ユイとメアリと乙女の決意
怪我の表現がございます。
苦手な方はご注意ください。
メアリの今日のお宅訪問は午前中にとっくに終わっている。こんな悪天候の中、再び訪れるなんて、どうしたのだろう?
ユイは首をかしげながらも足早に応接室に向かったが、扉が開いたとたんにその場で凍りつく羽目になった。
「……ユーフィーミア。」
傘も差さずにここまで来たのだろうか。水滴が滴るほど全身ぐっしょりと濡れたメアリが、部屋の中央で立ち尽くしていた。侍従か侍女か、誰かが渡したのだろうタオルを肩にかけてはいたけれど、呆然としていて反応が鈍い。
「何をなさっているのですか!」
驚いたのは一瞬。慌ててメアリの元に駆け寄ると、肩にかかっていたタオルを奪って頭を覆う。腕をいっぱいに伸ばして、自分よりはるかに背が高い彼女の髪を拭く。
「マリエは入浴と着替えの準備を。ユートはアカデミーの女子寮に連絡してください。メアリ・フェイバーは本日はカタスカーナ家で預かります。」
矢継ぎ早に指示を飛ばし、メアリを見上げてにらみつける。それにしても、少しは屈むとかしてくれてもいいものを。身長差がありすぎて拭きにくいったらない。
「ユーフィーミア、わたし、」
「お話は後です。そんな格好では風邪を引きます。まったく、何を考えているのですか。」
もの言いたげに口ごもるメアリを、一瞥して黙らせる。濡れた頭を拭くこともできないお子様に、発言権など認めない。
どこか焦点の合わないメアリを問答無用でマリエに預け、風呂場に押し込むこととびしょびしょの制服を何とかすることをお願いする。
「大丈夫かな?」
応接室に一人残ったユイは、頬に手を添えて首をかしげた。
明日までに制服が乾けばよいのだが、あれは一晩で何とかなるレベルだろうか? うちの有能なメイドたちなら、あのぼろぼろの制服も何とかしてくれると信じているけれど……メアリは替えの制服を持っているのだろうか? 明日までに元に戻らなかった場合、ユイかマリエの制服を貸すべきだろうか?
メアリがユイの制服を着たところを想像して――ユイは顔をしかめた。メアリは背が高いし、足の長さが違いすぎる。ユイの制服を彼女が着たら、膝小僧が丸見えになってしまう。
「失礼します。メアリはおとなしくお風呂に入りましたし、制服は洗濯に回しました。とりあえずは心配ないでしょう……って、お嬢様?」
「マリちゃん!」
あーだこーだとぐるぐる考えて歩き回っていたら、マリエが戻って来た。部屋に入って一礼するマリエに小走りで詰め寄る。
「どうしよう、わたしのスカートだとメアリがとんでもなくセクシーなことにっ!」
「……お嬢様。」
とことん呆れたまなざしでユイを見やるマリエの声が、ものすごく疲れていた。
「制服なら明日の朝までに何とかします。ですから、落ち着いてください。」
「そ、そう?」
「そうですとも。メアリに何があったかはお風呂から上がったら問い詰めますけど、満足に話ができる状態でもなさそうです。お嬢様まで慌てふためいたら、文字通り、お話になりません。お茶を淹れますから、ちょっと落ち着いてください。」
「う、うん。わかった。」
確かにマリエの言い分はもっともである。おとなしく椅子に座りなおし、マリエがお茶を淹れてくれるのを、じっと待つ。まあ、ちょっとはそわそわしちゃったけれど。
「……落ち着かれました?」
「うん。ありがとう。」
薫り高い紅茶はほんのり甘くて、ユイのとがった心を静めてくれる。マリエの給仕を受け、ほうっと肩の力を抜いたユイは、改めて小首をかしげた。
「それにしてもひどい格好だったけど……どうしちゃったのかな、メアリ。」
「さあ。考えても無駄でしょう、本人に聞けば済むことです。洗いざらい吐いてもらいましょう。あれも、まさかあんななりでこのお屋敷に駆け込んでおいて、だんまり決め込めるとは思っていないでしょうから。」
「そ、そうだね……。」
でも、マリちゃん。いくら心配でイライラしているからって、あんまり不穏な単語を使いすぎるのはどうかと思うの……。
見当違いなユイの心配はともかくとして、どうやらメアリも黙っているつもりはないようだった。
普段はきりりとしたまなざしを憂いを込めて伏せる、風呂上りの美女。ほっこり上気した白い肌と、艶やかな金髪を緩めに上げたことであらわになった首筋の、壮絶なまでの色っぽさ。
わずか十六歳にして、恐ろしいほど背徳的な色気をかもし出すメアリに、いろいろな意味でくらくらするユイだった。
(世の中、不公平過ぎるよっ!)
もしも自分にこの半分でも色気があれば、とっくにユートとまとまっていたのではなかろうか? 寸止めの挙句、逃げられたりしなかったのでは?
「……あの、ユーフィーミア。」
おずおずと、下から見上げるようなメアリに話しかけられて、ユイは慌てて不謹慎な考えを追い払う。
「ごめん、急に押しかけて。迷惑だとは思ったんだけど、二人しか思いつかなくて……。」
「いいえ。」
ヘンなことを考えている場合じゃない。今はこの、捨てられた子猫のような年下の(そう、彼女はこれでも年下なのだ。)友人を優先すべきだ。
マリエがメアリの前に温かいミルクを注いだマグカップを置く。蜂蜜を垂らしたミルクが、雨で凍えた彼女の心を暖めてくれるとよいのだが。
メアリがマグカップを両手で包み込むように持ち上げ、「……甘い。」一口飲んだことを確認して、ユイは続きを促す。
「それでどうなさったのですか? あなたらしくもない。自暴自棄になるメアリではないでしょう?」
メアリはいつだって前向きだ。お日様のような笑顔が似合う娘なのだ。あんなふうに落ち込む姿など、見ていられないし、見たくもない。
「うん……。あの、ね。」
ぽつりぽつりとこぼすメアリの言葉を、ユイもマリエも急かすことなく待った。
「わたしが四大精霊の神殿で祈りを捧げているのは、二人とも知ってるよね?」
黙ってうなずくユイとマリエ。
「風の神殿に熱心に通ってくる家族があって……そこの家の上の子が、ついこの間七歳になって、祝福を授かったの。」
メアリが帝都に来たのは丸々三年と四ヶ月ほど前だ。それ以前から熱心に神殿に通っていた一家とは、すっかり顔見知りだった。特にまだ幼い兄弟はメアリによく懐いていて、「おねえちゃん」と呼んで慕ってくれたのだという。メアリもメアリで、彼らを弟のように思っていた。
「お兄ちゃんのほうは、最近は生意気になって、“メアリ”って名前で呼び捨てにしてくれたりもするんだけど……まあ、それはいいか。とにかく、そのお兄ちゃんのほうが、凧揚げするから来いよって誘ってくれて。」
正直言えば油断していたのだと、メアリは言う。
ここ最近、祝福の力が暴走したり、不発だったりする事故の件数は確実に減っていた。発生したとしても、たいした問題にならない――予想よりも風が強めだったとか、逆に風が吹かなかったとか、それくらいの――事故だった。
もともと、風の精霊の祝福は強いものじゃない。そよ風を吹かせたり、遠くの人に声を届けたり。逆に一切の音を遮断したり。寝苦しい夏の夜には便利だったり、内緒話には都合がよかったりするけれど、暴走したところで、大事故に繋がるような力じゃない。せいぜいで、内緒話のつもりが回り全部に聞こえてしまったり、呼び込んだ風が強すぎて、積み上げた書類が悲惨なことになったりする程度で。
「弟くんが凧を持って、お兄ちゃんが糸を持って精霊の祝福を使って、凧を揚げようとして……。カマイタチっていうの? 気がついたら、凧を持ち上げてた弟くんの腕がすっぱり切れてて……。」
傷は深かったが、痛みもなく、血も出ていなかったという。ただただ驚いて声も出ない弟を抱き上げて、大急ぎで最寄の神殿に駆け込んだ。メアリの剣幕に驚いた職員にすぐに治療をしてもらえたから、大事には至らなかった。
祝福の力を遊びで使うから罰が当たったのだと、駆けつけたご両親にこっぴどく怒られた兄は青ざめ、弟は両親の怒気と遅れてやってきた怪我のショックに大泣きして。
メアリに頭を下げて感謝するご両親とお兄ちゃん――父親に頭を押さえつけられて、強制的に下げされられていた――を見送って、冷静になって振り返って。そして気づいたのだ、自分のエゴに。
「今更、こんなこと言うのもおかしいけど……。わたし、どこか本気じゃなかった。なんだかんだ言っても所詮ゲームの世界だからって、甘く考えてた。攻略者なんて関わりたくない、フラグなんて片っ端から折りまくってやるって、そればっかりだった。本当に困ってる人や――怪我をする人がいるかもしれないなんて、本気で考えてなかった。」
気づいてしまえば、後は坂道を転がり落ちるようだった。
「自分がちゃんと責任を果たしていれば、こんなことにはならなかったはずで……本当に責められなきゃならないのは、お兄ちゃんじゃなくてわたしのはずで……。」
居ても立ってもいられず、大雨の中に飛び出した。雨の中を闇雲にさまよって、最後にたどり着いたのが、カタスカーナ邸だった。同じ知識を共有する仲間として。帝都で見つけた最初の友達として。
「こんなこと言われても困るのはわかってるんだけど……ごめん。こんな話ができるのが、ユーフィーミアたちしか思いつかなかったのよ。」
「メアリ……。」
メアリの告白は、ユイにとってもショックだった。被害にあった人たちのことを、本気に考えていなかったのは、ユイも同じだからだ。
ユイにとってはラグロウズの、里のみんなが一番。だからできるだけ早急に問題を解決して、ラグロウズに帰ることが最優先。
それが――ふるさとを一番に考えることが悪いことだとは思わない。ユイにとって、その優先順位は絶対だ。誰に責められようと、帝都の住人に文句を言われようと、何があっても変わらない。
でも、それと被害に遭った人、遭うかもしれない人を軽視することは別問題だ。目的がラグロウズに帰るためだろうとも、被害に遭われた方がいる以上、もっと親身に、真剣になるべきだった。
(――でも、それをここで言っても仕方がない。)
自分もまじめに考えていなかった、ダメだったと、慰めあうことは簡単だ。互いの傷を舐めあえば、きっと甘美だろう。でもそれでは、何も解決しない。
ユイは隣で話を聞いていたマリエと目を合わせた。マリエがうなずいたのを確認して、メアリに向き直る。
メアリはミルクのマグカップを持ったまま、唇をきゅっと引き結んでうつむいている。
「メアリはどうしてわたしたちに会いに来たのですか?」
「それは……、」
「自分の罪を告白するためですか? 許してほしいのですか? それとも共感してほしいのですか?」
「……。」
残酷なことを聞いているのはわかっている。ユイの言葉はメアリをずたずたに傷つけるだろう。そう思うと、ユイも辛い。
だけどメアリは前向きな人だ。望まぬ事態に陥っても、めげることなく、前を向ける人。いつだって一生懸命な人。だから――
「本当はご存知なのではありませんか? ご自分がなすべきこと――いいえ、違いますね。ご自分がなさりたいことを、メアリはもう、ご存知なのでしょう?」
彼女はユイに慰めてほしいわけでも、許してほしいわけでもない。きっと、背中を押してもらいたいのだ。苦手な課題に取り組むために、誰かの声援がほしいのだ。
年下の友人をまっすぐに見つめ、ユイは微笑む。
「教えてください。メアリのなさりたいことを。わたしはあなたのお友達として、あなたのなさりたいことを応援します。」
すぐに返事はなかった。たっぷりの沈黙の末、うつむいたままのメアリがぼそぼそとつぶやく。
「だって、今更って思うじゃない。イベントとか全部すっぽかしちゃってるし、フラグだって折りまくったし、やり直しができるわけじゃないし。それにわたし、本物のメアリじゃないし、彼女みたいにかわいくないし、好かれるとは思えないし……。」
本当に、この子は何を言っているのやら。
呆れはてたユイは、おもむろに腕を伸ばして、メアリのほっぺたを両側からぎゅっと押しつぶした。目を丸くしたメアリが「なにするのよ!?」と抗議する。
メアリに文句を言われたことより、ようやく目を合わせてくれたことに満足したユイは、彼女の頬を押しつぶした姿勢のまま、唇を尖らせてお怒りのポーズを作る。
そう、ユイは怒っているのだ。
「お馬鹿さん。ゲームではないと反省した傍からなんですか。イベント? フラグ? そんなもの、わたしは知りませんし、見えません。あなたも、精霊様のご加護が強い四人も、一人の人間です。一人の人間として、真正面から真摯に向き合えばいいだけのことではありませんか。」
「……ユーフィーミア。」
「それに、あなたがメアリじゃないとは、どういう意味ですか? わたしが知っているメアリ・フェイバーは、あなただけですよ。例のご本に紹介されていたとおり、誰とでもすぐに仲良くなって、頑張り屋さんで、いつも一生懸命で、お友達想いな、あなただけです。」
各神殿の職員と仲良くなって、祝福の事故件数を減らしたのは誰だ? メアリだ。連日神殿に通いつめて祈りを捧げてきたのは誰だ? メアリだ。かつての友人のことを、今でも本気で怒るくらい大切にしているのは誰だ? メアリだ。今もこうして、傷ついた兄弟のことで胸を痛めているのは誰だ? メアリだ。
「そんなあなたが、魅力的でないはずがないでしょう? 馬鹿にするのもいい加減になさい。わたしのお友達を侮辱することは、それがご本人であっても、許しません。ご理解いただけましたか?」
「……。」
両手でつぶしたメアリの白い頬を、そっとなでる。メアリの目が丸くなり、涙の膜が盛り上がるのを、目を細めて見守る。
「ですからメアリは自信を持って、ご自分のなさりたいことを、ご自分のなさりたいようにするべきなんです。ね?」
「……うん。うん。」
ユイは泣き崩れるメアリを抱きしめた。
大丈夫。メアリはきっと、もう大丈夫だ。
メアリが選択した方法は、実に単純だった。愚直、とすら言えるかもしれない。
ユイたちが今日までに作り上げたコネクションを駆使して攻略対象たちを一堂に集めたメアリは、全員の前でまっすぐに頭を下げたのだ。
「唐突にごめんなさい、お願いがあるんです!」
四大精霊の神殿で神官が生まれていないこと。それにより御魂鎮めが行われず、祝福が暴走する事故が発生していること。彼らが精霊様のご加護が強いことと、そのご加護をお借りすればメアリが一時的に各精霊様の御魂鎮めができること。
「ですからお願いします。お忙しいとは思いますが、神殿で祈りを捧げるのに付き合っていただけますか。」
もちろん、四人とも否やはなく。
いや、カリールだけは「こんな美女を見落としていたなんて!?」と斜め上に嘆きまくっていたけれど。
その後全員で訪れた大地の精霊様の神殿で、ユイは初めてメアリが祈りを捧げる姿を見ることができた。
メアリの祈りは、ユイとはまったく異なるものだった。石の祭壇に跪き、身動き一つとらず、一心不乱に祈り続ける。一切の我欲が抜けきったようなメアリの静謐な横顔は、まるで完璧な彫刻のように美しくて。
「あなたの事情は、この件だったのですね。」
「……クィンス。」
あんなことがあったのに、相変わらず微笑んで話しかけてくれるクィンシー。彼もまた、帝都で得たユイの大切な友人だ。
「これで問題は解消でしょうか? あなたもご実家にお戻りになるのですか?」
少しさびしそうに微笑むクィンシーに、ユイは「いいえ」と首を横に振る。
「まだ、わたしにはなすべきことがあります。」
メアリは自分の務めを果たした。ならば、次はユイの番だろう。
カタスカーナ邸に戻ったユイは、真剣な面持ちでマリエに告げた。
「学長先生にご連絡を。皇帝陛下と泉の乙女の神官様にお目通り願います。」
***
面会希望は、すぐに叶えられた。
非公式とはいえ、皇帝との謁見に臨むにあたり、マリエはユイにかさばる訪問着を着せようとした。でもユイは、笑って拒絶する。
「ダメだよ。今日だけはラグロウズの衣装で、神官の正装で行くの。お務めを果たすのはカタスカーナ家の令嬢じゃなくって、お山のヌシ様の神官なんだから。」
「お嬢様……。」
マリエが準備した大荷物の中には、神官の正装も当然のように含まれていた。出発前、マリエは何を想定してこれを荷物に入れたのだろう? 考えると不思議で仕方がないけれど、もしかしたら、これも『精霊様の祝福』なのかも知れない。風を読む――未来を読むことができる、マリエだから。
帝都では恐ろしく目立つというラグロウズの衣装を身にまとって、ユイとメアリは馬車に乗り込んだ。どんな衣装だろうと、移動中は外から見えないのがものすごくありがたい。何枚も着物を重ね、襟や裾から少しずつ見せるラグロウズの正装は非常に色彩豊かで、人目を引きやすいのだ。
馬車はまっすぐにセイル宮を目指す。たどり着いた先でユイたちを待っていたのは、謁見のつなぎを頼んだ学長その人だった。
「こんにちは、レディ・カタスカーナ。」
最初に会ったときと変わらない穏やかで理知的な青い目をした学長が微笑む。
「ごきげんよう、学長先生。」
まさか出迎えに学長が出てくるとは想像もしていなかったユイだが、動揺を押し隠して深々と頭を下げる。
……エレンダールの礼法ではないが、今はラグロウズの格好だ。これで問題ないはずだ。学長も何も言わないし。
「皇帝陛下がお待ちかねです。ついて来なさい。」
「……はい。」
傍系とはいえ、皇族に直接案内してもらうって……。
ユイもマリエも呆然としたけれど、だからといって選択肢はない。おとなしくついていくと、どんどん宮殿の奥に突き進むことになった。
「あの、学長先生? どこまで行かれるのですか……?」
本当なら、こちらから話しかけるのは拙いのだが、黙っていることもできなかった。だって、どんどん奥に向かってる。どうみても、内宮――皇族のプライベートスペースに。
「アカデミーは楽しめましたか?」
だが学長は不安に駆られるユイをまるっと無視して、明るい調子で訊ねる。
「喜びも哀しみも、糧にできそうですか?」
――ああ、これは。
ユイの脳裏に、一ヶ月と少し前の会話がよみがえる。
おそらく学長は、ユイがもうアカデミーに長くは通わないことをわかっている。この会見の結果がどうなろうとも、近い将来、ユイがラグロウズに帰ることを。
大切な友達ができた。嬉しいことも辛いこともあった。面倒くさい、本意じゃないことも。だけど……楽しかったかと聞かれたら、間違いなく楽しかった。きっとたぶん、それが自分の糧となるはずだ。
目を閉じて、深呼吸して。目を開けたユイは、万感の想いをこめてうなずいた。
「……はい。」
「そうですか。それはよかった。」
満面の笑みを浮かべた学長が、最奥の扉を開ける。
「――さあ、ここですよ、レディ・カタスカーナ。」
案内されたのは中央に泉のある、小さな中庭――泉の乙女の神殿だった。
ユイはごくりと生唾を飲んだ。
小さな、けれど間違いなく力に満ちた神殿の前にたたずむのは、舞踏会の際にお会いした皇帝陛下。皇帝陛下、ただ一人。
「……?」
どんなに見渡しても皇帝陛下と学長だけで、ユイは困惑する。ちらりと助けを求めるようにマリエを見ると、彼女も戸惑っているようだった。
「あ、あの……?」
確か、泉の乙女の神官様にもお目通り願ったはずなのだが……? ひょっとして、地方の一神官などには会ってくださらないのだろうか?
「……コーネリアス。」
おろおろするユイたちを見かねたのか、眉間をぐりぐりマッサージした皇帝陛下が低い声でうなる。
「事前に説明くらいしておけと、あれほど。」
「そうでしたか? いやあ、すっかり失念していたようです。申し訳ない。」
すっとぼけているのか、本気で忘れていたのか。悪びれた様子のない学長は、あははと笑い。
皇帝陛下は肺の空気をすべて搾り出すかのようなため息をついて。
「すまない、レディ・ユーフィーミア。改めて紹介しよう。これが――コーネリアスが、泉の乙女の神官だ。」
うん。ここまできたらそうだよね。それしかないよね。わかっているけど――
(最初に説明してほしかった……!)
ユイがそう思ったとしても、失礼でも何でもないと思うのだ。
「いいじゃないですか、陛下。これで紹介もできましたし。」
「お前はもう少し、そのマイペースを何とかしなさい。……それで、レディ・ユーフィーミア。大切な話があるそうだが?」
そうだった。今まで持っていたまじめそうな印象が、ガラガラと崩れ始めている学長に呆然としている場合ではないのだった。
ユイは何とか思考を切り替え、背筋を伸ばす。
「はい。お忙しいところお時間を頂戴し、申し訳ございません。帝都の――四大精霊の神殿で神官が生まれない件について、ご報告がございます。」
ユイは話し上手なほうじゃない。上手くかいつまんで説明することなんかできない。もちろん、付き添いのマリエにお願いすることもできない。
だから最初から話すことにしていた。帝都に来てから落ち着かなかったこと。カタスカーナ邸とラグロウズとを繋いだらそれがなくなったこと。セイル宮でも――今から考えればアカデミー構内でも――それがなかったこと。だから、土地を守る精霊様をきちんと祀ってある場所なら、不安になることなどないのだろうと考えたこと。その観点から歴代皇帝と四大精霊神殿の神官について調査したら、相関関係が認められたこと。
「七十年前までは皇帝陛下が神官様も兼ねていたため、国全体が泉の乙女に守られていたのだと考えました。でも今は……。」
「皇帝と神官は互いに不可侵、か。」
「はい。」
ふむ、と陛下は顎をさすった。茶目っ気たっぷりに、きらりと目を輝かせる。
「ではレディ・ユーフィーミアは、余の退位をご希望かな?」
「そんなことはっ、」
ユイは慌てて首と手を横に振る。もちろん、そんなことは望んでいない。そんなことになったら、次は学長が即位されるのか? うっかりでご自身が泉の乙女の神官であることを言い忘れるような学長が?
……そんなの、不安でしかないじゃないか。絶対に却下だ、却下。
「この仮説が正しいかどうかは証明できていませんが――差し支えなければ、エレンダール帝国全体にかかっていた泉の乙女の守りがなくなっていることを、帝国内の各神殿にお伝えください。土地の精霊様が祀られているところは安定しているはずですから、その状態を守り続けてくださるよう、お願いいたします。」
「そうだな……。泉の乙女の守りについては、必要以上に不安を煽る可能性がある。まずは今祀っている精霊を堅守するよう、周知しよう。」
「ありがとうございます。どうぞ、御心のままに。もう一つ、帝都のことですが……。」
これは、ユイにも自信はない。ないけれど――
「帝都の名前は、泉の乙女に由来します。もともと繋がりはあるはずなんです。ただ、急速な人口の増加と都市の広がりで、泉の乙女にもどこまでが自分の守るべき領域か、把握できなくなっているのではないでしょうか。」
目印のあるところなら――神官、夫である学長がいるところなら、守るべき場所だと認識できた。だからきっと、アカデミー構内は安定していた。
もしそうなら。はっきりした目印さえあれば、きっと帝都の市街地だって、彼女の守るべき場所だと認識してもらえるのではないか。
「カタスカーナ邸をラグロウズと繋げるために、ラグロウズ産の瑪瑙を使いました。帝都にも泉の乙女ゆかりの目印があれば……帝都も守るべき場所と考えてくださるのではないでしょうか。」
「ふむ。どうかね、コーネリアス。我らが小さな姫君はなんと仰せだ?」
学長は、その青いまなざしをまっすぐに泉に注いでいた。穏やかで愛情に満ちた温かいまなざし。純粋な愛情以外は何も含まれないそれは、確かに神官のまなざしで。
「……帝都をぐるりと囲むように、クローバーを植えましょう。四葉のクローバーのあるところまでが、彼女の幸運の届く場所になるでしょうから。」
学長の答えに、皇帝陛下はなんの疑問も挟まず、ごくあっさりとうなずいた。
「クローバーなら成長も早い。それなら、試すのも支障はなさそうだな。」
「むしろ、増えすぎに用心したほうがよろしいでしょうね。」
「そうだな。彼女に似て、力強い植物だ。力強くて幸運を意味する――よいシンボルになるだろう。」
「あ、あのっ、」
とんとん拍子に話が進みすぎて、かえってユイは心配になる。
だって、それで無事に繋がる保証も、安定する保証もどこにもないのに!
ユイは涙目で訴えた。訴えたけど――
「案ずるな。最初から完璧など誰も求めてはいない。」
「それに『鏡の聖女』が当面をしのいでくれています。大丈夫、あなただけが責任を抱え込む必要はありません。むしろ、ここまでよく調べてくれました。」
「そうだな……わたしからも感謝する。大儀であった、レディ・ユーフィーミア。」
だから心配するなと。今までよくやったと。そう仰る皇帝陛下のまなざしも、学長のまなざしもとっても優しくて。
「……ありがとう、ございます……。」
マリエともども、深く頭を下げるユイだった。
***
帝都をぐるりと囲むようにクローバーが植えられたのは、七月も終わりのころだった。
クローバーの成長は早い。小さな芽はすぐに一面緑の絨毯となり、ほんのりピンク色を帯びた白い花を咲かせるようになった。
四大精霊神殿に新しい神官が誕生したのは、ユイが皇帝に面会してから、おおむね一ヵ月が過ぎたころのことだった。




