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精霊の祝福  作者: 裏庭集会
第三幕
20/34

ユイと真白な夜更けの幻

 控え室の椅子に上品に腰掛け、ユイはそのときがくるのを待っていた。

 サイドの髪をほんの少しつまんでひねって真珠のピンで留めただけの、あっさりとした髪型に、ナチュラルメイク。余計な装飾が一切ない白いドレスは、上半身は品が悪くならない程度に体のラインに沿い、スカートは逆にふわりと床まで広がっている。首には小ぶりの真珠のネックレスを巻き、白い長手袋をはめる。スカートに隠れて見えない足元は、やはり白のハイヒール。ちなみに高さは五センチメートル。もう少し高く! と渋るマリエと丁々発止のやり取りの末、なんとか納得してもらったぎりぎりの高さだ。

 マリエいわく、『浮世離れした清楚な聖女』がコンセプトらしい。奇抜な格好は駄目。流行を追いかけるような格好も駄目。おかげで、教本に載せたいくらい基本どおりですと、褒めているのかけなしているのかよくわからないお言葉をいただいた。

 ……うん、わかってる。たぶん、褒めてないってことは。

 思わずはふっと息をついてしまう、ユイである。

「大丈夫。」

 隣に座る父が、ユイの手を握って励ますように笑った。つられてユイも笑い返しそうになるが――神妙な顔でうなずいて握り返すにとどめる。

 これもマリエに言われたことの一つだ。聖女らしさをアピールするため、うっかり笑わないように言い含められている。なるべく無表情で。笑うにしても、ミステリアスに意味深に微笑め、と。

 ミステリアスな笑顔ってどうやるの? 意味深って何が? と逆に良くわからなかったので、なるべく表情を動かさないように気をつけることにした。おかげで顔面がすでに痙攣しそう。

(まあ、でもここまできたらあと少しだよね。)

 ここまでの三日間が恐ろしく長かった。今夜さえ、乗り切ってしまえば大丈夫――

 面白いことに、ユイの精神状態は驚くほど安定していた。宮殿――皇帝をはじめとする皇族方が住まい、また、政治の中心でもあるセイル宮――に乗り込むまでは、どうしようどうしようと、頭を抱えておろおろしていたのに。いざ大舞台を目の前にすると、心は不思議と凪いでいた。存外、自分は本番に強いタイプだったようだ。


 ここにいたるまでの三日間が、本当にひどかった。

 クィンシーから招待状を受け取ったあの日、玄関ホールで待ち構えて深夜に帰宅した父に招待状を見せた。舞踏会についてまったく聴いていなかったらしい父は仰天し、しかも開催日が三日後に迫っていることに気づいて言葉を失った。そのままセイル宮に取って返し、朝まで侃々諤々の議論を重ねた結果――そのまま参加することになった。

 どうも、どうしても帝都に来られない事情があるのならばともかく、ここにいて参加もできるのに娘のお披露目もしてやらぬとは何事かと、お怒りの皇帝陛下を説得できなかったらしい。おまけに普通の宮廷舞踏会を皇帝陛下主催の舞踏会にランクアップさせてしまったため、今更引くにも引けず。

 いいじゃないか別に。デビューするもしないも、そんなの個人の自由だと、親娘ともどもそう思うのだが……残念ながら、カタスカーナ家の主張は頭の固いお年寄りには通じなかった。

 おかげでユイもマリエもアカデミーは一旦お休みし、舞踏会の準備に明け暮れる羽目になった。

 いくら一式揃えてあるからといっても、微調整はある。舞踏会の参加者リストを入手しチェックする一方で、揃えた一式が格式にのっとっているか、失礼に当たらないか、ドレスとアクセサリーの相性は悪くないか、などを一つ一つ再確認する。

 ユイはユイで、当日まで自分磨きに費やした。マナーやダンスのレッスンを復習し、貴族年鑑を再度頭に叩き込む。今から節制しても間に合わないとは思うのだが、万が一当日になって吹き出物が出たりしないよう、食事と睡眠は厳重な管理化に置かれ、毎晩香油によるマッサージを受けた。おかげで心はともかく体のほうのコンディションは絶好調だ。

 今日も今日で朝から準備に余念がなく――食べなきゃ持たないと主張し一歩も引かないマリエにより、食欲はないものの薄いサンドイッチをおなかに詰め込む。なんの嫌がらせだと思うような窮屈なコルセットに耐えてドレスを身にまとい、ナチュラルメイクと称するナチュラルっぽく見えるだけで、実はぜんぜんナチュラルじゃない化粧を施してもらう。髪型を整え、アクセサリーを身につけ、仕上げにフローラルな香りのパウダーを首筋やら手首にはたけば、デビュタントのお嬢様の完成だ。

 ……まさか、自分の胸の谷間を拝める日が来るとは。こればっかりは、目の下に隈を作って奮闘したマリエ以下侍女の皆さんに感謝しないといけない。

 そうこうして、同じく準備を整えたテールコート姿の父にエスコートされ、黒塗りの馬車に乗り込み、いざ戦場……もとい、セイル宮に乗り込んだわけである。


 通された控え室は、がらんと空いていた。空いていた、どころかユイたち親娘しかいなかった。

 これも仕方がない。本格的社交シーズンである冬ならばともかく、今は夏の盛りで、しかも急遽皇帝主催に格上げされた舞踏会だ。セイル宮では毎週のように夜会が開かれているが、そのすべてに陛下がご出席なさるわけではない。デビュタントの目的が、皇帝陛下にお目通り願って社交界への参加を認めてもらう、まさにその点にある以上、陛下がご出席なさらない夜会に参加しても意味がない。つまり、今日の舞踏会自体が、ユイのデビューのためであり、かつ、皇帝自ら采配を振ったということであり――

 そう考えると、プレッシャーに押し潰されそうなものなのだが……実際のところ、ユイは楽観視していた。

(旅の恥は掻き捨てだもんね。)

 これから一生、エレンダール社交界で戦わねばならない貴婦人方と違い、ユイは夏が終わればラグロウズに戻るのだ。そしておそらく、再び帝都を訪れることはない。多少の失敗は、時間がいずれ良い思い出に変えてくれるだろう。

 今後も帝都で仕事をするだろう、父と弟には悪いが、もともと予定になかった社交界デビューのごり押しを止められなかったのである。それくらいは覚悟してもらわないと。

 緊張が限界を突破したのか、腹を括りきったのか――あえて言うならば、若干やけになっているユイであった。


「ご準備はよろしいでしょうか。」

 時間になったのだろう。侍従が音もなく父に近づき、移動するように告げる。一つうなずいた父はすっと立ち上がり、ユイに手を差し伸べた。

「行くよ?」

「……はい。」

 父にエスコートされ、控え室を出る。暗い廊下を進んだ先に、眩い明かりが漏れていた。ダンスホールだ。

「カタスカーナ卿! レディ・カタスカーナ!」

 入り口に陣取る侍従が高らかに宣言する。ホールの明かりの眩しさに思わず目を閉じたユイは、目を開けて広がる光景に息を呑んだ。

 広いホールをあまねく照らす、眩いシャンデリア。チョコレート色とミルク色が複雑に組み合わさった床は、艶々に磨き上げられて鏡のようにすべてを反転させる。どこかで控えているのだろう、楽士が奏でるゆったりとした曲が穏やかに流れる。

 父に導かれ、赤い絨毯が敷かれた階段をゆっくりと下りながら、ユイは自分に突き刺さる視線をひしひしと感じていた。

 一番奥の少し高くなった玉座にいらっしゃるのが、皇帝陛下と皇后陛下。玉座の下にひしめいているのが、本日の参加者である貴族の皆さん。その全員がユイたち――というより、ユイに注目している。引きこもりで有名な、『完全無欠の聖女』の一挙手一投足に。

 ゆるくカーブした階段を下りきると、あとは皇帝陛下までまっすぐにホールの真ん中を突っ切ることになる。もちろん、誰も邪魔したりしない。前を行く者もいなければ、後ろに続く者もいない。本日の主役はユイだから。ユイだけだから。

 永遠に続くかと錯覚するような長い時間をかけてホールを縦断し、両陛下の眼前にいたる。父は膝を折り、ユイも深々と腰を落とす。

「そなたの娘か、カタスカーナ卿。」

「はい。ユーフィーミアと申します。恐れながら十八になりましたので、社交界への参加のご裁可を賜りたく。」

「許す。宮廷を彩る花となるように。」

「深謝いたします。」

 視線は床に固定したまま、頭上で交わされるやり取りに耳を澄ます。

 父がユイを紹介して社交界への参加許可を求め、皇帝が許す。これでご挨拶は完了だ。ただし、人数が多い場合は一人ひとりこのやり取りを繰り返すわけにもいかないので、略式の流れ作業――娘の紹介と社交界への参加許可は省略で、陛下の前で跪いて礼を捧げたら次の人に交代――となる。できればそっちのほうが良かったのだが、さすがにユイ一人ではそうそう省略もできないらしい。今更紹介しなくてもユイの名前もご存知だろうし、社交界に参加する許可もとっくに下りているだろうに、格式ばったあれこれは、無駄なような気がする。……が、最低限の体裁は必要ということだろうか。実に面倒くさい。

 まあ、これでミッションの半分はクリアしたわけで――と、内心油断していたのが拙かった。

「レディ・ユーフィーミア。面を上げなさい。」

 皇帝陛下から直接お言葉を賜って、ユイは激しく動揺した。事前に聞いていた話だと、娘のほうに直接声がかかることなんてないはずなのに!

 言われるままに顔を上げていいのか、まずいのか、さっぱりわからない。戸惑うユイは、ちらりと父に視線を送る。父がかすかに、でも確実にうなずいたことを確認して、おずおずと頭を上げた。無表情を保ち続けることはすっかり頭から抜けていたけれど、幸か不幸か、表情は無表情のまま完全に凍り付いていた。

 ――間近で見る皇帝陛下は、ロマンスグレーな渋いおじ様でした。

「アカデミーはどうだ? 不都合はないか?」

 陛下は青い目を優しげに細め、穏やかな声音でユイに尋ねる。神殿の問題解消の進捗状況を。

 というか、これは解決を急げという遠まわしの催促!? この衆人環視の中で、それを言っちゃうの!?

「……もったいないお言葉に存じます。皆様には、良くしていただいております。」

 冷や汗をかきながらも、ユイとしてはそう答えるしかない。まさか、本当のことを言えるはずもない。現状、祝福の暴走を抑えられるただ一人の『鏡の聖女』は大の筋肉嫌いで、なかなか思うように進みません、だなんて!

「そうか。……アレは勉学はできるが気が利かない。問題があれば、何でも言うように。」

 アレって学長先生のことかっ? 何かあったら直訴しろと言っているのか、この方は!? そんなこと、できると思っているのか!?

「恐れ多いことでございます。お心遣いに感謝いたします。」

「うむ。」

 幸い、陛下はそれ以上何もおっしゃらなかった。

 もっとも、それまでのごくごく短い会見の間に、ユイの精神はごっそり削られていたわけだけれども。


 ご挨拶が終わっても、ミッションはまだ半分残っている。

 父に手を引かれ、ユイはダンスホールの中央に進む。楽隊が演奏をワルツに切り替え、曲に合わせて父と踊る。広いダンスホールで、たった一組で。

 このダンスにしても、本来はデビュタントの娘たち総出で踊るのだが……今回はそのデビュタントがユイ一人なので仕方がない。わかってはいるが、観衆の視線が痛い。

 ……本当に痛い気がする。挨拶する前より、視線が突き刺さる。明らかに注目度が上がっているような?

「お父様。」

「なんだね?」

「陛下からお言葉があるって、どうして教えてくださらなかったのです。」

 表情は変えずに。あくまでも無表情を保ったまま、ユイは小声で父を責める。

「おかげで肝が冷えました。」

 下からぎりりと睨みつけると、父はそっと目線をそらす。

 返答しだいでは足を踏んでやる。凶暴な思いに駆られたユイは、そう覚悟を決めた。

 曲はまだまだ続く。足を踏むチャンスは、いくらでもあるはずだ。五センチとはいえ、ヒールで思いっきり踏まれたら悶絶するほど痛いはず。

 娘の不穏な気配を感じ取ったのか、父は平謝りに謝った。

「すまない。わたしも知らなかったんだ、ユイ。」

「知らなかったでは済まされません。おかげで恥をかくところでした。……わたしの受け答え、間違ってませんでしたよね? 問題ありました?」

 父も何も言わなかったし、つまみ出されることもなかった。だから何とか切り抜けたと思ったのだが……周りの視線の苛烈さからして、もしかしてとんでもない無作法をやらかしたのだろうか?

 不安に駆られるユイを安心させるように、父は微笑む。

「大丈夫。立派だったよ。みんな、感心しているんだ。……土壇場の胆力は、本当にサラサそっくりだね。」

「お母様?」

「そう。」

 ユイの記憶にかすかに残る母は、病床の姿だ。布団から上体を起こし、静かに庭を見つめる、たおやかで消え入りそうな儚い横顔。病状が悪化するまでは、よくそばに呼んで、いろんなことを話してくれた。優しくて、穏やかで、ちょっと茶目っ気もあって、自分のことよりも何よりも、残される家族と領民のことを心配していた母。

 ユイには優しげな印象しかないけれど、もっとずっと、芯のしっかりした人だったのだろうか。

 ……似て、いるのだろうか。心の中で、ずっとずっと目標として掲げてきた、母に。

 父が今でも母を深く愛していることは知っている。後妻の話はいくらでもあった。そのすべてを、一刀両断に切り捨ててきたことも。

 自分もなれるのだろうか。誰かにとって、そこまで大切な誰かに。

 父が本当に懐かしそうに、いとおしそうに目を細めるから――それ以上何もいえなくなって、ユイは黙って踊り続けた。


 結局、父の足を踏むことなく一曲踊りきり、ホールの隅に移ったときには、心底ほっとした。

 これでミッションはすべて完了。あとは、マリエが言うところの学生の特権にものを言わせて、折を見て帰ってしまえばいい。

「お父様。」

 言外に帰りたいアピールをすると、父は仕方がないなと苦笑した。

「挨拶だけしてくる。お前は……一緒に来るかい?」

 ユイはふるふると首を横に振る。

 冗談じゃない。できればご遠慮したい。ご挨拶回りとやらが終わるのを、おとなしくここで待っていたい。

 だが父は、ユイを一人置いていくことに難色を示す。

「よろしければ、わたしがユーフィーミアのお供をいたしますが?」

「きみは……。」

「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません、カタスカーナ卿。クィンシー・ラチェスターと申します。」

 振り返ると、しゃれたテールコートを完璧に着こなしたクィンシーが、穏やかに微笑んでいた。

 おしゃれな人間っているものだ。クィンシーを見て、ユイはようやくマリエの言っていることを理解する。

 奇をてらっているわけでも、流行に振り回されているわけでもない。かっちりした正装なのに適度に流行を取り入れていて、しかもそれが嫌味なく似合っている。それってなんだかすごくない?

 クィンシーが舞踏会に参加していること自体には、ユイはそこまで驚かなかった。招待状を持ってきたくらいだ。ここで知り合いに会うとしたら、クィンシーだろうと予想はしていた。

 ……まさか本当にいるとは思わなかったけれど。ユイも人のことをまったく言えないが、明日も普通にアカデミーはあるのだが。

「ラチェスター卿のご子息か。アカデミーの生徒総代だったね。」

「恐れ入ります。不肖の三男と、父には呆れられておりますが。」

「そんなことはあるまい。優秀なご子息でラチェスター卿がうらやましいよ。……そうだな。では、しばらく頼むよ。」

「承知いたしました。」

 ユイとしては一人だって大丈夫だといいたいところだが……今回が初参加なのだから、あまり無茶はすべきではないだろう。クィンシーなら知り合いだし、ユイよりは明らかに場慣れしている。

 結局何も言えず、父の背中が人混みに見えなくなるまで見送ると、「さて、と」クィンシーがにっこり笑って振り向いた。

「あらためまして。こんばんは、ユーフィーミア。先日のエキゾチックな衣装も良くお似合いでしたが、今日のドレスもかわいらしいですね。白のドレスはあなたの黒髪が良く映える。」

 ……クィンシーの常識には、女性はすべからく褒めるべしと書いてあるのだろうか。

 自分のドレスの評価については、マリエの言うとおりだと思っているユイは、一瞬返答に詰まる。あからさまな社交辞令は受け流すべきか? それともきちんと謙遜するべきか?

「恐れ入ります、クィンス。」

 迷ったユイは、眼差しを伏せ、とりあえずこれなら当たり障りがないだろうと思われる回答をしておく。

 間違ってはいなかったようで、クィンシーもさらりと次の話題に移った。

「お父君がお戻りになるまで、一曲いかがですか?」

「いいえ。……お誘いくださったことは感謝いたしますが、遠慮いたします。ダンスは不慣れなものですから、きっと足を踏んでしまいます。」

 勘弁してくれ。社交辞令にしても、言葉を選んで欲しい。こんな注目されている場で年齢の近い未婚の男と踊るとか――次の日どんな噂が駆け巡っていたとしても、不思議じゃないじゃないか。

「では、テラスに出ませんか。ここは少し空気が篭っているようですから。」

 それくらいなら、と、ユイはクィンシーに導かれ、ダンスホールから庭が良く見えるテラスに出た。ここならホールからもすぐに見える。庭に下りない限り、父がユイを見失うことはないだろう。

 幾何学的に整然と造られたセイル宮の庭園は、赤々とした松明で彩られて幻想的な雰囲気を放つ。

「ああ、やはり外のほうが風が気持ちいいですね。ホールの中は、少々息が詰まります。」

「慣れていらっしゃるように見えましたのに……。クィンスでもそう思われるのですか?」

「慣れているなんて、とんでもない。まだまだ周りに合わせるだけで精一杯ですよ、わたしは。」

「そんな。あんなに堂々としていらっしゃったのに。」

 ユイを見下ろすクィンシーのはしばみ色の目が、すっと細められる。

 ……どうしてだろう。顔は笑っているのに、笑っていないように感じるのは。

 夏の夜は、けして寒くはない。ダンスホールなどはむしろ人いきれで暑いくらいなのに――なのにどうして、寒気がするのだろう。むき出しの肩がこんなにも心もとないのは、どうして……?

「堂々としていたのはあなたのほうでしょう。初めての舞踏会で、皇帝陛下のお言葉を賜っても平然と返していたじゃありませんか。」

「そんなことは……。あれは、無我夢中で……。」

「おかげで、あなたの価値も跳ね上がった。カタスカーナ卿の掌中の珠で、『完全無欠の聖女』で、皇帝陛下の覚えもめでたい、ミステリアスな黒髪の美少女。」

 クィンシーの右手が、そっとユイの左手をとった。そのまま流れるように持ち上げて、口元に運ぶ。

「! いけません、クィンス!」

 手袋越しとはいえ、指先に口付けを落とされた。慌てて手を引こうとするが、抜けない。クィンシーが離してくれない。

「お戯れはお止めください、クィンス! ラチェスター様っ!」

 だがクィンシーは、悲鳴のようなユイの抗議をまるで無視すると、指先に口付けたまま、栗色の前髪の隙間から意味深にユイを見上げた。長い睫に縁取られたはしばみ色の目が剣呑に光り、ユイの鼓動を跳ね上げる。

「ラチェスター様っ!!」

「――わたしに、しませんか?」

 意味がわからない。眉をひそめたユイが首をかしげると、クィンシーはユイの手を下ろした。相変わらず、握ったままではあったけれど。

「今後、あなたには山のように縁談が申し込まれるでしょう。ああ、わかっています。あなたがラグロウズの外に嫁ぐことのない、聖女であることは。ですが、婿入りしても構わないと名乗りを上げる者は引きもきらないと思いますよ。わたしも含めて。」

「ラ、チェスター、さま……。」

「わたしなら、あなたを守って差し上げられます。わずらわしい求婚者に悩まされずに済みますよ? ラチェスターの名前は、その手の相手には有効でしょうからね。あなたは平穏な生活を、今と変わらず維持できるのです。」

 お得だと思いませんか?

 そう言って、にっこり笑うクィンシー。だけど、ユイにはわからない。だって、クィンシーは――

「ラチェスター様は、わたしに恋などなさっていないでしょう。」

 瞬間、クィンシーが見せた表情ときたら。何を言われたかわからないというように眼を丸くし、きょとんとして。なのに直後にけたけたと笑い始めて。左手で半分顔を隠しながら、それはもう、楽しそうに笑うのだ。

「な、なにがおかしいのですか。」

 そんなに笑われるようなことを言ったつもりはない。憤るユイがクィンシーを非難すると、彼は指の隙間からこちらを伺いながら「すみません」と、あまり心の篭っていない謝罪をした。隠してはいるが、涙目になっているところを見ると、本気で爆笑していたらしい。失礼な話だ。

「あなたがあまりに聡明だから――乙女でいらっしゃることを忘れていました。」

「どういう意味ですか。」

 ぷりぷりと憤慨するユイを、クィンシーは穏やかに目を細めて見つめる。

「いえ。――そうですね。最初からはじめましょうか。確かに今のわたしはあなたに恋はしていませんが、愛し慈しむことができると、そう確信していますよ。」

「……どこから沸いて出るんですか、その自信。」

 結婚してから恋をするとか。いや、ユイとしてもお見合い結婚とか否定するつもりはないのだけど、あまりに自信たっぷりいに言い切られても、信用できない。

 だが、クィンシーはユイの不信たっぷりの眼差しをにこやかに受け流した。

「だって、あなたはわたしの理想ですから。」

「……。」

「ラグロウズにはカルファシェットにないものがあり、カルファシェットにはラグロウズにないものがある。わたしたちの婚姻はお互いに利益を生むでしょう。それにあなたは聡明だ。銀の匙を咥えてわがまま放題に育ったお嬢さんもかわいらしいとは思いますが、生涯のパートナーに選ぶなら、きちんと話し合いができる相手がいい。……ああ、気づいていらっしゃらないようですが、男のどんな話もニコニコ笑って聴いてくださる女性は、貴重ですよ?」

 家同士のつながり、利益という意味ならば、ほかにいくらでもいるだろう。そう言い掛けたユイをクィンシーが牽制する。ユイが開きかけた口を渋々閉じるのを見て、クィンシーは満足げに笑う。

「おまけにあなたは優しく美しい。抱きしめたら壊れてしまいそうにたおやかなのに、芯はしっかりしていらっしゃる。これで、いとおしく思わないはずはないでしょう?」

 冷静に利害関係で説得されるなら、まだ対処できるのに。褒め言葉を並べ立てられると、どうしたら良いかわからない。

 羞恥で頬を赤く染めるユイに、クィンシーはさらに畳み掛ける。

「結婚すれば、生涯大切にしますよ? 浮気もしないし、妾も作りません。全体的に見て、お互いにお得でしょう? ですから――わたしにしませんか、ユーフィーミア?」

 クィンシーのささやきは、毒のように甘かった。


 ***


 ごとごと揺れる馬車がカタスカーナ邸の前に止まる。先に馬車を降りたのはクィンシー。彼は降りてすぐにその身を翻し、続くユイに手を差し伸べた。

「ありがとうございます、ラチェスター様。」

「どういたしまして。」

 なぜユイがクィンシーと帰宅しているかというと、挨拶回りに行った父が仕事で帰れなくなったからだ。そもそも、本来なら今日の舞踏会は通常の舞踏会であって、皇帝陛下が主催する予定も、参加なさる予定もなかった。そこに無理矢理参加予定をぶち込んだものだから、各所の予定にひずみが出まくっているのである。

 分刻みでスケジュール管理されている相手の予定を直前で大幅に変えたのだから、当たり前とも言える。迷惑な話だ。

 当然セイル宮で働く父の仕事にも影響し――娘がデビュタントだからと、舞踏会開幕まではあれこれ免除されていたらしいのだが、終わった途端に仕事につかまったというわけだ。

 まあ、ユイとしては父の残業に付き合うつもりは毛頭ない。仕事で帰れないことを告げに戻ってきた父に「では一人で帰りますね。」とさっさと帰ろうとしたら、クィンシーまで一緒になって猛反対され、気づいたらなぜか彼に送られることで決着が付いていた。

 というか、父はどうしてそんなに、クィンシーを信頼するのだろう? ラチェスター家の信頼か? それともアカデミーで生徒総代を務めている実績か?

 とにかく、そんなわけでユイはクィンシーに送られて帰宅したのだった――が。

「あの、ラチェスター様?」

 馬車を降りるのに手を貸してもらったのには感謝する。だが、いつまでも手を離そうとしないのはどうなんだろう。

 ユイがおずおずとクィンシーを伺うと、彼はふっと笑った。

「そんな顔しないでください、ユーフィーミア。あなたを困らせるつもりはありません。」

「で、ですが……。」

 困らせるつもりがないと言うなら、今すぐその手を離せ。さあ、離せ!

(って言えればいいんだけど……。)

 生粋のラグロウズ人たるユイには、なかなかにハードルが高い要求である。

「わたしたちは友人ですね?」

「は、はい。」

「よかった。なら、クィンスとお呼びください、ユーフィーミア。」

「でも……。」

 言い渋るユイに、クィンシーはその甘い色の目を切なげに伏せる。

「お願いします。わたしを友人と思ってくださるのなら。」

「……わかりました、クィンス。」

 そうまで言われて、拒み続けることもできない。ユイがうなずくと、クィンシーは蕩けそうな顔で笑った。その笑顔のまま、手にしたユイの右手に上体を倒す。柔らかいクィンシーの前髪がユイの手の甲に触れる。口付けこそしないけれど、それは騎士が貴婦人に送る礼で――

「ク、クィンス!」

 ようやく解放された右手を左手で守るように胸に抱え、涙目のユイは急いで二、三歩後ずさる。

「なんてことを!」

 悪びれもしないクィンシーは、くすりと笑う。

「散々他人行儀に呼んでくれたお礼です、ユーフィーミア。では、また明日アカデミーでお会いいたしましょう。」

 そういい残すと、クィンシーはさっさと馬車に乗り込んでしまう。

 家路をたどるラチェスター家の黒塗りの馬車が見えなくなるまで、ユイは右手を抱えたまま、その場を動けなかった。

「――ユイ様。」

 振り返ると、ショールを腕にかけたユートが静かに立っていた。

 いつからいたのだろう。ぜんぜん気づかなかった。

「あ、あの……。」

「夏とはいえ、夜は冷えます。そのお召し物では、お風邪を引いてしまいますよ。」

 ふわりと、肩に掛けられるショール。ユイのむき出しの肩がすっかり覆われたことを確認すると、ユートはユイから距離を置き、屋敷に入るよう促す。

 いつものことだ。ユートは必要以上にユイに触れることも近づくこともない。常に、主家の姫君と使用人の距離を保っている。いつだって手を伸ばすのはユイのほう。

「ユイ様?」

 ユイたちの帰りを待っていたのだろう。明るい玄関ホールで、ユイは立ち尽くす。自室に戻ろうとしないユイに、いぶかしんだユートが首をかしげた。

「どうかなさいまし――」

「見てたよね?」

 最後まで言わせるつもりはなかった。ユートに任せていたら、ユイはさっさとマリエに預けられ、風呂に入れられ着替えさせられて、ベッドに直行だ。そうなったらたぶん、二度と確認するチャンスはない。

「見てたでしょう。わたしが、クィンスに送ってもらったの。」

「……ユイ様。」

 否定の言葉はない。なら肯定したも同じだ。

「ユートさんは構わないの? わたしが誰と帰ってきても。誰に触れられても。」

 右手の甲をさすりながら、ユイは泣きそうになるのを必死でこらえていた。

 実際に触られたのは馬車から降りるためだ。それだけなら、まだいい。まだわかる。でも最後のあれは駄目だ。騎士が貴婦人に送る礼。あれは、騎士が心を捧げた女性に送る礼なのだから。

「わたし、クィンスにプロポーズされたよ。」

「……。」

「もちろん、ちゃんとお断りしたよ。好きな人がいますって。でも……ねえ、知ってるでしょう? わたし、ユートさんがっ」

「いけませんっ!」

 ユイの言葉を遮るユートに肩を押され、気づいたら扉に押し付けられていた。頭の横には囲い込むようなユートの腕。ショールを羽織っただけの肩には、さらさらした亜麻色のユートの髪。

「……頼むから、それ以上挑発しないで。ユイがほかの男に言い寄られて、僕が平気だって、本当に思ってる?」

 首筋にかかる吐息がくすぐったくて、ユイは身をすくめる。

「なら、言わせてくれても……、」

 ぐずるユイの唇に、ユートが人差し指を押し当てた。肩から頭を起こし、額と額を突き合わせ、至近距離で覗き込まれる。お山の緑のような深い緑色の目は、相変わらず優しくて――

「ダメだよ、ユイ。まだダメ。今はまだ、それ以上は言っちゃいけない。」

「なんで? なんでダメなの? まだダメって、いつになったらいいの? わたし、わたし……。」

 ユイの赤い目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。ひび割れたコップのように、涙をこらえられない。

「ユイ……。」

「ずるいよ、ユートさん。ずるい。いつだって期待させるだけ期待させて、言っても言わせてもくれないんだもん。ずるいよ……。」

 指でぬぐうこともできず零れ落ち続ける涙の雫を、ユートの唇が優しくぬぐう。両の頬から、両のまぶたへ。ユートの緑の目とユイの赤い目が絡み合い、降り注ぐ口付けは、自然と互いを求め合うように引き寄せられて――

「っ! 申し訳ございませんっ!!」

 互いの唇が重なる直前、幻のようなひと時は、ユートの手によって破られた。

 己からユイを引き離し、そのまま距離をとったユートは、赤く染まった顔を背ける。

「……失礼。頭を冷やしてまいります。」

 そのまま足早にその場を後にし――残されたユイは、ただずるずると座り込むことしかできなかった。

「ずるい。ずるいよ、ユートさん……。」

 こぼれる涙をこらえることもぬぐうこともできず……慌てたマリエが迎えに来るまで、膝を抱えて泣き続けることしかできなかった。

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