ユイと家族と不思議な本
「マリちゃん!?」
どうやらマリエは、湯飲みのお茶でむせてしまったようだ。ユイは大慌てでマリエのそばに駆け寄って、背中をさする。
「大丈夫? のど、痛くない? やけどしてない?」
応えようと顔を上げるマリエはすっかり涙目だ。咳を止めようとしているが、上手くいかず激しく咳き込みながら上体を折った。
「だい、じょうぶ、ですっ。ちょっとむせただけですからっ。」
「無理してしゃべらないで。」
咳の合間に無理矢理声を出すのは、痛々しくて聞いていられない。
女中から受け取った手ぬぐいで、マリエの胸元にこぼれたお茶をぬぐう。
「……これ、染みになっちゃうかな? 大丈夫かな?」
「すぐに対処すれば問題ないかと。」
「そうだね。染み抜きの準備をお願いします。マリちゃんには着替えと新しいお茶も。」
お膳や畳にこぼれたお茶を黙々と片付ける女中たちに、追加でお願いする。そのユイの手を、マリエががっしりとつかんだ。
「マリちゃん?」
「お、嬢様っ、それより、さっきの、」
そしてまた、盛大に咳き込む。
「ああ、もう。だから無理してしゃべっちゃダメだって。わたしのことなら気にしないで?」
懲りないマリエの背中を軽くたたきながら、ユイはちょっとした満足感に浸っていた。
なにしろ、常日頃はしっかり者で自分を完璧に年下扱いする従姉の世話を焼ける機会など、そうはないのだ。堪能して何が悪い。
「違いますっ!」
だがマリエはユイに世話を焼かせていることに遠慮しているわけではないらしい。原因は定かではないが、ものすごく焦っているようだ。
マリエの異変にようやく気づいたユイが、目をぱちくりと瞬いて小首をかしげる。
「マリちゃん?」
「さっきの……ヘンなタイトルの本についてですっ! あたしも聞きたいですっ!」
「わたしは別に構わないけれど……お父様?」
視線を父に向ける。
先ほどから興味深そうに二人の様子を見守っていた父は、鷹揚にうなずいた。
「そうだね。でもここでするべき話でもなさそうだ。ジョージ?」
「本日午前中の予定なら明日以降に調整可能です。」
「だ、そうだ。二人とも――マリエの着替えが先だね。用意ができたら、執務室においで。」
そう言って席を立とうとする父に、「待ってください!」珍しくユートが食いついた。
「ユイ様――姫様に関わることでしたら、わたくしにもお聞かせください。」
「……君が聞いても、どうすることもできないよ? すぐに帝国アカデミーに戻るんだろう?」
「たとえそうであっても。わたくしにできることがあるかもしれません。いえ、それが何だって構わない。どんなに小さなことでも、自分にできることをしたいんです。」
「そう? わかった。いいよ、ユートも一緒においで。」
もとより強く反対する気などなかったのだろう。父がうなずくと、ユートはほっと息をついた。
「ありがとうございます。」
「気にしないで。あ、料理長。今日もおいしかったよ、ご馳走様。」
なぜか嬉しそうに微笑む父は、頭を下げる筆頭家老や料理長たちに見送られ、機嫌よく大広間を後にする。
残されたマリエは「お嬢様っ」と再びユイに詰め寄ったが、
「わきまえなさい、マリエ。」
父親であり上役である筆頭家老に叱責されてぴたりと固まった。
「着替えが先だ。お屋形様をお待たせするつもりか? 先にその見苦しい格好を何とかしなさい。」
「……申し訳ございません。」
「ユート、お前はわたしと一緒に来なさい。執務室の用意を整える。」
「は、はいっ!」
「ほかの者は食事が済み次第、各自持ち場に戻るように。」
「はい!」
てきぱきと手配する筆頭家老に、食後のまったりとした雰囲気だった大広間がざわざわと動き出す。マリエは着替えるために大広間を飛び出し、ユートは自分とマリエの分のお膳を片付けるように女中たちに依頼している。
手ぬぐいを握り締めたまま若干置いてきぼりを食った感じのユイに、筆頭家老は一礼した。
「申し訳ございません、お嬢様。準備が出来次第お迎えに上がりますので、今しばらくお部屋でおくつろぎになってお待ちください。」
もちろん、否やはない――というか、口を差し挟む暇もなかったユイであった。
カタスカーナ邸の母屋は、畳敷きで襖や障子といった建具によって仕切られたラグロウズ風にしつらえられている。ユイの私室もラグロウズ風だ。夏の暑さと湿気に対応するため、基本的に風通しを重視する造りになっている。一方で、離れの別館は煉瓦造りのエレンダール風だ。主に帝都からの客人をもてなすために使用され、応接室や談話室、客室のほか、台を片付ければ小さいながらもダンスホールになるビリヤードルームがあったりする。そして数えるほどしか入ったことがない、領主の執務室も。
用意が整ったと、迎えに来たユートに連れられて入った執務室は、重厚な雰囲気漂う部屋だった。天井近くから床まである両開きのガラス窓があるから明るさも開放感も十分なはずなのに、どっしりと重たい感じがする。
窓の手前には年季が入った紫檀の執務机。壁には大きな三種類の地図――世界地図と帝国国内の地図、そしてラグロウズ領内の地図。反対側には一面の書架。執務机の手前には座り心地のよさそうなソファと木目の美しいローテーブル。それらすべてが、父の仕事の重責を体現しているようだった。女中たちでは掃除にすら入れない、この部屋こそが、ラグロウズ領主の主な仕事場。
ユイは緊張で身を硬くしながら、恐る恐る父の向かいに腰掛ける。
(どうしよう。なにから話せばいいんだろう?)
大広間で話しかけたときは、あんなに簡単なことに思えたのに。今ではどう説明すればよいのかさっぱりわからない。なにしろ、ユイの悩みはちょっと非現実的なのだ。本人であるユイでさえ首を傾げてしまうというのに、父に話してもまともに受け取ってもらえるのか。信じてもらえるのか。そもそもそんな妄想に近い話で、忙しい領主の時間を貰ってよいものか。
「そんなに緊張しなくてもいい。」
父は苦笑しながら、紅茶を淹れる筆頭家老を一瞥する。
「お茶でも飲んで落ち着きなさい。」
「は、はい……。」
勧められるまま、ユイは目の前に置かれた白磁のティーカップとソーサーを手に取り、温かい紅茶を口に含む。一口、二口。おいしいかどうかなんてまるでわからないのは、いつもは緑茶ばかりで紅茶など滅多に飲まないから……ばかりではないだろう。それでも緊張で乾いた口内は潤い、ほんのり感じる甘みはユイを落ち着かせる。
「落ち着いたかい?」
「はい……。」
「急がなくていい。落ち着いて、最初から順番に話しなさい。」
目の前に座り、穏やかに目を細める父を見る。その後ろにはジョージ伯父様。ユイの後ろにはもちろん、駆けつけてくれたユートとマリエ。目が合えば、ユートもマリエも力強くうなずいてくれる。
大丈夫。ここには家族だけしかいない。何があっても助け合ってきた、どんな些細なことでも相談してきた、家族だけ。
(大丈夫。しっかりするのよ、ユイ!)
一息ついて覚悟を決めたユイが、頭の中の幻の本に思いを馳せる。目の前の空間が揺らぎ、姿を現した問題の本を手に取り、父のほうに向けて差し出す。
「お聞きしたかったのは、この本についてです。何かご存知じゃありませんか?」
「……そこに本、が、あるのかな?」
「見えませんか?」
父は困ったようにうなずいた。ジョージ伯父様も、振り返ればユートとマリエも困惑した様子だ。
(やっぱりか。)
他人には見えないんじゃないだろうか。そう、予想はしていても、実際に言われるとがっかりした。まずは自分がおかしいわけではない、嘘をついているわけではないと、信じてもらわねばならないから。
肩を落とすユイに、父は慌ててフォローに回る。
「信じていないわけじゃない。そこにユイの言う本があるんだね?」
嘘じゃない。信じて欲しい。その思いを込めて、ユイがうなずく。
それに応えるように、父も力強くうなずき返してくれた。
「大丈夫。見えないからといって、存在を否定するつもりはないよ。」
「朝餉のときも言いましたけど、これが『君の瞳に祝福をパーフェクトガイドブック~甘い魅惑のひと時をあなたに!~』というご本です。」
見えない相手に差し出していても仕方がない。
幻の本を手元に戻したユイは、父の目をまっすぐに見つめて説明する。実物を見てもらえない以上、ユイの話を信じてもらうほかはない。
「わたしが当たった『精霊様の気まぐれ』がこれだったことに、昨日の夜、気づいたんです。」
寝不足になってまで読み込んだ本の中身を、とつとつと説明する。
帝都シェリエールの状況について。主人公である『鏡の聖女』について。帝国アカデミーで彼女が出会う四人の『攻略対象』について。そして帝都が抱える問題点の解決策について。父に話すにはちょっと恥ずかしいような、主人公と攻略対象との恋愛についても、軽く触れる。恋をするお相手によっては、結末が異なることも。
とにかく、隠し事をするつもりはなかった。
話すにつれて、最初はリラックスして聞いていた父がだんだん身を乗り出してきたのが予想外だったけれど、悪い反応じゃない。
「最初はなりきり双六みたいな、ゲームの解説書だと思ったんです。でもそれじゃ何のために授かったかわからないし……。」
「『気まぐれ』なら、まったく実用にならない変な知識が与えられても不思議じゃないけどね。……話を続けて。」
恋愛ゲームの解説書について相談されても対応に困るのだろう。父は苦笑していたが、それでも話を聞いてくれる。続きを促してくれることに安心して、ユイは口を開いた。
「きっと、なにか理由があるのだと思いました。まったくムダな知識を授かったのだと、思いたくなかったから。それで最後まで読み進めて、気が付いたんです。自分の名前が載っていることに。」
げほっという音がして振り向くと、またもやマリエが咳き込んでいた。
「マ、マリちゃん? 大丈夫?」
「だ、大丈夫、です。」
「でも、具合悪いなら部屋で休んだほうが……。」
「いいえ! 大丈夫です! ここにいます、いさせてください、お願いします!!」
口元を押さえて苦しそうにしながらも、マリエは力強く言い切った。その姿に鬼気迫るものを感じて、ユイはもちろん、目を丸くした父も筆頭家老も何も言わなかった。
心配ではあったが、どこか必死なマリエの言葉を信じることにして、ユイは前を向く。
「えっと、それでですね、この本に自分の名前が載っている――わたしと同じ名前の人物が登場するんです。ユーフィーミア・フィーリア・カタスカーナ、帝国アカデミー高等科の三年生。主人公の先輩で、ライバルです。」
「……高等科、三年生?」
繰り返す父に、ユイは「はい」とうなずく。
そう、この本の中ではユイがアカデミー高等科の生徒として登場するのだ。ただし、今現在のユイの年齢は十二歳。アカデミーに入学可能となるのは次の春からで、高等科の三年とはさらに六年の開きがある。
「だからこの話は、未来の、六年後のアカデミーが舞台なんだと思います。」
「未来の出来事が書かれていると、そう考えるわけだね。偶然の一致――同姓同名の別人の可能性は?」
「考えました。でも、その可能性は低いと思います。だって、ありえますか? 東の辺境伯領出身で、地元の精霊様の神官――それも『完全無欠の聖女』と呼ばれていて、黒髪赤目で、同姓同名なんて。」
「そこまで条件が一致するのか……。」
父はため息をついて深くソファにもたれかかった。目を閉じて一時、何か考えているようだったが、すぐに身を起こす。
「ライバルと言ったね? その本の中で、ユイが何をするのか書かれているのかい?」
「主人公の女の子の相談役……とでも言えばいいんでしょうか。先輩神官として、聖女としての心得や御魂鎮めの儀式のアドバイスをするそうです。ただ……、」
ちらりと後ろのユートを見上げる。これはあまり――嘘だ、できればユートにだけは聞かれたくなかった話だ。
「主人公の成績が振るわなかったり、攻略対象と、その、仲良くなれなかったりすると……」
再びユートを見る。彼は真剣に話を聴いてくれている。
嘘はつけない。ごまかすこともできない。ユイはため息をついた。
「攻略対象の男性と主人公よりも仲良くなってしまう――と、書かれています。」
「つまり『鏡の聖女』が真面目にやらないと、お目当ての男性をユイに取られてしまうわけだね?」
簡潔にまとめられてしまって、ユイは黙ってうなずくしかできなかった。
よりによって、そんな立場で登場するとは。しかもユートに聞かれるとは。切なくて泣きそうだ。
(ありえないっ! ほかの人を好きになるとかっ。しかも四人もいて誰でもいいとかっ。ユートさんへの気持ちは、そんな軽くないのにっ!!)
本の中の自分は、眉を吊り上げて、胸の前で腕を組んで、自分でイメージするより遥かに気が強そうに描かれている。美人といえば美人だけど……あまりお近づきにはなりたくない感じだ。
正直、イラストと自分自身が似ているとは思えないのだが、直毛の黒髪や、赤っぽい目などの特徴は一致している。もともと主人公でも男性たちでも、どこか同じような雰囲気で、個々の特徴の薄いイラストだ。肌や髪や目の色が同じ系統で、ちょっと見目が良くて、アカデミーの制服を着ている人物だったら、誰でも当てはまりそうな気すらする。誰にでも当てはまりそうで、だからこそ、誰とも言えなくて。
イラストだけなら。見た目だけなら。
だが『聖の祝福』持ちとなれば、話は別だ。『聖の祝福』は、下手な鉄砲を数打ってあてられるような『祝福』ではない。それも『完全無欠の聖女』なんて気恥ずかしい二つ名まで同じなんて。
(そんな都合よく同姓同名でおんなじ祝福持ちって、ありえないもんね……。)
だからこそユイは本の中のユイを自分だと認め、この本の内容が未来の出来事であると考えた。
でも本当に、この本に書かれている出来事が現実になったらどうしよう?
場合によっては、ユイがユートでない誰かと恋仲になってしまうのに。
(そんなの、ぜったいイヤなのに。)
どうするべきか。どうしたらいいのか。
ユイはうつむいて下唇を噛み締めた。目にはじわりと涙が浮かぶ。
一晩悩んでも答えは出なかった。今もやはり、答えは出ていない。
思い悩むユイの後ろでは、やはり眉間に深いしわを刻み、ユイ同様に深刻な顔をしたマリエがうなっていた。
「――ちなみに、ですよ?」
マリエが右手を軽く上げて発言する。その途端、ジョージ伯父様は眉根を寄せた。
「マリエ。立場をわきまえなさい。」
「いや、構わないよ。聞きたいことがあるなら聞きなさい。」
「しかし、」
「家族、だろう? それにマリエにはユイの一番近くにいてもらうことになる。疑問点はつぶしておいたほうがいいだろう。ジョージもユートも、気になることは、何でも質問しなさい。」
「……はい。」
ジョージ伯父様にしかられて少しひるんだように見えたマリエも、父に促されて先を続ける。
「主人公さんが攻略にせいこ……御魂鎮めの儀式を成功させて、どなたかと想いを遂げた場合、お嬢様はどうなるんですか?」
「たぶん、どうにもならないんじゃないかなあ?」
マリエの質問に顔を上げたユイはそういえば、と首をかしげた。
考えてもみなかったことだ。恋の成就以降は、ユイに限らず、お目当ての人物以外はほとんど登場しなくなる。書かれていることは読めばわかるが、書かれていない以上、その先は予想するしかない。
「そもそもわたしに関する記述はほかの登場人物に比べるとかなり少ないの。だからそんなところまで書いてないし。あ、でも、」
「でも!?」
一体全体、マリエはどうしたというのだろう。異様なまでの迫力に圧されて、ユイは少し引いてしまう。
「えっと、主人公がわたしに卒業式で花束をくれるエピソードがあるの。だから、普通に卒業して、普通にラグロウズに戻るんじゃないかなあ。」
ただし、主人公がユイのアドバイスをよく聞いて四箇所の神殿での御魂鎮めをすべて成功させ、しかも特定の誰かと恋仲にならない場合に限るけれど。その場合、一番最後のエピソードがユイの卒業式で、そこで主人公から感謝の言葉と共に、花束をもらうのだ。それ以外では、ユイのその後について具体的なエピソードは書かれていない。
だが常識的に考えれば、卒業後は実家に――ラグロウズに戻るはずだ。本の中でも、ユイはお山のヌシ様の神官だ。神官が精霊様のそばを離れるとは考えにくい。
「わかりました。では、主人公が特定の誰かとは恋仲にならず、四人全員と仲良くなるエピソードはありますか?」
「四人全員と? えーっと……なかった、と思うけど……。」
マリエの表情があまりに切羽詰っていて深刻だったから、ユイも改めて本をぱらぱらとめくって確認する。
「うん。やっぱりない。」
「隠れキャラの存在は?」
「隠れ?」
「あー、つまり、攻略対象の四人には含まれないけれど、特定の条件を満たすと現れたり、仲良くなれたりする人物は紹介されていますか?」
噛み砕いて説明されて、ようやく聞かれたことを理解する。それを踏まえて本をチェックし直す。
「いない。えーっと、恋のお相手ってことだよね? うん、最初の四人だけ。」
「……友情エンドあり、逆ハーなし、隠れキャラなしってとこ? ……お嬢様が読んで恥ずかしがる程度だからまず間違いなく全年齢……そこまで警戒しなくても大丈夫? ……いや、でも万が一もありうるし……。」
ぶつぶつ小声でつぶやくマリエの発言はあんまりよく聞こえなかった上に、意味がほとんどわからなかった。だがとにかく、マリエがある意味ユイ以上に真剣なのは、嫌というほど伝わった。
「……まさか乙女ゲーム世界に悪役令嬢で転生とかテンプレートなことになってるなんて……。」
「マ、マリちゃん?」
(悪役令嬢ってなにっ!? なんだかとっても不穏なんだけどっ!)
半泣きのユイの両手を握り締めたマリエが、ずずいっと身を乗り出す。
「大丈夫です、お嬢様。このマリエ、なにがあってもお嬢様をお守りしますから。」
「う、うん。ありがとう。頼りにしてるね?」
真顔で宣言され、とてもじゃないが、今のマリちゃんのほうが怖いです――とは、冗談でも言えそうになかった。
「それで、マリエの聞きたいことは聞けたのかな?」
どこか面白そうに見守っていた父がマリエに聞く。一種の興奮状態から我に返ったらしいマリエは、慌ててユイの両手を離して一歩下がった。
「取り乱してすいませんでした。ありがとうございます、大丈夫です。」
「それならよかった。ところでマリエはずいぶんこういった状況に詳しいようだけど――マリエが当たった『気まぐれ』は今の本と関係があるのかな? ジョージ?」
「――え?」
父の口から思ってもみなかった言葉が飛び出して、ユイはぎょっとする。
顎に手をあてて訊ねる父の目はきらきらしていて、本当に楽しそうだ。それもそのはず、それは気分が高揚しているときの父の癖なのだ。
(マリちゃんも『精霊様の気まぐれ』に当たっていたの? そんなこと、聞いてないよ!?)
でも、驚いているのはユイ一人だけ。あとは全員――当人であるマリエはもちろん、父も、筆頭家老も、ユートも平然としている。
(……知らなかったの、わたし、だけ?)
――急に目の前が暗くなったような、みんなの話す声が遠くなったような気がした。
「わたしが聞いているのは、会ったこともない、知らないはずの人間の個人情報を知っている――おそらくその人物の記憶を持っていると思われる、という程度です。」
「うん、そうだったね。マリエ?」
「……お嬢様がお持ちの本については、わかりません。」
父に訊ねられたマリエは、残念そうに首を振る。眉間にしわを寄せ、口をへの字に引き結んで、本当に悔しそうだ。
「ただ、彼女が時々読んでいた物語の中に、似たような状況に陥るお決まりのパターンがあるんです。詳細はわかりませんが、こう、ゲームじみた状況に陥って、面倒ごとに巻き込まれるのがお約束というか、様式美というか。」
「ユイも同じように問題に巻き込まれるのを危惧している、と?」
厳しい顔でうなずくマリエ。
父は「ふむ」と首をかしげる。
「ユイの話を聞く限りでは、関わってもそこまで問題にはならなそうだが。」
「その手の物語はだいたい、シナリオ――この場合は本ですけど、そのままの筋書きにならないんです。たいていこじれて、面倒くさいことになる。……読者としては、その面倒ごとを楽しむんですけど。」
(……え?)
本に書かれた通りにならないの?
苦渋に満ちたマリエの言葉は、ユイの悩みに一筋の光明をもたらした。ユイの周りに光が、音が戻ってくる。
幻の本は未来のことが書かれているのだと思っていた。いくつか異なる結末は用意されているけれど、そのどれかに落ち着くのだと。
でも、その前提が間違ってるのだとしたら――?
(本、に振り回される必要は、ない……?)
今のユイには帝国アカデミーに行く理由がない。春になってもラグロウズを離れる予定はない。
アカデミーに行かなければ――彼らに会いさえしなければ――
(ユートさんを、好きでいていいんだよね……?)
「必ずしも書かれているままの現実になるとは限らないんだね?」
「はい。ですから筋書きと違う未来を選ぶことも可能なんです。……物語の中では、ですけど。」
さすがに物語ではそうだから現実でも同じですと、言い切るのは恥ずかしかったらしい。マリエは目元を赤く染め、少し視線を泳がせる。
知りたいことが確認できたのか、父は満足げにうなずいた。
「充分だ。……さて、ユート? きみは何か聞きたいことはないのかな?」
わざわざ聞きたいと言って来たんだ。もちろん、あるよね?
父がにっこり笑う。満面の笑顔で。いつものように笑っているだけのはずなのに、なぜか寒気を感じてユイは両腕で自分を抱きしめる。
「……一つだけ。」
目を伏せて、ずっと何かを考え込んでいたようだったユートが毅然と顔を上げた。
「姫様はアカデミーに通うことを望まれますか?」
「え……?」
「そんな『気まぐれ』を授かるくらいです。本当は帝都に行くことを望んでいるのではありませんか? アカデミーで同年代の者たちと共に研鑽を積むことを望んでいるのではありませんか?」
わけが、わからない。この人が言っていることがわからない。
だって、わたしはお山のヌシ様の聖女で、毎月のお務めがあって、遠い帝都のアカデミーになんか、通うことなんかできないのに――
(そんなこと、ユートさんだって知ってるでしょう!?)
叫びたいのに、声が出ない。言葉がのどで凍り付いてしまったかのように。
「兄さん!? 何を言っているのか、わかってるの!?」
叫んで、隣の兄につかみかかろうとしたマリエを片手で押さえ、ユートは続ける。どこまでもユイだけを見て。どこまでも生真面目に。
「神殿には神官様――ナギ様もいらっしゃいます。神事はもちろん大切ですが、姫様だけが神事に縛られなければならない理由にはならないでしょう。学生の一時期、帝都で過ごすことすら許されないなんて、そんなはずがございません。姫様が望まれるのでしたら、」
混乱するユイの目をまっすぐに見つめて、ユートが力強く請合う。まるでとんちんかんなことを、どこまでも真剣に。
「わたくしが何をおいても、力になります。アカデミーにお連れいたします。」
ご安心ください、とうなずくユートにこそ安心できない。
なんで、そんなこと言うのか。ユイがアカデミーに行くことが、何を意味するのかわからないユートではないだろうに。
(わたしが、誰か、別の男の子のこと好きになっても、ユートさんは構わないの……?)
好かれている自信はある。だが、彼が自分を小さな妹扱いしていることもわかっていた。感情の方向はユイと一致していないことも。
だけど。それでも。
いつかは同じように好きになってもらえる。そんな日が必ず来る。そう、信じていた。信じていたのに。信じていたいのに。
(いたい。いたいよ、ユートさん……。)
悲鳴を上げ痛む胸を抱え、重ねても暖かくならない冷えた指先を握り、ユイはそっと目を伏せた。
いつもは大好きなユートの深緑の目を、まっすぐに見ることはできなかった。