けることもできない。何かしゃべろうと思っても、声はまともな言葉にならず、うーとかぎゃーとかうなるばかり。おまけにそれだけで信じられないくらいに疲れ果てた。精神的にも不安定になっていたのか、いい歳して大泣きしてしまったほどに。
だがそれで誰かに気づいてもらえた。看護師だろうか。彼女には看護師が何を言っているのかさっぱりわからなかったから、たぶん日本語じゃない。歌うようなあやすような調子で語りかけながら、体を起こしてくれて、口元に柔らかいなにかをあてがってくれた。
その途端、強烈な空腹を意識した。おなかが空いた。頭の中がそれだけで一杯になり、本能でその柔らかいなにかに吸い付いた。ごくごく夢中で飲んでおなかが膨れたら、猛烈な眠気に襲われた。抵抗することなどまったくできず、泥のように眠った。
最初に疑問に思ったのはこのあたりだ。
……わかってる。どうもただの怪我じゃないらしいことは。でも、信じられない思いのほうが強かった。まさか赤ん坊に戻っているとか、簡単に認められることじゃない。
死後の幻か。
怪我で動けない自分が見た夢か。
はたまた強くてニューゲームか、記憶持ちの生まれ変わりか。
周囲の様子から、どうやら転生したらしいと理解するまでに、おそらく一年以上かかっている。
なにしろ赤ん坊の体という奴は恐ろしく燃費が悪い。空腹と眠気に実に弱く、本能にはどこまでも忠実だ。ひとたび本能による欲求が沸き起これば、理性も思考もぐちゃぐちゃになり泣き喚くしかない。数時間おきに訪れる衝動の合間に落ち着いて考えることは困難を極め……ようするに連日の食う! 出す! 寝る! のスリーヒットコンボの生活の中、自分が置かれた状況をつぶさに観察し、この異常事態を冷静に考察することなど不可能だったのだと、言い訳しておく。
だから頭のてっぺんからつま先までまるっと面倒見てくれている金髪美人が母親で、彼女よりは回数は減るけどしょっちゅう様子を見に来るやはり金髪の美丈夫が父親で、繰り返し呼ばれる「メアリ」が自分の名前だということに納得できた頃には、もろもろの諦めもついていた。
いや、諦めというと少し違うかもしれない。
なにしろ彼女にチートはなかった。言語もわからなければ、人並みはずれた身体機能もなかった。
明らかに日本人ではない今生の両親の会話を聞き取り、馴染みのない言葉を覚えてなんとか情報を得ようと画策。または、ぶんぶんと振り回すしか能がない不器用極まりない手足を使い物になるように特訓するのに、貴重な起きている時間のほぼすべてを費やし。
つまり目の前の現実に対応することにのみ集中し、自分がどうしてここにいるのかなどという、考えてもどうにもならない事象は後回しだった。考え出すとどうしようもなく切なくなる、残してきた家族や友人のことも後回しだった。後から思い返してみれば、それもある意味現実逃避だったのだろうけれど――とにかく、彼女は普通の子供と同じように、少しずつ言葉を覚え、体の動かし方を覚え、本能でなく理性で考えられる時間を増やしていった。
三年。五年。時間を重ねる分だけ、新しい家族への愛着は増す。古い記憶をなおざりにしたつもりはないが、やはり思い出す回数は減る。気づいたときにはかつての家族のことも穏やかに遠ざかっていた。かすかな胸の痛みと寂寥は残るものの、眩暈がするほど胸を焦がすことはなくなっていた。それだけ時間が経過し、それだけ子供の日々は毎日が刺激で溢れていた。新しい環境。新しい友人。
両親がそうであるように、このあたりは金髪碧眼が一般的らしい。柔らかい金色の巻き毛を風になびかせ、ばら色の頬を輝かせ、碧い眼をきらきらさせる友人たちは男女問わずまさに天使としか言いようがなく。そして彼女も。
初めて母の姿見を覗き込み、そこに映った今の自分の姿を見たとき、彼女は喜んだ。ふわふわした金髪巻き毛。くるんとカールする長い睫に縁取られたひときわ鮮やかな青い眼。つんと上を向いたかわいらしい鼻。ミルクにほんのり色を乗せたような肌にばら色の頬。ふっくらした桜色の唇。友人たちと同じ、いや、それ以上の天使の容貌だ。かつての自分を思い出させるもの――黒髪黒目童顔な日本人らしさはかけらもなかったけれど、彼女は嬉しかった。愛らしい顔立ちだったからではない。いや、それもなくはないのだけど、それよりなにより、自分を慈しみ、惜しみない愛情を注いでくれる今生の両親の面影をはっきりと見ることができたから。
それは前世との別れでも、諦めでもなく、彼女の新しい人生の幕開けを素直に受け入れた瞬間だった。
そうして彼女はメアリになった。
「お出かけ? 湖の貴婦人にご挨拶するの?」
七つの誕生日が来て、メアリは神殿に参拝することになった。古くからの風習で、七つの子供は神殿で湖の貴婦人から祝福をいただくことになっている。
湖の貴婦人――アウラ湖に宿る精霊のことだ。アウラ湖近辺の住人は、昔から湖の精霊をそう呼んで称える。貴婦人と称されるからにはさぞかし優美で美しい女性の姿なのだろうと思われるかもしれないが、実際のところ精霊の姿は誰も見たことがないという。それでなぜ『貴婦人』なのかといえば、波ひとつ立てない湖面に高地特有の澄んだ空の青が鏡のようにあまりにも完璧に映りこむからだ。『天空の鏡』の二つ名は誇張でもなんでもない。
「そうよ。だからほら、おめかししましょうね。」
満面の笑みを浮かべた母がびらっとドレスを広げる。ベビーピンクに白いレース。これでもかと重ねられたフリル。腰の後ろで結ぶ大きなリボン。砂糖菓子のように繊細で、上から下までふりっふりの非常に愛らしいワンピース。
「かわいいでしょう? ぜったいメアリに似合うと思って!」
頬を上気させ、拳を握って力説する母。迎え撃つ父は少々圧され気味だ。
「そうだね。すっごくかわいい。でもドレスなら、姉さんちのを借りてもよかったんじゃあ……?」
「ダメよ。お義姉さんちのアリスちゃんはすらっとしたりりしい系だからシンプルなダークブルーのドレスが素敵だったけど、メアリはぜったいピンクなの! 三ヶ月も前から目をつけてたんだから!」
「それもそうか。一生に一度のことだしね。似合うものを着なきゃもったいないよね。」
……父よ。陥落が早すぎる。あんたが母の暴走を止めんでどうするの。
まあ、確かに従姉のアリスとメアリでは身長が違い過ぎるから、似合うに合わないはさておき、ドレスを借りるのは無理だったろうけれど。
「そうなの! だからね、メアリ。ちょっとお着替えしましょ!」
愛らしすぎるほど愛らしいピンクの塊を掲げて、両親がニコニコ笑顔で迫る。メアリが喜ぶと信じて疑わずに。
メアリだっておしゃれは好きだ。ドレスをかわいいとも思う。小さな女の子が喜びそうなデザインだし、今のメアリの容姿ならばぜったいに似合うのもわかってる。わかっているが――自分が着ると考えると、勇気が要るレベルだ。問題なく似合うことがわかっていて、それでも気後れするレベルの愛らしさ。
(わたしは七歳、わたしは七歳、わたしは七歳……。)
だからピンクのふりふりでも恥ずかしくない!
正直言えば、七歳の子供用のドレスなど何回着る機会があると思っているんだ! とか、精神年齢を考えると痛すぎる! とか考えないでもないのだが。
(……たぶん、このためにこつこつお金貯めてたんだよね。)
メアリの家は貧乏ではないが、裕福でもない。愛娘のために両親が何ヶ月も前から準備してきたことを考えると――
「うん。ありがとう、パパ、ママ。」
三つ子の魂百まで。転生を果たしたところで、中身は所詮日本人。空気が読める日本人。ノーと言えない日本人。
ささやかな抵抗は頭の片隅に押しやって、にっこり笑って受け入れる以外に選択肢がないメアリだった。
母のリクエストどおりピンクのひらひらに身を包み、たくましい父の腕に腰を下ろすようにして抱き上げられる。ぐらぐらしないように父の頭を抱えるようにしてしがみついて、メアリは郊外にある神殿まで運ばれる。
「パ、パパ! やっぱり自分で歩くよ! 歩けるよ!」
「んー? 大丈夫だよ、パパはちっちゃなメアリくらい楽々さ!」
「そうよ、メアリ。おとなしく抱っこされなさい? 転んでドレスが汚れたら、泣いちゃうわよ?」
(やっぱり転ぶよね? うー、でも恥ずかしいっ!)
大柄な父がメアリを抱え上げたところでまったくダメージにならないのはわかる。なんでもないところでうっかり転ぶことがある自分も自覚している。今日は特別にちょっとヒールのあるおしゃれな靴だから、なおのこと転びやすいだろう。母が心配するのも無理はない。だが、それと羞恥心は別問題だ。
(早く着いてえっ!)
周りの視線に耐えられそうもない。メアリはぎゅっと目をつぶって父にしがみつき、両親はそんなメアリを見て「甘えん坊さんね」と嬉しそうに笑った。
実際のところ、小さな女の子を連れて一家揃っておめかしして神殿までの道を歩んでいるのだから目的は明白で、周りはむしろ暖かく見守っているのだが――ニコニコする両親に挟まれ、メアリはひたすら真っ赤になって耐え続けた。
しばらくそうやって運ばれると、メアリを抱え上げた父が「ほらほら」と言って立ち止まった。
「目を開けてごらん、メアリ。神殿に着いたよ。」
父に促されて、しがみついていた腕を緩めて顔を上げる。
その途端、息を呑んだ。
(うわあ……。)
『天空の鏡』にふさわしく、空を完璧に映し出す水面。見渡す限りの青の中に浮かぶ白亜の神殿。大理石だろうか。陽光を受けて白く輝く荘厳な神殿も、きれいに反転して湖面に映る。その神殿にまっすぐに伸びる参道。参道の両側に立ち並ぶ彫刻が施された柱の数々。
(すごい……。)
今までもアウラ湖のほとりに来たことはある。そのときも鏡のような湖面の美しさに目を見張ったものだ。だが、真正面から神殿を見たことはなかった。神殿――町にある分殿ではなく、湖に浮かぶ本殿を訪うことを許されるのは、今日のメアリのように祝福を授かるか、結婚式などの特別な機会に限られるから。
空の青と神殿の白。まさに神域としか言いようのない光景に、メアリは息をすることも忘れて見入った。
圧倒的な神殿の美しさに言葉も出ない愛娘を、父は優しく抱き下ろす。
「パパ?」
「ここから先は歩きだよ、メアリ。」
両親に手を引かれて、ゆっくりと参道を歩む。
「メアリはどんな祝福を授かるのかな。」
心底いとおしいというように目を細める父に、メアリは「楽しみだね」と笑顔で答えながら、内心だらだらと冷や汗を流す。
(そういえばそうだった……!)
優しい両親の元に生を受けて七年と少し。これまでに集めに集めた情報から、メアリはひとつの仮説を立てていた。
(エレンダール帝国、帝都シェリエール、精霊の祝福、アウラ湖の貴婦人……。)
そして自分の名前、メアリ・フェイバー。
(ここまで共通点がある以上、ただの偶然と考えるより、ここがティーテーブルワールドだと考えるのが自然だよね。)
まさか自分が腐れ縁の幼馴染が主催していたサークルの同人ゲームの世界に転生するとは、神様もびっくりだ。というか、ゲームの内容を覚えていた自分にもびっくりだ。
まあ、それはまだいい。作ってる本人は変人だったが、作品世界そのものはわりと普通――作品にもよるけど、どちらかといえば大人しめのファンタジー世界だったから。
問題は、どのゲームの時代に生まれたのかということ。そして自分がゲームの展開に絡む可能性があるのかということ。
なにしろ、凝り性の幼馴染が作るゲームはすべて、ひとつの世界観から成り立っていた。時代は違うこともあるけれど、基本的に同じ国、同じ帝都が舞台だった。だから、国名や設定に覚えがあっても、どのゲームの時代かはわからない。帝都であれば、文明の進み具合とか街の様子とかで推測できたかもしれないが、残念ながらここはのどかな田舎町だ。首都のニュースもろくに入ってこない。となると、判断要素は登場人物、人の名前だ。
残念ながら、メアリには自分の名前に心当たりがあった。心当たりはあるのだが――幼馴染が作るゲームは基本的にすべて帝都が舞台だから、あるゲームの登場人物が別のゲームでサービス的に少しだけ登場、なんてこともたびたびあった。だから心当たりがあるとはいえ、必ずしも自分がゲームの主要人物とは限らないはずだ。そもそも、メアリなんて平凡な名前だから、同姓同名がぜったいにありえないとも言えないし。自分の名前だって、父方の祖母の名前をもらったのだし。
(でも『鏡の祝福』を授かるようなら……。)
そうしたらさすがに対策を考えないとまずい。『鏡の祝福』は数ある祝福の中でも少し特殊だ。それを授かってなお、偶然だと強弁することは難しい。授かったが最後、恐れていた事態――乙女ゲームルートの確率が跳ね上がってしまう。
周りの人間が美形――某国映画のプレミア試写会でレッドカーペットの上をタキシードとデコルテがっつり開いたドレスで歩いていても違和感ないんじゃないかってレベルの美形――ばかりな時点で望みは薄いんじゃないかという気もするけれど、それはそれ、これはこれ。明確な証拠を突きつけられるまでは、そんなことないと信じたい。
だからメアリは懸命に祈った。神殿の祭壇の前で跪いたときも、白いローブの神官から黄金色の香油を注がれたときも。
(お願いです、湖の貴婦人。特別扱いなんていりません。パパかママと同じ祝福を授けてください。)
それならパパもママも喜ぶ。メアリも嬉しい。三方丸く収まり、誰もがハッピーだ。
だが、メアリの必死の祈りもむなしく、事態は最悪の方向に転がった。メアリの額に香油で聖印を描いた神官の指がぼうっと光り、興奮気味の神官が恐れていた一言を告げる。
「おめでとう。湖の貴婦人はあなたに『聖の祝福』を授けました。」
「まあっ!」
目を潤ませ、頬を上気させて驚喜する母。その勢いのまま、メアリに抱きついた。
「すごいわ、メアリ! さすがパパとママの娘ね!」
「ああ! まさか『聖の祝福』を授かるとは思わなかった。おめでとう、メアリ。」
父も興奮した様子で母ごとメアリを抱きしめる。大喜びの両親には悪いが、メアリは今、それどころじゃない。
「パパ!? ママ!? ちょ、苦しっ、」
「ああ、ごめん、メアリ。」
「ごめんなさいっ! 大丈夫? 苦しくない?」
慌てて力を緩めてくれた両親の腕の中から顔を出して一息つく。
「だ、大丈夫。それより、神官様! それ、ほんとですかっ!?」
「信じられないのも無理はありません。ですが、本当のことですよ。おめでとう、メアリ。あなたはわたくしたちの新しい妹です。」
(そ、そんな……。)
『聖の祝福』、それは『鏡の祝福』と同義だ。つまりこの世界は乙女ゲーム『君の瞳に祝福を』の世界であることを意味する。
(いいえ。絶望するのはまだ早いわ!)
要はゲームと同じ状況を作らなければいいのだ。ひそかに握りこぶしを固めてメアリは決意する。
(ゲームの舞台は帝国アカデミー。つまり、上京しなければゲームは始まりもしないはず!)
授かってしまったものはしょうがない。ならば次善の策はいかにのっぴきならない事態に陥るのを回避するか、だ。
メアリの場合、そのあたりは実に簡単に見えた。帝都にある帝国アカデミーに入学しなければそれで終わる。なにも問題ないように思えた。それなのに――
「特待生? 何ですか、それは。」
いつものように、神殿で修行……と言う名の雑用をこなしていたら、上司である神官――シスター・リセルの執務室に呼び出された。樫の執務机に両手を着いてメアリは身を乗り出す。
「わたし、修行中の身ですよ?」
「それがねえ。どうもはっきりしないのだけど……。」
シスター・リセルは頬に片手を当てて、ほうとため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだ。
「特待生として迎えるから、メアリに帝国アカデミーに入学しませんかって。」
「名指しで、ですか?」
「いいえ。でも、うちで帝国アカデミーに入学できる年齢の神官といったら、あなたしかいないでしょう?」
それなら名指しと同じだ。でもなぜ?
(まだ十二歳なのに!)
ゲーム開始は高等科一年からだったはず。少なくともあと三年は先だったはず。なぜか展開が早まっている。
シスター・リセルはメアリの様子を心配するように眉をひそめた。
「顔色が悪いわ。大丈夫?」
「……いえ。急なことで驚いてしまって。」
「そうよねえ。入学するとなると親御さんの元を離れて寮生活になるし……準備が大変よねえ。」
今から準備して入学式に間に合うかしら? おっとりと的外れな心配をするシスター・リセルに、メアリは修行中であることを示す黒いベールで覆った頭をかきむしりたくなった。
ちょっと待て。確定事項のようにしゃべるんじゃないっ!
「……シスター・リセル、それは決定ですか?」
怒りをこらえて声を絞り出すと、シスター・リセルはこてんと首をかしげた。
「? 決定ではないけれど、悪い話じゃないでしょう?」
「先ほども申し上げましたけど、わたしはまだ修行中の身です。神殿を離れるなんて考えられません。」
「それなんだけど……。」
おっとりとした顔をきりりと引き締めて、シスター・リセルが執務机の上に両手を組んだ。
「ここ数十年、帝都の神殿に問題が起きているのは知っていますね。」
「……はい。」
真面目な話を察して、メアリは姿勢を正す。
シスター・リセルの問いは問いじゃない。確認だ。一般人ならともかく、帝都の神殿が抱える問題を知らぬ神官など、おそらくいない。新たに『聖の祝福』を授かる者がいない。精霊の御魂を鎮める神官がいない。その異常性と深刻さも併せて、誰もが憂慮している。
「ケネス卿ははっきりとはおっしゃいませんでしたが、帝都の神殿は湖の貴婦人の神官が事態を改善できると考えているようです。」
マーロン・ケネスはこのあたりを預かる子爵、代官だ。
(つまり中央からも話――圧力がかかってるってことか……。)
政治まで絡んでくるとは。
メアリはどうも、この世界を甘く見ていたらしい。きゅっと眉根を寄せて考える。
ゲーム世界の強制力か、ゲームが現実化したことにより理由付けが必要になったのかまでは知らないが、「そんなの知りません」では済ませられなくなっている。
「あなたには帝国アカデミーに入学し、問題の解決に努めてもらいたいと、そう考えています。」
「……本当に、わたしにそんな大それたことができるとお考えですか。」
最後の足掻きのようなメアリの問いに、かつてメアリに祝福を授けたシスター・リセルは目を閉じて首を横に振った。
「いいえ。ですが、帝都の問題の解消は、ひいてはわたくしたちのためでもあります。帝都が霊的に不安定化するなど、誰も望みません。それにわたくしたちにも同じ問題がいずれ降りかからないとも限らない。解決策を模索することはお互いにとって悪いことではありません。」
「シスター・リセル……。」
おそらくシスター・リセルは、メアリが大任を前に不安になっていると思ったのだろう。安心させるように穏やかに微笑んだ。
「不安に思う必要はありません。どのような理由かは存じませんが、数ある精霊神殿の中でわたくしたちが選ばれたのには理由があるはずです。過剰に心配せず、あなたはあなたのなすべきことをなさい。」
もちろん、メアリはそんなことを心配していない。この世界は乙女ゲームの世界なのだから、メアリなら――むしろメアリだけが問題を解決できる。解決する方法も知っている。メアリを名指ししたのもきっと、裏に誰か、それを知っている人がいたのだろう。乙女ゲームの事情を知っている誰かが。
(わたし以外の転生者……。)
うかつだった。転生者が自分だけとは限らない。誰かがシナリオどおりに話を進めようとしている。その可能性をまったく考えていなかった。話が三年も前倒しになったのもおそらく、そいつのせいだ。
(完全にしてやられた。先手を打たれた……。)
メアリはうつむいて唇を噛み締める。
「ご両親の元を離れるのは心配でしょうが、できるだけサポートします。わたくしたちのためにも、行ってくれますね、シスター・メアリ。」
「……はい。」
こんなときでもやっぱり、ノーと言えない日本人は健在で。
うつむいて肩を震わせるメアリを、シスター・リセルが心配そうに見つめる。任務と新しい生活に緊張していると思ってくれればいいが。実際は拳を握り締めて決意を新たにしていたのだから。
(こうなったらイベントはぜったい起こさない。おかしなフラグは徹底的に叩き折ってやる!)
結局シスター・リセルに勧められるまま、メアリは帝国アカデミーに進学した。だが、いつかの決意どおり極力目立たぬよう、ひっそりと過ごすことに腐心する。寮生活を送りながら学び舎と神殿を往復する日々。足しげく通うメアリの努力にも関わらず、帝都の神殿の問題は結局解消されることはなかったが、それも仕方ない。メアリは攻略対象を避けまくっていたのだから。お世話になったシスター・リセルの期待に応えられないのは辛かったが、せっかく転生して得た二度目の人生だ。自分の身はかわいい。
事態が動くのはアカデミー入学からさらに三年後――メアリ十五歳の初夏のことである。