ユイとマリエと帝国アカデミー(中)
「お嬢様に貴婦人らしさを求めても無理……でもお嬢様はただの貴族の姫君じゃない、あくまでも『聖女』なんだから……華やかでも俗っぽい令嬢としての振る舞いより、多少野暮ったくても清楚できっちりした格好のほうがそれっぽいか……? うん、そうだ。それでいこう。それなら予算も少なくて済むし、お嬢様もぼろが出ない。」
痛む頭を抱えつつ、それでも自分を納得させたらしい。なにやら真剣につぶやいていたマリエは、うんうんうなずいてゆっくりと目を開けた。
「お嬢様。お嬢様が実にぽんこつな見掛け倒しだということは、幸い外の人間は誰も知りません。聖女様らしく、黙って意味深に微笑んでさえいればエキゾチックな佳人で通りますから、その線でいきましょう。」
「ぽんこつな見掛け倒し……いくらなんでも酷過ぎるよ、マリちゃん……。」
「ぽんこつがお嫌なら、へっぽこでもぬけさくでもへたれでもお好きなのをどうぞ?」
にっこり笑う従姉が怖すぎる。身に覚えがないわけでもないユイは、おとなしく引き下がるしかなかった。
そんなユイに、はあ、とあからさまなため息をつくマリエだったが、「とにかく」と表情を引き締めた。
「時間がございません。進められる準備は平行で進めましょう。お嬢様は例祭のご準備をお願いします。」
「わかった。マリちゃんは?」
「あたしは引越しの準備をします。入学関連の手続きの確認と荷物の手配、渡航準備……主に事務手続きですね。」
「面倒かけてごめんね。よろしくお願いします。」
自分にできないことをやってもらっている自覚があるユイは、手をついて深々と頭を下げた。すると、それまでの態度が嘘のように慌てたマリエが、両手を振ってユイを止める。
「や、止めてくださいっ。言ったじゃないですか、あたしはいつだってお嬢様の味方だって! 準備くらい、いくらでもやりますよ!」
「でも……。」
「でももけどもナシです! あたしがやりたくってやってるんです! だからお嬢様でも口出し無用です!」
「うん……。じゃあ、ありがとう。」
これだけお世話になっているのに何も返せない。謝罪させてもくれない。それならせめてお礼は心から――と、マリエの目をまっすぐに見つめてお礼を言ったら、なぜか真っ赤になってそっぽを向かれた。口元を手で覆って、うーとかあーとか、うめいている。
「マリちゃん?」
「――天然はこれだから……。いえ。何でもありません、お嬢様。どうぞお気遣いなく。アカデミーまではお供できませんので、せめてこれくらいはさせてください。」
いまだ耳まで赤くしながら正面を向いたマリエに、今度はユイが動揺する番だった。
「え? え、え、えええっ!? マリちゃん、アカデミーまで来てくれないの!?」
身を乗り出して叫ぶ。
マリエが一緒に来ない可能性など、考えもしなかった。ユイが行くところ、どこだってマリエが一緒だと思っていたのに。
「なんでっ!?」
「なんでって……。単純に年齢制限です。」
「マリちゃんだってまだ十八歳じゃないっ! 同い年でしょ!?」
「年齢は一緒ですが、あたしは早生まれですから。学年だと一年上になるんですよ。」
つまり、マリエの場合は浪人か留年でもしていなければ、すでに卒業していることになり――
「なのでアカデミーへはお供できません。もちろん帝都へはお供しますから、ご安心を。それにアカデミーにはレンもリカもおります。ご不自由はおかけしません。」
「そんなあ……。」
へなへなと座り込む。マリエが一緒じゃないなんて。かけらも想像していなかった事態に、ユイは落胆する。マリエの妹たち――レンもリカも良い子たちなのはわかっているし、不満があるといったら怒られるだろうけれど、やはりマリエじゃないのは不安がある。具体的に何がどうとはいえないのだが、生まれたときからずっとそばにいてくれたマリエが近くにいないというのが、そもそも不安の塊なのだ。
「だ、大丈夫ですよ。お嬢様はちゃんとしてればちゃんと聖女様に見えますから、心配要りません!」
「見た目だけのへっぽこなんでしょ?」
「……っ! 中身もです! 自信を持ってください。七歳のときから今まで、お山のヌシ様に舞を奉納されたのはお嬢様、ユイ様なんですよ!」
「そうかなあ?」
首をかしげるユイに、拳を握ってマリエが力説する。
「そうですよ! いいですか、お嬢様は容姿も立ち居振る舞いも何の問題もございません。あとは常におっとりと優雅で上品な微笑を心がけて、言葉遣いさえ、お気をつけいただければ大丈夫です!」
「言葉遣い? わたしのしゃべり方、どこかヘン?」
「ヘンではございませんが、貴婦人らしくはございませんので。穏やかなトーンで早口にならないように……は大丈夫ですから、あとはエレンダール語の雅語を使っていただければ、それだけで十分……って、お嬢様?」
見る間に顔色を変えたユイに、マリエがいぶかしむ。
ユイは真っ青な顔でカタカタと震えていた。自分自身を抱きしめるように両腕を回す。それでも震えは止まらない。不安が消えない。
「……マリちゃん。どうしよう。」
「ですからどうなさいました、お嬢様? 具合がお悪いなら、少し早いですが、お休みになりますか?」
差し伸べられた手を力いっぱい掴む。そして思い当たってしまった恐ろしい事実を口にした。
「わたし、エレンダール語わかんない。」
「はい?」
ユイがこれまでに見た覚えがない、マリエの間抜け面がそこにあった。
目も口も開けっ放して呆けたまま、たっぷり一分間は固まっている従姉に、ユイは力いっぱい弁明する。
「いや、ぜんぜんわかんないわけじゃなくてねっ? 泉の乙女の詩とか原文で読むくらい大好きだし、共通法はエレンダール語だし、読めるし書けるんだけどっ、」
「……読み書きなら古典も法律用語も問題ないのに、聞き取りと会話は自信がない、とおっしゃる?」
その通りでございます。
土産物の民芸品のように、小刻みに首を縦に振るユイ。
「お嬢様? お嬢様。お嬢様、お嬢様! お嬢様!!」
「そ、そんなに怒らなくたっていいじゃないっ!」
「怒りたくもなります! ここがどこの国かご存知ですか!? どこの世界に自国の第一言語を話せない貴族がおりますか!」
「だ、だってぇ……。」
マリエが怒るのも無理はない。それはわかっている。だが、ユイにだって言い分はある。烈火のごとく怒るマリエに半泣きになりながら主張する。
「ラグロウズを出ることなんか、一生ないって思ってたんだもんっ。」
古典は好きだから学んだ。法律用語を含む現代文は必要だから覚えた。だがユイは神官、それも聖女だ。通常であれば、神官はお仕えする精霊様の近くを生涯離れることがない。だから本人を含め、誰もユイにエレンダール語の日常会話や聞き取りが必要だと考えなかった。結果、ユイのエレンダール語教育はひどく偏ったものになった。ゆっくりならばしゃべれるし聞き取れるけれど、決して堪能ではない。
「そういえばそうでした……。」
再びゴリゴリとこめかみを揉み解すマリエを、ユイは下から恐る恐る見上げる。
「マ、マリちゃん?」
「……ゆっくりならば大丈夫なんですね?」
「う、うん。たぶん。」
「たぶん!?」
「で、できますっ! ゆっくり正確にしゃべってもらえれば大丈夫ですっ!」
ユイを見返すマリエの視線があまりに暗くて、怖くて、ユイは首をすくめる。
なんだろう。雷親父の盆栽を割ったことがばれたいたずら坊主の心境は、こんな感じなのかもしれない。マリエの背後に暗雲が立ち込める幻が見えるような気がする。
「……わかりました。あたしも、アカデミーについていきます。おそばでできうる限りのフォローはいたしますから……。」
「マリちゃん……。」
感動のあまり潤んだ眼差しでマリエを見つめるユイ。だが、喜んでいられたのもそこまでだった。
「ですから、お嬢様も努力してください。今後、お嬢様にはラグロウズ語の使用を禁止していただきます。日常会話はもちろん、空いた時間はすべて、エレンダール語の習得に充ててください。」
「えええええっ!? だ、だって、例祭準備は!? 引越しは!?」
悲鳴をあげるユイに、「言葉」と、マリエは冷たく言い放つ。
「準備作業はすべて、我々が何とかします。食事を削ろうと、寝る時間を限界まで減らそうと。人間、死ぬ気でやれば大概のことはなんとかなります。なんとかするんです。」
ですから、お嬢様も結果を見せてくださいね?
悲壮感すら漂わせるマリエの笑顔に、ユイが勝てるはずもなく。
その後の半月のことは、説明するまでもないだろう。
……思い出したくもない、目の回る半月だった。
舌を噛みそうなエレンダール語漬けの日々。あれもこれもと心配するマリエにより、最終的にユイの部屋ごと引っ越すかのような規模にまで膨らんだ荷物。走り回ってかき集めても、ぎりぎりまで揃わなかった必要書類。さまざまなトラブルを乗り越えて船上の人となったときには、思わずほっとしてしまったほどだ。
その後は打って変わって平穏な二週間の船旅を堪能し、ユイたちは文化と歴史、伝統の中心地、シェリエールに降り立ったのである。
***
クィンシーに案内され、ユイたちは赤煉瓦を積んだ重厚な建物――教職員が使う一棟を訪れる。その間も視界に入るアカデミー内の施設をあれこれ説明されたり、当たり障りのない世間話をしたりもしたのだが、よく覚えていない。なにしろ、がちがちに緊張していたから。……マリエが介入してこなかったところをみると、たぶん、無難に答えられのだろう。
クィンシーの足が、立派な樫の扉の前で止まる。
「さあ、こちらが学長室です、ユーフィーミア。」
「ご親切に、どうもありがとう。」
「いいえ。あなたのお役に立てたならこれほど嬉しいことはありません。」
穏やかな微笑を崩さないクィンシーが、コンコンコンッとリズミカルに扉を叩く。
「ラチェスターです、学長。レディ・ユーフィーミア・カタスカーナをご案内いたしました。」
中から少しばかりくぐもった声で返答が聞こえると、クィンシーは扉を開け、右手を差し伸べてユイに入室を促す。
クィンシーは何も言わなかったが、深まった笑顔に言いようのないプレッシャーを感じ、ユイはおとなしく中に入った。ああ、顔が引きつっていなければ良いのだけど。
「ユーフィーミア・カタスカーナです、学長先生。特別聴講生として受け入れてくださったことに、感謝いたします。」
膝を柔らかく使い、腰を軽く落として淑女の礼をとる。いくら本音ではぜんぜん感謝などしていなかったとしても、だ。礼儀作法と外面くらい、ユイだって使えるのだから。
「いいえ。遠路はるばるご苦労様でした。ようこそ、帝国アカデミーへ。我々はあなた方を歓迎いたします。」
撫で付けた茶色の髪。理知的な青い目。恰幅の良い紳士が窓辺を背景にたたずんでいた。逆光を背に受け、両手を広げて立つその姿は高位の聖職者のようだ。優しく、清廉でありながら、どことなく威圧的な。
(これが学長――傍系とはいえ、皇族の一人……。)
ユイはこっそりとつばを飲み下す。
アカデミーを預かる学長ならばもちろん、皇帝に連なる者ならなおのこと、帝都の事情もユイが招聘された意味も知っているはずだ。
魑魅魍魎が跋扈する社交界をすいすい泳ぐように渡る彼らのような人たちに、ユイの小手先の知恵など通用するとも思えないけれど。
(でも負けない。ぜったい帰るって決めたんだから。)
表面上はたおやかに微笑んだまま、相手からは見えないように拳を握り、ユイが決意を新たにしたところで――
「……後ろの方は、付き添いの方ですか?」
マリエに話題を向けられ、ユイは意表をつかれた。
独身の令嬢が付き添い――侍女を連れて歩くのは当然のことだ。世話役だったり、スキャンダル防止のためのお目付け役であったり目的はいろいろだが、学内であっても同じだと聞いた。だから普通なら気にも留めないはずだ。クィンシーがそうであったように。
疑問には思ったが、聞かれたからには答えないわけにはいかない。ユイは斜めに少し体をずらしてマリエを紹介する。
「ご紹介が遅れまして申し訳ございません。こちらは従姉のマリエ・カーティスです。」
「お初にお目文字いたします、学長先生。マリエ・カーティスと申します。」
想定外の事態であっても、マリエはそつなく深々と頭を下げる。動揺もせずにさすが……と言いたいところだが、実のところ、マリエもしっかり動揺していた。深く頭を下げるのは慣れ親しんだラグロウズ流の作法であり、エレンダール流ではない。ラグロウズでは最敬礼に当たるお辞儀だけれども、生粋のエレンダール人である学長には滑稽に映るだろう。
だが、学長は懐かしそうに眦を下げた。
「ジョージ・カーティスのご息女ですね? 面差しがよく似ています。」
「はい。……父をご存知なのですか?」
「意外に思うかも知れませんね。ええ、お父上のことは、よく知っていますよ。学生時代からの友人なんです。」
「お父さんと!?」
「ジョージ伯父様と!?」
目を見開いて、思わずマリエと顔を見合わせる。マリエもこればっかりは聞いていなかったのだろう、驚きを隠せていない。
学長はいたずらが成功した子供のように心底楽しそうに、にやりと笑った。
「それにお兄さん――ユート・カーティスのことも、よく知っています。礼儀正しく、真面目で優秀な学生でした。そのまま学術院に上がってもらいたいと、教員総出で引き止めたものです。まあ、あっさり卒業してしまいましたがね。卒業式の教員たちは、ちょっとした悲劇の主人公のような嘆きっぷりでしたよ。」
そのときの様子でも思い出したのだろうか。学長は実に楽しそうである。
予想外の展開にユイは面食らった。てっきり、神殿のこととか、御魂鎮めの儀式のこととか、何か言われるのだとばかり考えていたのに。
「君たちがここに来る前になにを考えていたかは聞かないでおきましょう。でもこれだけは忘れないでください。ここはアカデミー。学ぶ意欲があれば、どんな身分の者であれ、ここでは等しく学問の徒です。でもそれだけじゃない。」
そう言って学長は、眩しいものを見るように深い青い目を細める。
「若さは誰もが授かる苦しくも輝かしい時間です。最中にいるときは永遠に思えても、過ぎ去ってみればあまりに儚い。若さを楽しみなさい。今しかできないことを楽しみなさい。失敗を恐れてはなりません。喜びも、哀しみも、すべてを自身の糧になさい。君たちにはそれができるし、また、必要でもある。」
戸惑うばかりで、ユイは言葉を失う。これでは学長は、ユイが呼ばれた目的など関係なく、学生生活を楽しめと言っているようなものだ。でもそんなこと、ありうるのだろうか?
黙りこむユイをどう思ったのだろう。学長はゆっくりと目を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。
「あとのことはラチェスター君に任せます。何かあったら彼に聞きなさい。ラチェスター、彼女たちの面倒を見るように。」
「かしこまりました。」
扉近くに控えていたクィンシーが優雅に一礼する。
学長との会見は、当初の予想とはまったく違う方向に転がって終了した。
案内の名目で、再びクィンシーにエスコートされて学内を散策する。
「お疲れではありませんか? あそこの四阿で休憩にしましょう。」
「ありがとうございます。お願いいたします。」
ユイも田舎育ちだ。少しばかり歩き回ったくらいじゃ疲れたりしない、普通なら。
普通なら問題にもならないが、身体的にはともかく、精神的には疲れきっていた。慣れない上品な笑顔を保ち続けるのにも、何気ない会話の一つ一つに神経を研ぎ澄ますのにも、舌を噛みそうなエレンダール語でしゃべるのにも。
相変わらず微笑を絶やさないクィンシーが、ユイを白亜の四阿に導く。赤に白にピンクに黄色。今を盛りと咲き誇る薔薇に囲まれた、白くて小さな四阿。柱には蔓薔薇が巻きつき、中にはテーブルとベンチが作りつけられている。外部との境界であるわずかな段差を上がったところで、クィンシーがおもむろに上着を脱いで石造りのベンチにばさりとかけた。自分の上着を、ベンチに。そしてユイをみてにっこり笑う。何かを期待した目でユイを見る。
(……えーっと……。)
これはアレか? ここに座れと? 人様の上着に腰を下ろせと?
なんとか表情は崩さなかった――というより、凍り付いて変えられなかった――ものの、内心冷や汗だらだらのユイである。
(というか、シェリエールの男の子はこれが普通なの!?)
だとしたら、文化が違いすぎる。ちょっとなじめそうにない。
「ユーフィーミア? どうかされましたか?」
カルチャーショックに固まったユイをどう思ったのか。クィンシーは怪訝そうに小首をかしげ、眉をひそめる。
困り果てたユイは後ろのマリエに助けを求めた。ちらりと視線を向けると、ユイと同じく困惑した様子のマリエだったが、それでもすばやくうなずいて返してくる。
……つまり、真っ向から戦えと。
「恐れ入ります……。」
覚悟を決めて、上着越しのベンチに腰掛ける。ただ、どっかり座るのもためらわれたのでそろそろと、端のほうにちょびっとだけ。
(あああ、いたたまれないっ……!)
これが普通の女性の扱いなのだとしたら、シェリエールの女の子の常識を疑うというものだ。人様の上着を尻に敷いて平気とか、どういう感性してるんだと聞きたい。
落ち着かないあまりいつも以上に背筋が伸びるが、顔はついついうつむいてしまうユイである。見事な薔薇を楽しむ余裕もない。
だがクィンシーは自分の上着が敷物扱いされることを当然のこととして受け止めているようだった。満足げにうなずくと、ユイの後ろのマリエに目を向ける。
「あなたもおかけください、ミス・カーティス。」
自分で勧めておきながら違和感があったらしい。クィンシーは顎に手をあてて目を伏せ、「んー……」と首をひねっていたが、すぐに顔を上げてすがすがしい笑顔を見せた。
「いえ、ここはやはりマリエとお呼びすべきですね。」
「……結構です。」
それは座ることに対してか、名前で呼ばれることに対してか。あるいはその両方か。
どちらにせよ、クィンシーの発言に表情ひとつ変えなかったマリエのプロ意識は賞賛されてしかるべきだと思う……。
だが、クィンシーもめげなかった。
「遠慮なさらず。立ちっぱなしではお疲れでしょう。」
「ありがとうございます、お気持ちだけいただきます。わたしはここで結構ですので。」
「そうですか?」
納得しきれないようではあったが、マリエがユイの背後から頑として動きそうもないことは伝わったのだろう。
「わかりました。」
諦めたクィンシーはおとなしくユイの向かいの席に腰を下ろす。うつむいたままのユイに視線を戻し、柔らかく微笑みかけた。
「お疲れでしょう。紅茶でも用意させます。」
公共の場だというのに、自分の屋敷にいるように振舞うクィンシーに、ユイは慌てて顔を上げる。
「ありがとうございます、ラチェスター様。ですが大丈夫です。お気遣いなさいませんよう。」
「クィンス。」
「いえ、あの、」
「クィンスとお呼びくださいと、お願いしましたね?」
声を荒げるわけでもない。睨みつけるわけでもない。柔らかなはしばみ色の目は穏やかで、ただただ静かに微笑んでいるだけなのに……底知れないプレッシャーがかかるのはなぜなのだろう。
「わ、わかりました、クィンス。」
結局ユイが折れた。クィンシーは晴れ晴れと笑ったあと、少しばかり困ったように眉尻を下げる。
「なかなか慣れないでしょうが、学長もおっしゃっていたように、ここではわたしもあなたも――貴族も平民も、等しく生徒に過ぎないのです。戸惑うこともおありでしょうが、受け入れてください。協力は惜しみませんから。」
「学長……学長先生は、なぜわたくしにあのようなことをおっしゃったのでしょう……。」
そんなこと、クィンシーに聞いたところでわかるはずもない。答えなど得られないことはわかっている。だが、ユイは問わずにはいられなかった。
クィンシーにしても、ユイが正解を求めてつぶやいたとは思っていないだろう。驚いたように軽く目を見張り、それでも「そうですね……」と顎に手をあてて考え込んだ――考えてくれた。
「あなたには事情がおありなのでしょう。講堂などで開かれる講演会に一般の方がいらっしゃることはあっても、アカデミーが聴講生を受け入れることは前代未聞なのです。ですが、学長がああもおっしゃったということは、どのような事情があろうとも、そればかりに捕らわれるべきではないということですよ。」
「……それがどんな事情かご存知ではないくせに……そうおっしゃるのですか?」
クィンシーは本当にきらきらしい。笑顔も、発言も。被害妄想かもしれないけれど、ユイの耳に偽善的に響くほど。
(こんなの八つ当たりだ……。)
ユイは唇を噛み締めた。わけがわからないからといって、他人、それも会ったばかりでこちらの事情など何も知らないクィンシーに当たるなど最低だ。わかっていてもやってしまう自分が、自分でもイヤになるのに――それでもやっぱり彼は笑うのだ。
「何があろうと、学長はアカデミーを守ります。望むなら誰もが平等に学問を学べるこの環境と、ここに集う生徒たちを――もちろん、あなた方を含めて。ですから信頼して構わないと思いますよ。微力ながら、わたしも学長に協力します。」
ユイの八つ当たりなど気にもかけないというように。眩しいものを見るように、目を細めて。
「学長はおっしゃったでしょう、楽しめと。だから、わたしたちと学生生活を楽しみましょう。ね、ユーフィーミア。」
ああ、学長に頼まれたからとはいえ、フォローも完璧なのですね。
クィンシーは多少面倒な人だが、善人には違いない。そうでなくとも、不慣れなユイを助けてくれるつもりなのだ。今は混乱するばかりの彼の態度にも、いずれ順応できる……かもしれないし。苦手だからとすべてを否定していたら、きっと何も始まらない。
礼には礼を。親切には感謝を。ユイは目を閉じて内心のあれこれを反省し、心を込めて頭を下げた。
「ご面倒をおかけして申し訳ありません、クィンス。お心遣いに感謝いたします。」
「とんでもない、顔を上げてください。言ったでしょう、あなたのお役に立てるならこれほど嬉しいことはありません、と。」
ユイは顔を上げ、クィンシーと微笑み交わすのだった。




