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精霊の祝福  作者: 裏庭集会
第二幕
7/34

ユイとユートと舞台裏

「……ユイ。」

 父の声に、ユイははっと顔を上げる。どこか痛ましそうに自分を見る父の視線に背筋を伸ばした。

(これじゃ、ダメだ。)

 自分を哀れんで泣くのはいつでもできる。わざわざ多忙の父の時間を割いてもらったのだ、やるべきことをやらないと。

 本当は、今すぐ部屋に戻って思う存分泣きたい。心の底から、感情のまま喚きたい。食べきれないくらい、甘いものを食べまくって自分を甘やかしてやりたい。そうすればこのずたぼろの気持ちも浮上するはずだから。

 でもそれは、今じゃない。

 ユイは微笑んだ――微笑めているはずだ。笑顔を作るのは慣れている。

「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてました。大丈夫です。」

「そうか。」

 ユイの態度に思うところがあったかもしれないが、父は何も言わなかった。今のユイにはそれがなによりありがたい。

 代わりに父は、視線を後ろに向ける。

「ジョージ、きみは? 何かあるかね?」

「お嬢様には特にございませんが……お屋形様は、六年後に本の通りに話が進むとお考えですか?」

「――いや。」

 筆頭家老の質問に、父は首を横に振る。

「今その判断を下すのは早計だろう。『鏡の聖女』の実在が確認できていない。まずは現状把握からだ。」

「攻略対象については素性もはっきりしていますから優先順位を上げれば明日の朝には第一報を上げられると存じますが――残念ながら北部高地地方には伝手がございません。『鏡の聖女』についての資料を揃えるには、時間がかかるかと。」

 申し訳ございませんと頭を下げる筆頭家老に、父は再び首を振った。

「時間ならある。急がなくても構わないから、できるだけ正確で詳細な情報を集めてくれ。とりあえず、帝都に戻る前にもう一度話し合いの機会を持てればいい。」

「かしこまりました。」

「頼んだ。それとこれはここだけの話だが――」

 身を乗り出し、いつになく低い声でささやく父に、ユイをはじめ全員の背筋が伸びる。理由もなく、もったいぶったことを言う人ではないとみんなが知っているから。

「ここ数十年、帝都に――帝都の地水火風の各神殿に神官が生まれていないのは事実だ。これらの神殿でまっとうに神事が行われなくなって久しい。」

 ユイの目が丸くなる。

(そんな……本の通りになっているというの……?)

 幻の本には書いてあったけれど。けれども、実感に乏しいまま書かれていることを読むのと、父から現実として聞かされるのでは大違いだ。

 お山の神殿を守るナギ様。亡くなってしまったけれど、ユイと同じ祝福を授かっていたユイの母。そしてユイ本人。確実に世代を重ねるラグロウズでは、神官がいないなどいう事態が、そもそも考えられないのだ。

 神事が行われない。それがどんな事態を招くのか――本に書いてあるように、本当に祝福の力が暴走したり使えなくなったりするのか。

 ユイには想像もつかなかった。

「必要以上に身構える必要もないが、用心に越したことはない。そのつもりで、考えておいて欲しい。」


 仕事があるからと、ユイ・マリエ・ユートの子供たち三人は促されて――というより追い出されるようにして領主の執務室を出る。どんな音でも遮ってしまいそうな分厚い扉が閉じた途端、マリエはユートの腕をがっしりとつかんで叫ぶように告げた。

「お嬢様! すいません、あたしはちょっと野暮用があるのでお先に失礼します!」

「い、いいけど……マリちゃん?」

 マリエの剣幕に目を白黒させたユイがどうしたのかと手を伸ばすも、

「すいません、この埋め合わせは近いうちに必ず! 先にお部屋でお待ちなっててくださいね!!」

 ぺこりと頭を下げたマリエはユートの腕をつかんだまま、彼を引きずるように足早にきびすを返し、すぐ脇の階段を下る。

「ちょっ、マリエ!? 腕っ、そんなに引っ張ったら腕、抜ける!」

「うるさいっ! 黙って付いてきなさい、このバカ兄っ!」

 次第に遠ざかる仲の良い兄妹喧嘩を聞きながら、ユイは伸ばした手をゆっくりと下ろした。

「……お部屋、戻らなきゃ……。」

 そうすれば今度こそ、思う存分泣けるだろうから。

 思う存分泣いて、そしてまた、いつもの前向きな自分を取り戻すのだ。


 下手に行き合って気まずくなるのも微妙だし。

 ユイは執務室前で少しだけ待ってから、階段を下りた。案の定、マリエもユートも階下にいなかった。そのまま母屋の自室に戻る――そのつもりだった。

(……?)

 気づいたのは偶然だ。使われたところを見たことがないビリヤードルームの扉は、いつもどおりぴったり閉じていた。だが、ビリヤードルームの扉も壁も、父の執務室ほどには厚くはなかったらしい。そして、ささくれ立ったユイの心は争いの気配に敏感だったらしい。普段ならきっと気づかないだろうけれど、中に人がいる気配がした。人が、言い争っているような気配が。

(マリちゃん?)

 怒っているような高音はマリエの声だろう。とすると、相手はユートだろうか。

 つかの間ためらったが、好奇心に勝てなかった。ユイは扉に耳をぴったりとつける。だがよくよく耳をすましてみても、中で何を言っているのかわからない。焦れたユイはドアノブに手をかけ、ゆっくりとまわす。

 日ごろ使われない遊戯室であっても手入れは万全だったようで、扉は音もなく開いた。手入れしてくれている女中たちに再び感謝しつつ、薄く開いた隙間から、ユイはこっそり中を覗き込んだ。

 ビリヤード台のそばには、こちらに背を向けるユートと、ユートに詰め寄るマリエが見えた。思ったとおり、言い争っているようだ。いや、言い争うというよりは、マリエがユートに一方的に詰め寄っている感じか。

「しんっじらんないっ! これだけ言ってもまだわかんないの!?」

「だからマリエ。わかるわからないの問題じゃなくて、僕たちに姫様の行動をどうこう言う権限なんかないんだよ。」

「だから権限がどうのって話じゃないんだってば! なんでわっかんないかなあ!?」

 今にも地団駄を踏みそうな勢いのマリエを、ユートはなんとかなだめようとしているらしい。だがその泣く子をあやすような態度が、マリエの怒りを加速させ、余計にいらだたせるようだった。

(……どうしたんだろ。マリちゃん、あんまり感情的に怒ったりしないのに。)

 普段のマリエはくるくる表情を変えるものの、その実、あんまり感情に振り回されるタイプじゃない。伊達や酔狂で無敵の鉄面皮を標榜していないのだ。ニコニコ笑っている裏側で、些細なことに一喜一憂しているユイに比べれば、喜怒哀楽を隠さないだけで、はるかにしっかり感情をコントロールしている。そのマリエがユートに対して理不尽なまでの怒りをぶつけているように見えた。

「権利じゃないの! 理屈じゃないの! できるできないの問題じゃなくって、お嬢様はただ、兄さんに行くなって言って欲しいだけなのよ!?」

 扉にかけたユイの手がピクリと震える。

 隠しもしないユイの気持ちなど、常にそばにいるマリエには筒抜けだろう。そんなのわかっている。わかっているけれど――

「言えるはずはないだろう。そんなの、明らかな越権行為だ。」

「それでも言って欲しいのが女心ってもんでしょうが! いい? お嬢様はね、」

 ――やめて。それ以上は言わないで!

「お嬢様はっ」

 だんっと大きな音がした。驚いたマリエは口を噤み、ユイは扉に張り付いたまま固まった。

 ユートが遊戯室の壁に拳を打ち付けたのだ。

「マリエ。」

 凍りついたその場の空気を溶かすように、甘やかな声音でユートは妹の名前を呼ぶ。おそらくとろけるような笑顔もセットで。ユイには後姿しか見えていないにもかかわらず、その笑顔をはっきりと思い描けた。きっと少し困ったような、わがままな子供を見るような、仕方がないなあと言わんばかりの優しい笑顔を浮かべているに違いないのだ。

「マリエ。」

「な、なによ。」

「僕の立場は変わらない。何があろうと、姫様のお望みを叶える。姫様がアカデミーに行きたいと仰るならお連れするし、会いたい人がいるなら、手配する。それだけだ。だから――ですから、ご安心ください、姫様。」

 振り返り、ユートはユイに向かって頭を下げる。執務室と同じように。そしてまったく同じように、ユイの気持ちもどん底に突き戻される。

(ひどいよ……。)

 なんとかこらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出す。耐え切れず、ユイはその場にしゃがみこんだ。

(ひどいよ。二回も言うことないじゃない……。)

「え、嘘、お嬢様!? なんで!?」

 マリエが駆けつけて、うずくまるユイの背中を撫でてくれるが、それで浮上できるものでもない。ぽろぽろとこぼれる涙を止められない。

「――わたくしは、これで。」

「に、兄さん!?」

 泣きじゃくるユイから露骨に視線をそらしたユートが、一礼してその場を後にする。ユイのいる出入り口とは反対側の扉から出て行く彼は、出て行こうとするその瞬間、足を止めたかのように見えた。でもそれもユイの願望が見せた幻かもしれない。

 目を丸くしたマリエは、兄を追いかけるかユイの背中を撫で続けるか迷ったらしく一瞬その手を止めたが、結局その場にとどまった。

「ああ、もう! すいません、お嬢様。あのバカ兄には後できつく言い聞かせますから。」

「……ない、もん。」

「え?」

 うつむいてほろほろ泣き崩れていたユイがきっと顔を上げた。流れる涙はそのままに、目を丸くし口をあんぐりと開けるマリエにつかみかかる。

「ユートさん、だけじゃ、ないもん! マリちゃんだって、ひどいじゃない! わたしに嘘ついたっ!」

「う、嘘なんてついてませんっ!」

「嘘! 『気まぐれ』のこと教えてくれなかったじゃないっ! わたし以外の人はみんな知ってたのに!」

 そのときのことを思い出すと、またもや目の前が真っ暗になるような気がする。自分だけが知らされていなかった事実に、自分だけが取り残されたような気持ちになる。

 ユイも父のことを何もいえないのだ。置いていかれる恐怖は、父だけのものではない。冷たい手に撫でられるような、心がすうっと冷えていくあの瞬間の恐ろしさは、誰よりも知っているから――

「二人とも、ひどいよ……。」

「お嬢様……。」

 なだめるように背中を撫でていたマリエの手が止まる。何事かとユイが顔を上げる間もなく、マリエはユイの背中を引き寄せた。抱き込まれるままに、ぽふんとマリエの胸に収まったユイの頭を、ぽんぽんと軽く叩く。

「嘘をついてもいませんし、わざと黙っていたわけでもありませんよ。」

「……じゃ、なんで。」

「タイミング? わざわざ言う理由も機会もなかったんです。昔、お嬢様が『気まぐれ』に気づいて倒れられたことがありましたよね? それで自分のもそうなんだろうなって思って家族には相談しましたし、お屋形様には父さんから報告が上がったんでしょうが。」

 マリエの胸に手をついて身を起こすと、特に抵抗もなく離れられた。ユイは、「それだけのことですし」と、うんうんとうなずくマリエを半眼で睨みつける。

「別の人の記憶があるなんて、びっくりするようなことなのに?」

「実際は、だから何? って感じですよ。役にも立ちませんし。……逆に聞きますけど、お嬢様は例の本の『ユーフィーミア様』がご自身だって、実感あります?」

「……ない。」

 実感などない。むしろ、あってたまるかと思ってるくらいだ。あんなの別人だ、別人。

 マリエは「でしょう?」と苦笑する。

「普通に生活してて、そんなもの思い出しもしませんよ。特にお嬢様の前では。お嬢様のこと以外、考える余地なんかありません。」

「……それ、暗にわたしがめちゃくちゃ手がかかる子だって言ってる?」

「ご理解いただけているようで、なによりです。」

 晴れやかなまでににこやかに笑うマリエに、ユイは唇を尖らせる。

 いくらなんでも、そこまで言われるほど酷くはないと思う。思うのだが……今現在、絶賛駄々こね中、なだめられ中の身としては反論が難しい。

「じゃあ、もう嘘つかない?」

「つきませんよ。ついたこともないでしょう?」

「隠し事しない?」

「あー……。」

「するんだっ!?」

 露骨に目を合わせないマリエに、ユイの悲鳴が上がる。そんなユイの様子に、ごまかすことを諦めたのかマリエが肩を落とした。

「だってお嬢様、正直に何でもかんでもしゃべっちゃうじゃないですか。」

「そ、それはっ」

「正直は美徳ですけど、お嬢様のはちょっと……。機密事項だってありますし、なんでもは無理です、なんでもは。」

 ため息をつくマリエに、ユイはうっと言葉を詰まらせる。

 マリエの言い分も理解はできるのだ。ユイはどうも隠し事が苦手――壊滅的なまでに下手で、黙ってなくちゃいけないと思えば思うほど顔に出るし、口を滑らせてしまう。今のところは素直だね、と微笑ましく思われている程度ですんでいるけれど、今後もそうとは限らない。わざとではないにしろ、守るべき秘密を守れないのはきっと、大人になるには望ましくない傾向だろう。

 だから理解はできる、理解は。納得できるかどうかは微妙だが。

 うーうーうなるユイの頭を、苦笑するマリエが優しく撫でる。

「でもこれだけは確かです。マリエはお嬢様のおそばにおります。おそばでお守りします。けっして裏切ったりしません。」

「絶対に?」

「絶対に。ですから、もう泣かないでください。」

「……わかった。ヤケお茶付き合ってくれたら、許してあげる。」

「……ヤケお茶ですか。わかりました。準備します。」

 マリエのことは許しても、ユートのことで気持ちの整理がついたわけじゃない。胸の痛みが消えたわけじゃない。それでも、甘いものがそこまで好きでもないのに付き合ってくれるマリエを思えば涙も止まるというもので。

「お茶請けはお団子がいいな、三色の。」

「はいはい。」

 聞き流すようで、きっと希望通り手間のかかる三色団子を持ってきてくれる従姉を思えば、自然と笑みがこぼれるというもので。

 くすくす笑いながら、ユイは立ち上がった。


 自室に戻ったユイは、マリエが用意してくれた三色団子を口いっぱいにほおばった。お行儀が悪いことはわかっているから、いつもなら絶対にやらない。第一、やったら叱られる。でも今日はヤケお茶だと宣言していたせいか、マリエも何も言わなかった。

 甘いお団子をおなかいっぱい味わい、ちょっぴり苦いお茶をすすり、口が空っぽになればマリエに向かってユートへの不満をぶつける。

 思いっきり泣いて、思う存分甘いものを堪能し、気が済むまで文句を言ったら、いつしか夕方になっており――気分はすっかりすっきりしていた。

「ずいぶんマシな顔になりましたね。」

「……つき合わせてごめんね。ありがとう、もう大丈夫。」

 何回淹れ直してもらったかわからないお茶を口に含む。温かい湯飲みを両手で包み込むように持ちながら、ユイは上目遣いでマリエの様子を伺った。丸々半日はユイの愚痴と泣き言を聞いてもらったわけで、落ち着いてみれば、ずいぶん恥ずかしいことをしたと思う。さぞ呆れられているだろうと思ったが――マリエはいつものように笑うだけだった。

「いいえ。それで? わからずやで過保護で唐変木の朴念仁……でしたっけ。そんな兄さんのこと、嫌いになりました? 見限る決心はつきましたか?」

「マリちゃんのいじわる。そんなの、聞かなくってもわかってるじゃない。」

「わかりませんよ。あたしはお嬢様じゃないんですから。それで、どうなんです?」

 ――わかってるくせに。

 ユイはぷうっと頬を膨らませたが、ニコニコ笑うマリエに諦めて肩を落とした。

「ないよ。諦めない。だって好きだもの。」

 妹扱いされたくらいで諦めるようなら、最初から『お兄ちゃん』なんか好きになってない。だからがんばる、とユイは拳を握り決意を新たにする。

「そうですか。」

 そんなユイを見守るマリエは変わらず穏やかに微笑んでいたが、少しだけその視線が柔らかくなった気がした。

「ではそんな頑張り屋さんで良い子のお嬢様は、少しお休みになってください。いろいろあってお疲れでしょうから。」

「……マリちゃん。わたし、泣き疲れて眠るほどお子様じゃないよ?」

「お昼も抜きでお団子ばっかり召し上がるくせに?」

「……。」

 返す言葉も見つからないとはこのことか。

 にやりと笑うマリエに、自分でも拙かったかなと思うところをピンポイントで突かれて、ユイは押し黙るしかなかった。

 どの道、話の途中から目をこすっていたのだから、眠気が訪れていたのはバレバレだったのだろう。そもそも昨日が遅かったし。元から寝不足だし。そう自分に言い訳して、おとなしくマリエに世話を焼かれるに任せる。

(でも赤ちゃんじゃないんだから、ぽんぽんってするのはやりすぎだと思うの……。)

 それでも温かい手も、温かいお布団も気持ちよくて。

 ユイは速やかに訪れた眠りに身をゆだねた。


 ことり。かすかな物音にユイがを覚ましたときには、日はすっかり暮れていた。

 もぞもぞと布団から抜け出したユイは、ふぁとあくびをし、しぱしぱする目をこすった。寝ていたせいか、のどもすっかり渇いている。

(……何時間寝てたんだろ……。)

 ほんのちょっとだけ休むつもりだった。お昼寝程度のつもりだったのだ。こんな暗くなるまで眠りこける予定ではなかった。

(それくらい疲れてたってことなのかなあ?)

 蝋燭の火が頼りの薄暗い中で目を凝らして時計を確認し、「うわあ。」と頭を抱える。日が暮れるどころか、夕餉の時間すらとっくに過ぎていた。まさか夕餉をすっぽかすほど、しっかりきっちり熟睡するとは思わなかった。

 父は心配しただろうか? マリエが説明してくれただろうから大丈夫だとは思うけれど。そして心配性の『お兄ちゃん』は?

(ユートさんに明日謝らなくっちゃ。)

 今日の態度も含め、きっと心配をかけたに違いないのだから。

 とりあえず今は乾いたのどを潤そうと、水差しに手を伸ばす。こくこくと冷たい水で一息ついたところで――気が付いた。

(……?)

 首をかしげて、丸窓にはまった障子に手をかける。障子の向こう側は縁側になっている。夜も遅いこの時間に誰かがいるはずがないのに――

「……なんで開けるんですか。」

「ユ、ユートさん!?」

 雨戸が閉まり灯りもない暗い縁側で、ユートが壁に身を預けるようにして座っていた。なぜかは知らないがものすごく不機嫌なようで、丸窓から身を乗り出したユイをじろりと睨むように見上げる。

 いつもは甘いユートから厳しい視線を向けられて、ユイはひるむ。だが、事態はそうも言っていられない。

「な、なんでこんな時間にこんなところにっ。か、風邪っ! 風邪ひいちゃうよ!?」

「ご心配なさらなくても風呂上りですから、平気です。そんなことより、ユイ様です。なんで開けるんですか。」

「な、なんでって……。」

 どうしたのだろう。ユートが怖い。

 ゆらりと立ち上がったユートはにこりともしておらず、無表情の緑の目に見下ろされ、ユイは思わず逃げ出したくなった。

「音が、した、から……。」

「こんな時間に相手を確認もせずほいほい開けるとは何事ですか。不審者だったらどうします。」

「……。」

 そんなことを言われても。

 ここはユイの家だ。外やよそのお宅ならばいざ知らず、自分の家にいて不審者を疑う必要性などあるはずもない。

 とはいえ、真顔で目を細めるユートにそんなこと言えるはずもなく。

「……ごめんなさい。」

 素直に謝るとユートは肩の力を抜いて息をついた。凍りつくようだった視線が少しだけ和らぐ。

「気をつけてくださいね。特に男は。ユイ様じゃあ、抵抗したってかなわないんですから。」

「はぁい。」

 そんなこと言ったらユートだって男じゃないか、とか。なんで家の中の、しかも自分の部屋でそこまで言われなきゃならないのか、とか。言いたいことはあるものの、今逆らうのも得策じゃない気がして、ユイは素直に返事をする。

 素直に返事をしたのに、ユートになぜかため息をつかれてしまった。

「わかってませんね。……まあ、いいです。出てきてくれましたから、僕の勝ちです。勝ったんですから、ご褒美をいただけますか、ユイ様?」

「勝ち? ご褒美って……。」

「三分でいい。ユイの時間を僕にちょうだい。」

「へ?」

 考える間もなかった。

 ユートの手がユイの後頭部を捉え、そのまま引き寄せる。

(へ? え? ええええええ!?)

 気が付いたらユイは、ユートの胸に額を押し付けるように抱き寄せられていた。

「ユユユユユートさんっ!?」

 ユイの頭を抱えるユートの腕にはほとんど力が込められておらず、振りほどこうと思えば振りほどけるだろう。ただ全身を棒のように硬くしたユイが、まったく動けなかっただけで。

「静かに。夜中だよ?」

 ユイの頭に顎をつけて話しているらしい。いつもとは違い、体の中を直接通るようなユートの声に、ぞくぞくした。

(なにっ!? なにがどうなってるのっ!?)

 我知らずユートの服を握り締め、ユイは固く目を瞑る。

 これだけ密着しているのだ。そんなユイに気づかないはずはないのに、ユートはこれっぽっちも気にする様子を見せなかった。いつもと変わらない穏やかさで、いつもとぜんぜん違う砕けた口調で続ける。

「ユイはもっと、わがままでいいんだよ。」

(わが、まま……?)

「お屋形様のご息女だとか、お山のヌシ様の聖女だとか、そんなことに縛られずにユイが望むことを素直に求めていいんだよ。誰が何を言っても、僕がユイのやりたいことを応援するから。」

 ゆっくりと頭を撫でられる。なだめるように。落ち着かせるように。

 ユートの胸にしがみついている現状にユイの心臓は早鐘を打ったままだったが、それでも少し考える余裕が出てくる。

「わたし、結構わがままだよ?」

 今日だって、ユイの都合で父の時間をだいぶもらったし、マリエには半日愚痴につき合わせた。ユートには甘やかし放題甘やかされているわけで、自分がわがままも言わない良い子だとは思わない。

 なのに、ユートはそんなユイを鼻で笑うのだ。

「そんなの、かわいらしいものだろう。ユイのわがままはいつだって、僕かマリエでなんとかできる程度でしかない。立場と役目で雁字搦めになってるのに、本当にやりたいこと、ちゃんとできてる? 欲しいもの、ちゃんと言えてる?」

 ――ああ、そうか。この人はきっと、本当にお見通しなのだ。

「……アカデミーのこと?」

「アカデミーのことも、だよ。『気まぐれ』なんかとは関係なく、興味があるくせにやせ我慢しちゃって。」

(そっかあ。)

 ユイの口角が自然に持ち上がる。

 ユートにはユイの気持ちなどバレバレだったのだ。だから、アカデミーに行きたいんじゃないか、なんて言ったのだ。

 そうとわかると、無性に笑いたくなってしまうのが止められない。

「もちろん、興味はあるよ。ないわけないじゃない。お父様も、ユートさんも、ジョージ伯父様も、みんなみんなアカデミー出身なんだよ。」

 そもそも、華やかな帝都への憧れがないはずないのだ。ユイが育ってきたラグロウズはとても良いところだけれど、どこまでも田舎で、朴訥としていて、のどかで。それはそれで素晴らしいことなのだろうけれど、やはり都会には憧れる。帝都の名前の由来にもなった初代皇帝と泉の乙女(シェリエール)の叙事詩だって大のお気に入りだ。気にならないはずがない。

 帝国アカデミーだって、自分は行けないけれど、学習意欲のある優秀な子供たちはカタスカーナ家の後援で毎年何人も入学している。いずれ弟たちも入学するし、マリエの年子の妹は今からもう準備を始めている。

 ユイにだって、好奇心はある。行ってみたい、誰かの話じゃなくて自分の目で本物を見てみたい、その場に立ってその場の空気を味わってみたいと、思わないわけじゃない。

(――でもね。)

「あのね、ユートさん。」

 ユートの胸にくっつけていたおでこを上げる。ユートはユイの後頭部を支えたまま、どこか困惑した様子でユイを見下ろしていた。

 たぶん、不思議なのだろう。頬を赤く染めて、眦を下げて、ユイが笑うから。

「わたし、ユートさんが思ってるよりきっと、ずっと、欲張りだよ。」

「それなら」

 言い募るユートの唇に人差し指を押し当てて止める。彼はきっと、ユイの希望を叶えてくれようとするだろう。でも、ユイの望みはそれだけじゃないのだ。

「わたし欲張りなの。みんな幸せがいいの。わたしだけじゃなくって、ユートさんも、マリちゃんも、お父様もエマくんも、ジョージ伯父様も、里のみんなも……みんな、みんな、大好きだもん。みんな幸せがいいの。みんなで笑顔になれるのがいいの。」

 そう。帝都に行けば、ユイの一時の好奇心は満たされるだろう。アカデミーに入学すれば、学生の間は領主()の娘に生まれたことも、聖女としての務めも、忘れられるかもしれない。

 でも、そんなことは望んではいないのだ。

「わたしが聖女のお務めを果たすことでみんなが笑顔になるなら、わたしはそっちを選ぶよ。わたし頭よくないもん。立場とか役目とか、そんな難しいこと考えたこともないよ。みんなで幸せになれるなら、それが一番。それだけだよ。」

「……諦め、じゃなくて?」

「なんで諦めるの? 諦めじゃないよ。わたしはラグロウズを選ぶんだよ。」

 ユイにとって、領主()の娘に生まれたことも、『聖の祝福』を授かったことも、同じこと、一つのことだ。分けて考えられることじゃない。立場や役目を放棄した自分は、きっとその時点で自分が知っているユイじゃない。

「ユイ……。」

「だからユートさんも。わたしの夢を応援してくれるんなら、みんなで笑顔になれる方法を考えてくれなくちゃ。」

 それが自分にとってのご褒美だ。

 彼の緑色の目をまっすぐに見上げてユイがそう告げると、ユートは泣きそうな顔で笑って、くしゃりと前髪を掻き揚げた。

「――敵わないな、ユイには。」

「ユートさん?」

「では帝都にお出でになることも、アカデミーに入学されることも、望まないと。そう仰るわけですね?」

 ユイの後頭部から手を離したユートは、すっかりいつもどおりのユートだった。

「うん。おうちが一番だもん。」

「そうですか。わかりました。……夜分遅く、失礼いたしました、ユイ様。もうお休みになってください。」

「あ、ちょっと待って、」

 会釈をして離れて行きそうになるユートに、慌てて手を伸ばす。いつもどおり袖の先をつかんで引き止めれば、いつもどおり笑顔で振り返ってくれて。

「わたしの夢、応援してくれる、んだよね?」

「もちろん。僕はいつだって、ユイ様の力になります。ご安心ください。」

「……うん。」

 自分でも単純だと思うけど。それだけで幸せになれるから、へにゃりと笑ってしまう。ユートさんも笑顔を返してくれるからなおのこと。

「ありがとう。わたしもがんばるね。」

「はい。」

「お休みなさい、ユートさん。」

「はい。お休みなさいませ、ユイ様。良い夢を。」

 単純だけれども、やはり、大好きな人の笑顔が一番幸せだから。

 二度目の眠りは、幸せの中に訪れた。


「では、本当に帝国アカデミーには行かないんだね?」

 後日行われた話し合いで父に確認されても、ユイは素直にうなずくことができた。

 後ろに控えてくれたユートを見上げれば、彼も笑ってうなずき返してくれる。

「ユイが望むなら、ナギ殿と調整するし、編入手続きも進めるけれど?」

「いいえ、お父様。お勉強もお仕事も、今までどおり家でできるんでしょう? なら、そっちの方がいいです。」

「そう? ジョージは厳しいよ?」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑られれば、ひるんでしまうけれど。

「うっ……。だ、大丈夫。がんばります。」

 とは言ったものの、あんまり嬉しくないのは顔にばっちり出ていたらしい。にやりと笑う父に、ジョージ伯父様は呆れたようにため息をついた。

「お屋形様。お戯れはそのあたりで。」

「そうだったね。――さて、みんなに集まってもらったのはほかでもない。例の『鏡の聖女』についてだ。」

 先日同様、領主の執務室に呼び出された三人は、改めて居住まいを正した。

「結論から言えば、メアリ・フェイバーは実在する。ほかの四名と同様にね。現在は十歳で、アウラ湖の精霊の神官見習いとして修行中だ。」

「……この本の通りに進んでいるんですね。」

 手にした幻の本の表紙にそっと触れる。

 アカデミーには行かないと決めたから、ユイが彼らに関わることはないけれど。それでも気にかかることに変わりはない。

「帝都の状況も変わりないんですよね?」

 帝都の現状。登場人物。着々と舞台は揃いつつあるのだろう。

 関わらないと決めたけれど――いや、関わらないと、何もしないと決めたからかも知れない。神官不足で不安定になるなんてことには、なって欲しくない。

 ユイの質問に、父はうなずいて応える。

「こうなったら、ユイの言うとおり、メアリ・フェイバーに『鏡の聖女』となってもらうほうが早いだろうね。『鏡の聖女』が実際にほかの精霊の御魂鎮めができるかどうかは未確認だが、試してみる価値はあるだろう。」

 せっかく『精霊様の気まぐれ』を授かったけれど。この知識があれば、きっと力になれるけれど。だけど何もしないと決めた。ユイは帝都よりふるさと(ラグロウズ)を選んだ。それだけだ。悪いことなどしていない。なのに――なのに胸が痛む。

 うつむいて唇を噛み締めるユイの頭を、父はぽんぽんと叩いた。

「いざとなればここからでも帝都に助言はできる。ユイが責任を感じる必要はどこにもないよ。」

「……はい。」

 今ユイにできることは、せいぜい幸運を祈ることくらいだ。そんなこと、わかっているから――ユイは目を閉じて彼らの幸運を祈った。彼らが無事に御魂鎮めの儀式を成功させられるように。帝都の人々が平穏無事に暮らせるように。混乱が起きないように。なにより、今までどおり、自分たちが笑って過ごせるように。


 事態が動くのはこの六年後――ユイ十八歳の春のことである。

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