ユイと噂と会席の攻防
朝食も食べ終え、ユートとマリエが登校のための馬車を手配してくれている間、ユイはテラスでぼんやり前庭を眺めていた。ありがたいことに、クィンシーも迎えにこなかったので、実にのんびりと待っていられた。気分は日向ぼっこだ。
ラグロウズの邸宅同様、ここの庭もよく手入れされている。サルビア、ペチュニア、マリーゴールド。目に鮮やかな可憐な花々の向こうに、一本の枝垂桜があった。柔らかく枝を垂らす桜は、涼しげな青い衣をまとっている。
ウッドチェアから立ち上がり、引き寄せられるように近づいたユイは、その立派な幹に手を添えた。
(これ……。)
おそらくラグロウズから移植されたのだろう。見事な桜だ。注連縄がかけてあっても不思議じゃないくらいの古い立派な桜――
(これなら……、)
「お嬢様?」
いぶかしげなマリエに名前を呼ばれ、ユイははっと我に返る。そうだ、これから登校するところだった。
「どうされました、お嬢様?」
「ううん、なんでもない。」
早足で戻ると、ユートに手を引かれて昨日と同じように黒塗りの馬車に乗り込む。続いて乗り込んだマリエと向かい合わせに座りながら、ユイはふと気がついた。
「ほかのみんなはどうやって登校してるの?」
「乗合馬車か徒歩ですね。歩けない距離じゃありませんから。」
ごとごと揺れながら石畳を進む馬車の速度は、確かにそんなに早くない。そして時間もかからない。カタスカーナ邸からアカデミーまで、とびっきり遠いというほどではないのだろう。
ユイだって田舎育ちだ。みんなが歩けるなら自分だって――
「言っておきますけど、お嬢様が歩いて通学なさるのは無理ですからね。話を聞きつけたラチェスター様に迎えに来て欲しいなら別ですが。」
「……ごめんなさい、なんでもないです。」
勘弁して欲しい。そんなことになったら、いたたまれなさで身動きも取れなくなるに違いない。
マリエに睨まれ、おとなしく開きかけた口を閉じるユイである。
少女たちを乗せた馬車がアカデミーに到着したときも、そこにクィンシーの姿はなかった。その後、事前に受け取っていた受講可能リストにあるいくつかの講義を聴いたときも、やはりマリエと二人だった。
ありがたいと思う反面、どうやって仲良くなればよいのだろうと考えずにはいられない。クィンシーは困ったことがあればいつでも訊きに来い的なことを言っていたが、二年の教室まで来いという意味だったのだろうか。それとも、クィンシーを探して薔薇園やらライラックの庭やらを見て回れということか。マリエの担当のアルヴィン・アインズレイはたぶん、授業後に図書館に行けばいつでも捕まるのだろうけれど。
答えがわかったのは、昼食の時間だった。
……イヤでも理解したとも。アカデミーの食堂に向かうと、食堂前のホールで笑顔のクィンシーが待ち構えていたんだから。
昼食を求める生徒でごった返しているにもかかわらず、優雅にたたずむクィンシーの周りだけはなぜか、ぽっかりと空いていた。普通の生徒が近寄りがたくなるような、一種のオーラが出ているに違いない。遠巻きに、だが確実に注目されまくっているクィンシーに近づかなければならないと考えるだけで、ユイの背中に冷や汗が流れた。
そんなユイの心情など知る由もないクィンシーは、ユイに気づいてにこやかに近寄ってくる。
「こんにちは、ユーフィーミア。初講義はいかがでしたか?」
にっこり微笑むクィンシーは、間近で見ても、相も変わらずきらきらしい。
ユイも軽く膝を折って礼を返しつつ、笑顔で答える。
「ごきげんよう、クィンス。」
名前で呼んだ途端、周りで聞き耳を立てていた聴衆がどよめいたのは聞かなかったことにしたい。あれか。やっぱり、ラチェスター家のご子息を愛称呼びするとか、特別対応だったのか。
「おかげさまで、つつがなく聴講させていただいております。やはりアカデミーの講義はすばらしいですね。受講させていただいた講義はまだ少ないですが、どれも興味深いものでした。」
「そうですか。それはよかった。」
ごくごく滑らかにエスコートの体勢をとったクィンシーに導かれ、食堂に入る。そのまま日当たりの良い窓際の席に連れられ、椅子を引かれたら、座らないわけにはいかないだろう。
(……やっぱりこうなるのね。)
当たり前のように向かい側の席に座るクィンシーに、ユイは必死に笑顔を貼り付けた。上品に。可憐に。貴婦人らしく。
まなざし一つでウェイターを呼びつけたクィンシーから、メニューを受け取る。華麗な飾り文字で書かれたメニューの豊富さにマリエと二人で目を白黒させていると、クィンシーはそのはしばみ色の目を柔らかく細めた。
「オススメはシェフの気まぐれランチですよ。毎日、何が出るかわからないんです。楽しいですよ。」
……それは冒険と違うのか。
ついマリエと目を合わせてしまったユイだが、だからといってほかに食べたいものがあるわけじゃない。おとなしくオススメとやらに従うことにする。
多少待った末に運ばれたのは、白身魚のポワレだった。一口いただいて、驚きに目を丸くする。
「おいしい。」
思わず賞賛が口から漏れた。
自分が褒められたわけでもないのに、クィンシーは実に満足そうにニコニコ笑っている。
「でしょう? 迷ったときは、いつもこれにするんです。」
「まあ。」
冒険だろうと何だろうと、ご飯がおいしいのは良いことだ。付け合せのマッシュポテト、人参のグラッセ、きのこのソテーと共に、おいしくいただくことにする。
「ご不自由はありませんか。」
「皆様、ご親切にしてくださいますから。」
「それなら良いのですが。」
そもそも、まだ聴講一日目、それも半日が終わったばかりだ。不慣れといえば不慣れだが、問題といえるほどの問題など起きるはずもない。わからないことも多いが、実際にやってみれば何ということもない場合も多いのだ。一つ一つはささやかな問題ばかりで、それはユイが一つずつクリアしていくべき課題でもある。学年も違う、いろいろと忙しいだろうクィンシーに面倒をかけるべきではない。
だから大丈夫。そう、ユイは告げたのだが――
「本当ですか?」
眉根を寄せ、憂い顔のクィンシーが小首をかしげる。ふわっとした栗色の髪が柔らかく頬にかかり、甘い色の瞳には気遣いの色が浮かぶ。
「ラグロウズの女性は遠慮深いと伺いました。もし気兼ねなさっているのでしたら……そのご配慮は無用です。どんなに些細な問題でも構いませんから、何でも相談してください。」
「で、ですから大丈夫ですっ。」
ぐっと身を乗り出すクィンシーに、反射的に引き下がりそうになる上体を、腹筋に力を込めて耐える。
……というか、助けてくれるというなら今、助けて欲しい。なんで一々近づかなくちゃいけないんだっ!
だがクィンシーは、ユイの内心など知らず、さらに距離をつめる。伸ばした指先が、ユイの手に添えられる。優雅な美貌に対し、意外なほどゴツゴツしたクィンシーの手のひらは、ユイの手をすっぽりと覆い隠してしまうほど大きくて力強い。
握られたわけじゃない。掴まれたわけじゃない。ただ軽く添えられただけ。触れたかどうかもわからないくらい、ほんの軽く。
それなのに。それだけなのに。ユイの思考は焼き尽くされたように真っ白になる。景色が、音が、周りのすべてが急速に遠ざかったように感じる。
「何があるかわかりませんし、わたしたちはクラスどころか学年も違う。何か起きたときのために、これからお昼をご一緒するようにしませんか? すぐにお助けすることはできませんが、お話を伺って、対処することはできますから。」
アカデミーの中で何があるって言うんだ!
叫びたいのに声が出ない。何かが張り付いたように喉がからからで、呼吸もままならない。
混乱するユイの思考に、クィンシーの甘ったるい声音が拍車をかける。
「ね、ユーフィーミア。お願いですから、うんと言ってください。」
言われるままにうなずけば、この泣きたくなるような羞恥から開放されるのだろうか。
目を瞑ったユイが我知らずこくこくうなずいていると――
「それは名案だね!」
頭から降ってきた場違いなほど明るい声が、おかしな空気を打ち破る。声につられて視線を上げれば、ひらひらと手をふるカリールがそこにいた。黒い目を興味深そうに輝かせ、口角をきゅっと吊り上げて。
「でん、か……。」
「カリールだよ、ユフィ。やあ。今日のびっくり顔の君も愛らしいね。」
「……何しに来たんです。」
ため息をついたクィンシーが身を引いた。それと共に彼の指先が離れ、遠ざかっていた周囲が戻ってくる。ユイの思考と一緒に。
隣ではらはらと見守っていたマリエに気づき、大丈夫だよと目配せした。
……気分的には、まったく大丈夫じゃないけれど。
「もちろん、噂の真相を確かめに。さあさあ、僕も混ぜてよ。抜け駆けはフェアじゃないよね。君たちが後生大事に掲げる騎士道精神にもとる行いじゃない?」
クィンシーの隣の空いた席に容赦なく座りながら、カリールはぱちんとウィンクを飛ばしてみせた。あまりに堂に入ったしぐさに、一瞬びくついたユイも苦笑いするしかない。
「噂、ですか?」
身に覚えがないらしいクィンシーが顎に手をあてて首をかしげる。
本気でわかっていないらしいクィンシーに、カリールは呆れて肩を落とした。クィンシーから手渡されたメニューを開いてすばやく注文を決めながら、人差し指をぴっと立てる。
「誰にでも優しいけど、特定の相手はぜったいに作らない堅物総代が、食堂で女の子を口説いている。」
「……なんですか、それは。」
「だから噂だよ――本当だったみたいだけど。アカデミー中、その噂で持ち切りだよ?」
総代――クィンシーが女の子を口説いている。考えるまでもない、女の子とはユイのことだろう。まさか、この食堂でのやり取りがそんなに早く広まるなんて。注目されているなあとは思っていたけれど。
(どうしよう。この先、どんな顔でアカデミー内を歩けばいいんだろう……。)
軽く絶望するユイに、カリールが意味深に微笑んでみせる。
「話を聴いてすぐユフィのことだと思ったけど、やっぱりね。」
「失礼なことをおっしゃらないでください、カリール。」
「どうしてさ。悪いことじゃないだろ、別に。それともあれかな、ラチェスターにとって、ユフィは隠しておきたい相手かい?」
「そういう物言いが失礼だと……。」
クィンシーは眉をひそめて不快感をあらわにしたが、カリールは毛ほども堪えていないようだ。けろりとして――どころか、わざとらしく目をぐるりと回してみせる。
「そういうところが堅物だって言われるんだよ。いいじゃないか。ラチェスターがユフィと仲良くなったって、何の問題もないよ。もちろん、僕も混ぜてくれる前提だけどね。」
本日の肉料理である、がっつり重そうなソテーを信じられないくらい上品に口に運びつつ、カリールはユイににっこりと笑いかける。
「ねえ、今日からなんだよね、授業に参加するの。」
「はい。数はまだ少ないですけれど、今日の午前の講義を拝聴いたしました。」
「ふうん。どうだった? 退屈じゃなかった?」
(落ち着くまでは、誰にでも聞かれるんだろうなあ。)
少しばかりうんざりしつつも、そんな本音は微塵も表に出さないように気をつけながら、ユイは微笑む。
「いえ。どの講義も興味深いものでした。さすがはアカデミーですね。」
「そう? 僕のオススメはねえ、ノートン教授の幾何学。取った? 面白いから、機会があったら聴いてみてよ。」
「まあ。数学がお好きなのですか?」
数字が苦手なユイとしては、数学が好きだといえる人間は無条件で尊敬する。軽く目を見開いて尋ねると、カリールはこくりと首を縦に振った。
「数の世界は美しいよね。それに――」
目も口も三日月の形にゆがめて、カリールはにやりとしか言いようのない笑みを浮かべる。
「若作りの教授のカツラがいつ取れるか、興味津々じゃない?」
「カリール!!」
クィンシーの絶叫が食堂を貫く。予想していたのだろう、しっかり耳を塞いだカリールの笑顔は、とても輝いていた。いたずらを成功させた悪童のように。
(ああ、この笑顔は見覚えがあるわあ。)
悪意のないドッキリを成功させたときのエマとシオンのコンビ――マリエいわく坊ちゃんズ――とまったく同じ顔だ。なんとはなしに、乾いた笑いが漏れそうになるユイである。
ユイほどいたずらに耐性がないらしいクィンシーは、頭を抱えてテーブルに突っ伏している。
「なんということを……。冗談もほどほどになさい。」
「いいじゃないか。これくらいの楽しみがなくっちゃ、授業なんてやってられないよ。そうじゃない、ユフィ?」
「この阿呆の戯言はまともに受け取らなくて結構ですよ、ユーフィーミア。」
ええと、これはなんと答えれば。
どちらかに肩入れするのも微妙な気がして、ユイはどっちつかずの曖昧な笑みを浮かべ続けた。ラグロウズ人の得意技、困ったときは笑ってごまかせ! だ。
そうやって何とか受け答えている間に食事は進み、食後の紅茶も運ばれて――気がつけば、目の前には空の皿が並んでいた。
……いつの間に食べてしまったのだろう。せっかくのおいしい食事だったというのに、ろくに味わえなくてもったいない。
あとから食べ始めたカリールも、やはり食べ終わっていたらしい。空っぽの皿の脇にナプキンを置き、軽やかに席を立った。
「さて、いつまでもユフィとおしゃべりしていたいところなんだけど……次の教室がちょっと遠くてね。そろそろ時間なんだ。」
あわてて立ち上がろうとしたユイを片手で制して、カリールは長い睫が縁取る黒い目を和ませる。
「何かあったら、僕にも相談してね、ユフィ。君の事情を詮索するつもりはないけれど、カタスカーナ・マイナー――弟君がずいぶん心配していたよ?」
どうやらエマも、着実に作戦を実行に移しているらしい。おどけたノリで首を突っ込んで来たかに見えたカリールだが、どうやらユイを気遣ってくれていることに違いはなさそうだ。
「恐れ入ります。お心遣い、痛み入ります。」
「気にしないで。じゃあ、またね。」
ひらひらと手を振って去っていくカリールに、ユイとマリエは深く頭を下げた。
カリールが抜けたことで気も抜けたのか、クィンシーはふうと息をついて席を立った。
「わたしたちも、そろそろ出ましょうか。」
笑顔で手を差し伸べるクィンシーに促され、ユイも立ち上がる。そのまま滑らかにエスコートされながら食堂を出た。
食事前にはあれだけ混雑していたホールは、今は人気もまばらで、ひっそりと静まり返っている。
「騒々しくてすみませんでした。本当はもっと、ゆっくりしていただきたかったのですが……。」
まあ、確かに。ご飯の味もわからないくらい、いろいろすり減らした会食だったけれど。
「いえ。とても楽しく過ごせました。」
お世辞ではなく、クィンシーとカリールに笑わせてもらったのも確かで。だからユイは、クィンシーにも頭を下げる。
「お気遣いいただき、感謝いたします。」
「とんでもない。顔を上げてください、ユーフィーミア。当然のことをしたまでです。」
泡を食ったように手を差し伸べるクィンシーと視線が絡んで、一呼吸置いた後に自然に微笑み交わして――
「それでは、また明日もホールでお待ちしておりますね。」
笑顔で別れを告げるクィンシーに「はい」とうなずきかけて、ユイははっと我に返った。
いつの間にご飯を一緒に食べることになった!?
叫びたいのはやまやまだったけれど、考えてみればこれが仲良くなるということではないだろうか。クィンシーから近づいてきてくれてるんだから、それに越したことはないのでは?
……なんだか余計に深入りしている気がしないでもないのだが、些細な疑問にはこの際目を瞑ることにして、笑顔でクィンシーを見送るユイであった。
経営学。法学。文法に文学。音楽に美術。歴史に古典に哲学に。面白いところだと、会話術とか歓待方法とか。さすがに医学や薬学は対象外だけれど、聴講可能な講義のリストは多岐にわたる。マリエときゃっきゃと相談しながら、聴いてみたい授業を選ぶのも楽しく、実際に教室に顔を出すのも、また楽しくて。気がつけば、あっという間に一日が終わっていた。
「楽しかったね、マリちゃん!」
迎えの馬車が来ているからと、マリエと共に駐車場に向かう途中、ユイは興奮気味に頬を赤く染める。
「それはよろしゅうございました。お疲れではございませんか?」
「平気っ。おんなじところに、おんなじくらいの年の子がたくさん集まるって、なんか凄いね!」
今までユイは家庭教師と一対一か、マリエを交えての二対一でしか勉強したことがない。ラグロウズでも里の子供たちへの授業では、一人の教師が大勢の子供たちに教えていたけれど、そこにユイが参加したことはなかった。ユイにとっては何もかもが珍しかったのだ。
それはマリエもわかっているのだろう。ラグロウズ語でまくし立てるユイに注意することもなく、ニコニコと聴いてくれた。
その興奮は迎えに来たユートに会っても治まらず。
「ユートさんっ!」
ぴょこぴょこと跳ねそうな勢いで近寄るユイを、両手を広げたユートが抱きとめるように迎える。
「授業受けてきたよ! アカデミーって凄いね。びっくりしちゃった!」
上気する頬、興奮で潤んだまなざしで「凄い」を連呼するユイに、ユートは眦を下げた。
「そうですか。楽しかったのですね、ユイ様。よろしゅうございました。ですが、お疲れではございませんか?」
ユイはきょとんとした後に、ころころと笑った。意味がわからないユートが不思議そうに首をかしげる。
「ユイ様?」
「やだ、ユートさん、マリちゃんとおんなじこと言ってる。」
「それはそれは。」
馬車に乗り込むためにユートに手をとられたときも、くすくす笑いは治まらず。異変に気づいたのは、いつもの位置に腰を落ち着けてからだった。
「マリちゃん?」
いつもなら、ユイが乗り込んだらすばやく続くマリエが乗ってこない。乗り込む素振りもない。それどころか、ロータリーから見送る姿勢だ。
「お嬢様っ!?」
ユートの制止も聞かず、ユイは馬車から身を乗り出す。
「マリちゃん、どうしたの?」
「お行儀が悪いです、お嬢様。」
さすがにこの無作法は見逃せなかったのか、渋い顔で注意するマリエ。だがその苦虫を噛み潰したような顔は、すぐにしれっとした顔に取って代わった。
「あたしはちょっと図書館に寄ってきます。お疲れのお嬢様は先にお戻りください。」
――マリエはアルヴィン・アインズレイと会うつもりなのだ。
(わたしのときは、マリちゃんがそばにいてくれたのに。)
遅まきながら、マリエが自分一人で作戦を遂行しようとしていることに気づき、ユイは急いで馬車を降りる。マリエだけに戦わせるつもりはない。
「わたしもっ、」
「お嬢様はユート兄さんとお戻りください。なんでしたら歩いてお帰りになっても結構ですよ? 御者はもう一人連れてきているはずですから。兄さん、お嬢様は任せたわよ。」
「マリちゃんっ!?」
「……だからもう一人連れて来いなんて言ったのか。大荷物でもあるのかと思ったけど、ちょっとおしゃれな格好で来いなんても言うからおかしいと思ったんだ。」
泣きそうな顔で非難するユイ、眉を八の字にして苦笑するユートに対し、マリエは何食わぬ顔でつんと顎をそらす。
「余計なおせっかいなのは承知の上であえて言わせてもらいますけど、二人ともせっかく一つ屋根の下で暮らしてるっていうのに、ちゃんと話し合ってます? 一度くらい、ちゃんと腹割って話してくださいね?」
「マリちゃぁん……。」
「じゃあ、あたしはもう行きますから。くれぐれもお嬢様を頼んだわよ、兄さん。」
「お目付け役がそんなにあっさり職務放棄していいのかな? 送り狼でも出たらどうするつもり?」
「ユユユユユートさんっ!?」
送り狼、送り狼って! この場合「送って」くれるのは誰だと!? ユートさんなんですよ!!
いたずらっぽく目を光らせたユートにとんでもない発言を投げつけられて、あっさりきびすを返して戻ろうとしていたマリエの足も止まる。ぎぎぎ……と音がしそうなゆっくりとした動作で振り返ると、恨みがましい目でユートを睨みつける。
「……兄さん。」
「ん?」
やましいことなど何もないといわんばかりの、悪びれないユートの笑顔に、マリエは盛大なため息をついて肩を落とした。
「好きにして。兄さんにそれだけの度胸があるなら、今頃あたしはこんな苦労をしてないから。」
「……。」
マリエはもう一度おなかの底から搾り出したような大きなため息をつくと、今度こそ後ろも振り返らずに図書館までの道を戻っていく。
残されたユイたちは、哀愁すら漂わせながら雄々しく去っていくマリエの背中を黙って見送るしかなかった。
「……僕たちも帰りましょうか。」
「……うん。」
馬車で帰るか訊かれ、ユイは黙って首を横に振る。
せっかくの機会だ。どうせなら帝都を歩いてみたい。そう告げると、ユートは微笑んで左手を差し伸べる。
「行きましょう。」
「……はい。」
幸せで泣きそうになりながら――ユイはユートの左手に、自分の右手を絡めた。
あそこのケーキがおいしい。あそこの雑貨屋さんは小物がかわいい。あそこの公園は藤棚が見事。夕焼けに紅く染まる帝都をユートに案内されながら、のんびり帰ったその時間は、ユイにとって最高に幸せなひと時だった。
……あとで微に入り細にわたって報告したマリエには、「あのヘタレが」と大変不評だったけれど。
いいもん、自分たちには自分たちのペースがあるんだから。
***
午前中の講義を聴講して、昼食はクィンシーと、しばしばカリールと共にいただいて。午後の講義に参加し、たまには、授業後の薔薇園でクィンシーとお茶をする。ユートと一緒に帰宅して、数日ごとにみんなで状況を確認する。
そんな日々が二週間も続いた頃だろうか。
「ねえ、マリちゃん。あれって……?」
「見間違えじゃありませんよ、お嬢様。確かに彼女です。」
一日の授業を終え、いつものように迎えの馬車で帰ろうと駐車場に向かったら、ロータリーに、彼女が立っていた。
肩先でくるりと巻いた金髪は光をはじき、宝石のような真っ青な目がきらきらと輝く。すっと通った鼻筋と、ふっくらした可憐な唇、白磁の肌。間違いない、メアリ・フェイバーだ。
湖の貴婦人の神官であり、物語の主人公であるはずの美少女は、腰に手を当て、両足で大地を踏みしめるように立ちながら、なぜかユイたちを待ち受けていた。




